草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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諸事雑感'11.8.15

2011年08月15日 13時20分36秒 | 
 お早うございます。今日はお盆休み最後の日です。明日からまた夏期指導が始まります。といってもお盆明けからの夏期日程は早終盤に突入します。例年そうですが、夏は一気に終わりいつも『思ったほどのことはやれなかったな』というのが印象です。ただ夏の暑い中を長時間勉強に取り組んだという事実は9月以降のさらなる集中した勉強の継続を無理なく可能にしてくれること、これこそが夏の成果なのかもしれません。それにしても全国過去問だけは、できれば京都までは終わっていてほしいというのが、正直な気持ちです。遅れれば遅れるほど合格から遠のくという感じは持っています。家庭でどれだけ進められるかとにかく残りの夏休みを意味あるものにしてほしいと願っています。
 
◯思考の不自由さ

 世の中には様々な規範というものがまるで霞網のように張り巡らされています。私たちの住む社会の中には私たちの心を縛る様々な法規範や社会規範があります。社会規範というものは法規範のように法的強制力のあるものではありません。事実上のしかしかなり強い強制力はあると思います。古くは儒教的な教えに由来すると思われる規範、仏教の教えに由来する規範、長い間に形成せられてきた正体不明の道徳という概念に包摂される様々な規範が私たちの心を縛りつけています。
 昔は、村人は村の掟に反すれば村八分という制裁を受けました。昔から、集団の均質性に反する行動をとればそこには大きな制裁が待っていました。「・・・である以上・・・でなければならない」という発想が頑なにとられるのが日本の社会です。「・・・である以上」の「・・・」には、「日本人」とか、「男」とか、「女」とか、「教師」とか、「お坊さん」とか、「政治家」とか、まあいろいろ入るわけです。そして「・・・でなければならない」の「・・・」には、なにやら窮屈な規範が入ります。このような発想が、日常生活の隅々にまで入り込んでくるとこれはもう「思考の不自由さ」を感じざるを得ないと思うのです。リベラル派を標榜する新聞や教師は、ことあるごとに均質性規範を批判し、多様性の重要なことを訴えます。多様性規範を認めることには私は全然異論はありません。しかし、彼らの主張する多様性というものが、仔細に観察してみると実は均質性規範の実相を持っているという事実に実は気づいていない。
 日本の社会というのは、私ひとり変であとは全員普通というとき、必ず不寛容である。転校生しかり、村の新参者しかり、・・・とにかく均質なことが秩序と思っている。均質性規範を重視する中で教師や新聞が多様性を正義のように主張するのはよろしい。しかし、たとえば社会的弱者の権利を認めるという名のもとに多様性規範を主張したとしても、社会的弱者は堂々と文句を言うべきだというのは結局社会的弱者は「・・・でなければならない」という均質性を説いていることにならないか。そこには社会的弱者の選択の多様性は一切認めないほどに均質の強要がある。
 私たちは、常に他人から勝手に「・・・なんだから・・・するのが当然だ」という押しつけにさいなまれる社会に暮らしている。本当に勝手に個人の自由な同意は全くないのに義務を押しつけてくる。集団の均質化という圧力に抗するにはエネルギーがいる。そういえば漱石が「義理を通せば窮屈だ。情に棹させば流される」といったほどに思考の不自由さは日本古来の病理なのかもしれない。
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