わんわんらっぱー

DIYやオーディオから社会問題までいろいろ書きます。

断捨離とかミニマリストとかは自活手段を奪う謀略ではないか。個人の自活こそが日本対米独立への道。

2017-01-30 07:42:35 | 環境
ガンジー自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)
中央公論新社


 断捨離が流行ったかと思ったら、今度はミニマリストという物を持たない生活スタイルを流行らそうということで、電通ダマスコミが喧伝している。
 一見するとモノを買わないし、持たないので、お金が節約できそうだが、ミニマストの紹介記事を読むと、そんなに簡単な話しではないようだ。
 モノを持たないなりに自炊すれば良いのだが、基本的に外食が多くなる。また、屋外で提供されるサービスへの依存度が高くなる。そうなると、最終的に支出は増加する。

 かといって、私のようなオタク族特有のモノ大量所有は生活へ悪影響を及ぼす。これもまた真実ではある。生活に支障を及ぼす程にモノを大量に持つことは、絶対に避けるべきである。不要なモノと必要なモノの境目は「生活に必要であるか」「仕事に必要であるか」という点にある。「生産財」としての要素があるモノは捨ててはならない。逆に単に趣味であったり、蒐集が目的のモノは売ってしまうか処分してしまったほうが良い。
 仕事に使うモノの場合は壊れた場合を想定して、予備を持っていた方が良い。予備機材で救われたことが何度か有る。
 私個人としては、スマホが一つあれば十分という「電子蜘蛛の糸」みたいな生活も嫌である。どうしても、電子情報統合装置としてのパソコンは必須である。書籍やCDやDVDをパソコンに入れてしまえば、物理的には整理整頓できる。但しHDDの中身での整理は必要ではある。
 PCオーディオがあるので、据置型のオーディオ装置も無くても実の所はあまり困らない。だが、ホームシアター装置やオーディオ装置によって、演奏会や映画館に行かなくて済む。最先端の映画館の音響品位がどの程度か不明だが、地元の映画館の音響はあまり良くない。「質より量」なのである。「質も量も両立するのは難しい」が不可能ではない。自宅と映画館の音質を考えると、少なくともお金払って映画を見に行く必要性を感じない。映画館の優位性はスクリーンの大きさにあるが、一人で見たほうが、映像に圧倒的に支配される。

 内製化した方が良い面もある。工具にしても、小型のものであれば一通り持っていた方が良い。殆ど出番のない「ショックドライバー」というのがある。ネジ山を舐めてしまった時に、あてがってトンカチで叩くとネジが緩むのである。これで助かったことが有る。断捨離基準では六ヶ月間で使わないモノは捨てる、ということだが、この基準に基づくとショックドライバーは捨てられてしまう。複雑化した現代では、機材を維持し、整備するための道具の保持もまた必要なのである。かといって、大型装置の購入や保有は考えものである。値段も高く場所も取る。小型の装置で凌げる場合は、そうした方が良い場合がある。

 サービスの外部化は消費税率上昇によって抑止されている。消費活動自体に「関税」を設けるのが消費税である。モノを持たない事は一見すると、消費を抑制する作用があるが、外部によるサービス提供への依存度が増す。そして、外部依存が増加すると消費税によって「懲罰」が下される。
 仮に自給自足できれば、徴税を受けることもない。経済的な尺度からみると、成長の逆で衰退なのかもしれないが、個人が自らできることを増加させることは「能力の成長」に他ならない。現代経済は「個人能力の衰退」によって成長している側面がある。個人に出来ることを制限させて、現代社会への隷属度合いを増加させる。金銭収入がなければ生活出来ないように追い込む。そうなれば、現代社会にどれだけ不具合があっても、その不具合を受容して生きていかねばならない。そうやって、現代日本社会の膿が蓄積されてきたとも言える。
 本当に必要な財物なのかサービスなのかよく見極め無くてはならない。不必要もしくは有害な財物やサービスが溢れている。クレジットローンやリボルビング払いを前提とした悪徳契約も多い。自活を前提として考えれば、解決できる事も多数ある。個人が自発的に考えて、技能や知識を吸収し、金銭への依存度を低下させ、社会的な意味での自給自足への努力を行わなければ、日本社会の抱える害毒にやられてしまう。
 対米関係も同じである。米国によるエネルギーや医療や情報支配によって、日本政府や人民は弱体化させられている。個人による自活は、最終的に対米隷属体制からの独立に結びつく。なぜ、インドの独立を提唱したマハトマ・ガンジーが民族衣装を纏い、自ら糸を紡ぎ、海塩の採取を説いて自給自足を励行させたのか考えればよく分かることだ。

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