中学生というのは、少なくとも「学生」である。つまり、「生きることを学ぶ」のが仕事である。「生きる」とは、「勉強する」ことである。この時期の勉強が、勉強するという努力が、これからの人生の礎を築く。
竹の会では、「勉強する」ことに「迷いのない」子どもだけを求めている。勉強しない子、全く関心のない子、そういう子は竹の会の対象ではない。よく、竹の会のような勉強する子たちの中に(まるで勉強する気のない)「うちの子」を入れてもらえば勉強するようになるかもしれないという親が問い合わせをしてくることがあるが、全く迷惑な話である。勉強しない子になるというのは子どものわがままをそのままに放置してきたということであろうが、過保護のつけを塾に丸投げして責任から逃れるなどという虫のいい話はない。
◎勉強しないの形態
一口に勉強しないといってもそのありようは区々であり得る。家で夜遅くまでテレビばかり観ている、ずっと漫画ばかり読んでいる、ゲームに夢中で終わりがない、いつも外に出て仲間とたむろしている、等々。これに拍車をかけるように、土日に家族で出かけたり、長い休日があれば家族で旅行したりと、子どもたちが勉強しないことの言い訳に困らない、行事がたくさんある。この日は特別だというのがある。が、勉強しないことは、特別ではなくなり、あたりまえになっていることに親は少しも気づいてはいない。
何かをしていたら勉強しないことが問題にされない例として、部活がある。小学生だとサッカーや野球というのがある。習い事やお稽古事というのがある。
部活で遅くなり疲れ果てて毎日家に帰ると眠るばかりの子に親は、子どもが勉強しないということを特に問題視しないで、かえって大目に見る傾向がある。中には、部活の邪魔にならないような塾を探す親もいる。親が公然と部活を理由に勉強を軽視する。高校入試はスポーツ推薦でと考える親もそれなりにいる。中学のときあれほど夢中であったバスケなり、サッカーなりを推薦で入った高校で続けるという子は少ない。それどころかあれほど熱中したはずのバスケを止めたら、することもなく高校中退という話はいくらでもある。
そういう話はどうでもよく、要するに、勉強しないというのは、ほかに何かに夢中で勉強を犠牲にしている一切の形態をいうのである。
◎時間はただではない
時間はもちろんカネでは買えない。これから残された人生で使える時間というのは限られている。しかも、若い細胞で満たされた脳の使用可能期間はあまりにも短い。このときに勉強しないことの代償はあまりにも高くつく。若いとき、時間はいくらでもあると思っているのは、とんでもない誤解である。
とにかく若い時分に時間というものがいかに貴重なものなのかということを悟らないことの代償は大きい。
時間をどぶに捨てるというのが真実である。惜しげもなくどぶに捨てる人のなんと多いことか。
時間を捨てるのは取り返しのつかないことなのだということを知るのはやがて自分が歩くことになるであろう苦難の人生の不遇を悔いるときであろうか。そのときに「もっと勉強しておけばよかった」と思ってもすでに時は遅い。そのときに自分の払った代償の大きさを知る。人間というのは、そういうことになってみなければ「わからない」というやっかいな生き物である。
勉強しないという選択は、時間という大きな代償を支払ってのみ可能なことである。
ゲームを何時間もやっている時、時間というかけがえのないものを、際限なくどぶに捨てているということに思いいたらないのか。
◎凡人とは続けられない人のこと
時間は「勉強する」ことにのみ本来使うものである。人は「生きる」ためにのみ時間を使うべきものだからである。学生は「勉強する」ことが、「生きる」ことであるのだから。
長じて社会に出れば「仕事をする」ことが「生きること」である。
「勉強する」ことを「あたりまえ」のこととして、「あたりまえ」のことだから、やるのが当然、続けるのが当然として心の整理をしていなければならない。
「黙っている」ことが「あたりまえ」としなければなるまい。
考えてはいけないこともある。「あたりまえ」として行動するだけでいいこともある。
「あたりまえ」のこととしたら疑わない。勉強一直線でいいではないか。
これと世の中の人が「あたりまえ」ということをそのまま受け入れて疑わないのとは違う。世の中の「あたりまえ」は自分にとっては「あたりまえ」ではありえないのだから。
竹の会では、「勉強する」ことに「迷いのない」子どもだけを求めている。勉強しない子、全く関心のない子、そういう子は竹の会の対象ではない。よく、竹の会のような勉強する子たちの中に(まるで勉強する気のない)「うちの子」を入れてもらえば勉強するようになるかもしれないという親が問い合わせをしてくることがあるが、全く迷惑な話である。勉強しない子になるというのは子どものわがままをそのままに放置してきたということであろうが、過保護のつけを塾に丸投げして責任から逃れるなどという虫のいい話はない。
◎勉強しないの形態
一口に勉強しないといってもそのありようは区々であり得る。家で夜遅くまでテレビばかり観ている、ずっと漫画ばかり読んでいる、ゲームに夢中で終わりがない、いつも外に出て仲間とたむろしている、等々。これに拍車をかけるように、土日に家族で出かけたり、長い休日があれば家族で旅行したりと、子どもたちが勉強しないことの言い訳に困らない、行事がたくさんある。この日は特別だというのがある。が、勉強しないことは、特別ではなくなり、あたりまえになっていることに親は少しも気づいてはいない。
何かをしていたら勉強しないことが問題にされない例として、部活がある。小学生だとサッカーや野球というのがある。習い事やお稽古事というのがある。
部活で遅くなり疲れ果てて毎日家に帰ると眠るばかりの子に親は、子どもが勉強しないということを特に問題視しないで、かえって大目に見る傾向がある。中には、部活の邪魔にならないような塾を探す親もいる。親が公然と部活を理由に勉強を軽視する。高校入試はスポーツ推薦でと考える親もそれなりにいる。中学のときあれほど夢中であったバスケなり、サッカーなりを推薦で入った高校で続けるという子は少ない。それどころかあれほど熱中したはずのバスケを止めたら、することもなく高校中退という話はいくらでもある。
そういう話はどうでもよく、要するに、勉強しないというのは、ほかに何かに夢中で勉強を犠牲にしている一切の形態をいうのである。
◎時間はただではない
時間はもちろんカネでは買えない。これから残された人生で使える時間というのは限られている。しかも、若い細胞で満たされた脳の使用可能期間はあまりにも短い。このときに勉強しないことの代償はあまりにも高くつく。若いとき、時間はいくらでもあると思っているのは、とんでもない誤解である。
とにかく若い時分に時間というものがいかに貴重なものなのかということを悟らないことの代償は大きい。
時間をどぶに捨てるというのが真実である。惜しげもなくどぶに捨てる人のなんと多いことか。
時間を捨てるのは取り返しのつかないことなのだということを知るのはやがて自分が歩くことになるであろう苦難の人生の不遇を悔いるときであろうか。そのときに「もっと勉強しておけばよかった」と思ってもすでに時は遅い。そのときに自分の払った代償の大きさを知る。人間というのは、そういうことになってみなければ「わからない」というやっかいな生き物である。
勉強しないという選択は、時間という大きな代償を支払ってのみ可能なことである。
ゲームを何時間もやっている時、時間というかけがえのないものを、際限なくどぶに捨てているということに思いいたらないのか。
◎凡人とは続けられない人のこと
時間は「勉強する」ことにのみ本来使うものである。人は「生きる」ためにのみ時間を使うべきものだからである。学生は「勉強する」ことが、「生きる」ことであるのだから。
長じて社会に出れば「仕事をする」ことが「生きること」である。
「勉強する」ことを「あたりまえ」のこととして、「あたりまえ」のことだから、やるのが当然、続けるのが当然として心の整理をしていなければならない。
「黙っている」ことが「あたりまえ」としなければなるまい。
考えてはいけないこともある。「あたりまえ」として行動するだけでいいこともある。
「あたりまえ」のこととしたら疑わない。勉強一直線でいいではないか。
これと世の中の人が「あたりまえ」ということをそのまま受け入れて疑わないのとは違う。世の中の「あたりまえ」は自分にとっては「あたりまえ」ではありえないのだから。