草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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虚と実

2015年07月07日 13時14分58秒 | 
 おはようございます。今日も梅雨、曇りですが、明日は本降りになりそうです。
 受験生には、かけがえのない7月、8月です。 しっかりと勉強できているでしょうか。 家庭での学習時間は結果的に「5時間」、最低でも5時間というのがわたしの希望です。
 今、この時期に3時間そこそこでは「受かる」などと図々しく夢を持ってほしくない。 試験というものはそういうものです。 勉強しない、もしくはできない理由というものに、大義名分があったとしても、そういうことを斟酌して掲示板に番号がのるかどうか、が決められることはない。 動機の如何を問わず勉強したか否か、だけが純粋に問われるだけです。
 よく言われる言葉に、プラス思考とマイナス思考というのがありますが、どうもわたしにはこの言葉がそぐわない、実体に即していない、という気がしていました。
 その原因はどうも「思考」という言葉にある気がします。思考とは心の作用、状態を意味しているのかな、と思いますが、われわれの言葉というのは、なんらかの形で行動と結びついてこそ意味があると思うからです。
 わたしは時代小説を読むのが好きですき間時間にはたいてい何かの本を読んでいます。読むペースは1日1冊です。ですから、文庫本月30冊となりそうですが、読むのは、時代小説に限らない、様々な新書、単行本、雑誌などにも及びますから、必ずしもそうはならない。 
 牧秀彦の小説に、次のような言葉を見つけました。 それが表題にある、「虚と実」です。 この言葉は、今風に言えば、マイナス思考とプラス思考かな、と思うのですが、必ずしもそぐわない。
 牧は、剣術に関して、述べているのですが、「引いた体勢は虚、前に出た体勢は実と称される」と述べ、後方に身を置いた体勢は、機先を制して前に出たものよりも二重、三重に「虚」だ、と述べています。
 「虚」は、よくない体勢として語られている。 これをわたしたちの日々の行動、勉強にあてはめてみましょう。
 わたしは、「実」のある勉強をしてほしいと思っているのです。「実」のある理解を示してほしいと思っているのです。
 形式的な勉強時間が、5時間あったとしても意味がない。算数の問題がわからなくてずっと考えていたら、数時間が過ぎていた、時間の経つのを忘れで勉強に没頭していた、これです。
 レジュメをやっている子たちを見ていると「虚」を感じる子と「実」を感じる子がいる。
 「虚」を感じる子は、わたしには虚しさしか残らない。 たとえば、単位あたり量というのを理解させよとする。「単位あたり」の意味を理解して、新しい問題を理解した枠組みでとらえようとする子は「実」をとっている。しかし、例題なりに示された「操作」にばかり気をとられて、意味を理解しない子は、同じような問題が、「問い口」を変えて出されると、それだけで行き詰まる。「虚」の状態にある。一歩も二歩も後方に身を置いた体勢にある。
 割合のレジュメを解いたり、適性問題のレジュメを解いたり、しても、なかなかまともに解くことのできない子たちの一群がいる。レジュメには確かに難しいシリーズもある。だから、ここは能力の深浅がそのまま反映することもしかたない。
 今、自分の勉強が、「虚」なのか、「実」なのか、ということである。 意味を理解して、新たな課題に自分の理解した枠組みを試してみる、こういう勉強を進められればいいけれど、新たな課題に出会うたびに、これまでに蓄積した枠組みが機能しない、全くの振り出しのままに、「わからない」を繰り返す、これは俗に言う「負のスパイラル」にあるということである。
 「正」と「負」という言葉も「虚と実」には及ばないような気がする。
 「負のスパイラル」は、言い得て妙だが、行動のありようを示す「虚」と「実」には及ばない。
 理解が、「虚」である限り、前へ進むことはない。 操作的理解しかできない子が自分の力で解き進めて前へ進めることは期待できない。
 「わかった」というとき、操作がわかったのか、操作に内在する意味がわかったのか、である。
 「わかった」は、「実」でなければならない。
 説明して「わかった」という子たちには一抹の「不安」がつきまとう。それはただ「虚」を積み重ねているだけのことにならないか、危惧があるからである。
 日々の行動も「虚」と「実」で語られる。
 「虚」というのは、マイナス、負以上にリアルである。マイナスというと、反対向きではあるが、実在する。勉強しない、というのは、不作為において実在である。
 しかし、「虚」というのは、この世に存在しない、無である。
 ゲームに何時間も没頭することがこの世に存在しない「虚」を作りだしているということである。習い事、稽古事も勉強ということを志したのであれば「虚」になる。
 音楽を聴きながら勉強するのはどうか。「虚」である。
 「虚」は、「嘘」に通じる。 嘘をつく、のはなぜ悪いことなのか。 嘘をつくというのは、自分を飾ろうとすることにほかならない。嘘で飾られた自分は、「虚」像にほかならない。
 わたしたちは何かを理解しようとするときに、わかろうとするときに、「実」像をつかもうともがくのである。
 意味を理解する、正しく本質をとらえる、正確にしくみをとらえる、そうした実のある勉強をこそしなければならない。

 
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