わんわんらっぱー

DIYやオーディオから社会問題までいろいろ書きます。

『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』の紹介

2020-12-06 22:35:30 | 哲学
The Swerve: How the World Became Modernの邦訳
著者スティーヴン グリーンブラット, Stephen Greenblatt

 著者スティーヴン・グリーンブラット(Stephen Greenblatt)はシェークスピアやルネサンス研究の専門家。

 1417年・15世紀、教皇の秘書でありブックハンターであり、優秀な筆写人でもあったイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニがドイツのフルダ修道院で、古代ローマ詩人ルクレティウスの『物の本質について』を見つけ出し、世に送り出す経緯が「推測」も含めて描かれている。そして、『物の本質について』に影響を受けた人たち、キリスト教の呪縛から解き放たれてルネサンスを作り出していくのである。
 ポッジョは教皇秘書として古典写本の収集翻訳に携わっていた。
当時は移動そのものに制限がかけられており、関所の通行料など多額の旅費を必要とする時代であった。
 フルダ修道院で『物の本質について』を見つけ出したというのは著者の推測であり、ポッジョがドイツ南部のフルダ修道院に立ち寄った履歴から、写本をした可能性が高い場所として「決め打ち」している。
 
 活版印刷発明以前においては正確無比な写本術は極めて重要な技術であった。ポッジョは自身の高い写本術を駆使するとともに、ブックハンターとしてもすでに著名であり、古典で「読むに値する」として示唆されていた「ルクティウス」の著書を探していた。ポッジョによってルクティウスの著書は歴史の泥流から拾い出されたが、他に挙げられていた人物たちの書籍は1冊も見つかっていない。
 多神教時代の書籍を僧院で閲覧する事自体が極めて難しい時代において、教皇の秘書という立場は優位に働いたと推測される。著書は加えてポッジョの優れた交渉人としての能力を挙げている。
 ポッジョ自身が『物の本質について』の真意、つまり、古代ギリシャのエピクロス学派の系譜に連なる原子論が唱える世界観についてどの程度理解していたのか定かではない。
 ブックハンターとしては同時代のニッコロ・ニッコリが有名であり、ポッジョは『物の本質について』はニッコリに長く貸し出している。「早く返してくれ」と督促の手紙が残っている所見ると「写本の写本」は作っていなかったようであるし、ポッジョ自身が内容を深く吟味する工程については本著作内では見受けられない。

 活版印刷以前の時代は本の複写は写本をする以外の方法はなく、パピルスは「虫による侵食」に長い年月を耐えることができなかった。僧院では羊皮紙を写本としていたが、羊の皮を使っているので、費用も高く貴重なものであったが、長い時間に対する耐久性には優れていた。羊皮紙は貴重であったが故に、小刀で全文字を削って上書きして再利用されており、削り取れた文字を判読して発掘された著作が幾つも存在する。

 著者は中世キリスト教の現世否定来世礼賛から西欧が抜け出した起因を(ギリシャ時代)エピクロス-(ローマ時代)ルクレティウスの原子論の発見によるものであり、「死後の世界は存在しない」とする現世肯定思想の伝搬によるとする。著者は近代社会の到来は「原子論の再発見」によるものと推論しているのである。

 原子論とは、万物は原子で構成され、人も動物も山も海も星も同じもので出来ていると主張したのである。人は死ねば、原子に戻り、その原子が今度は他の動物や植物を構成することになる、という考え方である。
 加えてエピクロス学派は、人が死ねば霊魂など残らないし、来世のことなど思い悩むのではなく、生きている人生の充実、楽しみをこそ最大にするように生きるべきだと主張した。

 エピクロス思想家を「エピキュリアン」と呼称し、通俗的には「エピキュリアン」は快楽至上主義とされている。しかし、エピクロスは前述の通り、堕落や怠惰や退廃的な快楽を主張したわけではない。
 エピクロスの思想は時を経て蘇り、研究者の間では復権を遂げ、まさに「時による救済」とはエピクロスのための言葉であるとまでも言われているが、一般的には意図的な誤解がまかり通っている。

 一つには、キリスト教とエピクロスの思想が相容れる事がなく、エピキュリアンは「肉体の復活」や「魂の不滅」を唱えるキリスト教を根底から否定する以前に、全く考慮に値しないと「冷笑」したのである。
 これに対し、キリスト教側はエピクロス思想に対する徹底的な封殺を行ったのである。
 後に溶岩流に埋まったポンペイの別荘から『物の本質について』が記述されたパピルスが発掘されるのであるが、極一部しか解読できなかった。
 グリーンブラッドは(信仰の熱波は)「ヴェスヴィオス火山の溶岩流ほどは優しくなかった」と揶揄している。
 つまり、それほどに徹底的なエピクロス思想の殲滅が行われたのである。

 修道院では頻繁に「折檻」が行われていた。金具を付けた鞭で幾度も折檻し、隣にいた司祭に飛び散った血が顔にかかることもあったそうだ。
 おそらく「過剰な折檻」で寿命を縮たり、そのまま死に至ることもあったと推測される。
 これはエピクロス的な苦痛は避けて快楽的な状態に身を置く、という思想と対極的な行為である。
 死後の世界に重きを置くキリスト教と、現世をより良く・より心地よく生きることを主張したエピクロスは対向概念とすら言える。

 この事がエピクロス的思想が長い間隠匿された最大の理由と思われる。

 ポッジョ自身は『物の本質について』の発見により名声を高め、教皇庁内部での役職の階段を登っていくが、後に『物の本質について』は印刷が禁止され、ルクレティウスの世界観を公然と語ったものは火あぶりにされた。

 しかし、原子論的世界観はラファエルやボッチチェリをはじめとするルネサンスの芸術家に影響を与え、ニュートンに影響を与え、トマスジェファーソンのアメリカ独立宣言に影響を与え、そしてダーウィンの進化論にも影響を与えた。

 マキャベリが所有していた『物の本質について』には多量の書き込みが残されており、相当に読み込んだ痕跡が伺える。触発されて『君主論』を著したとされる。
 マキャベリはチェーザレ・ボルジアと親交があり、レオナルド・ダ・ビンチは一時期チェーザレをパトロンとして従軍を経験している。
 ダ・ビンチがラテン語を習得すべく、単語を繰り返し書いたノートが残されており、私はダ・ビンチも『物の本質について』の影響を受けている可能性があると推測している。


ルクレチウスと科学 寺田寅彦
現代科学にそのまま適用はできないが、2000年も前に近代の物に即した見方に通じる科学精神が存在していた、という評価。


雨だれが石を穿(うが)つのは、
激しく落ちるからではなく、
何度も落ちるからだ。
(ルクレティウス)

(おすすめ)
Stephen Greenblatt on Lucretius and his intolerable ideas
https://www.youtube.com/watch?v=mXqHOF1B808&ab_channel=GettyMuseum

ペロポネソス戦争と感染症とソクラテス

2020-11-17 22:51:45 | 哲学
注意:単なるメモ書きに近く、きちんと、原典の確認をしていない。
幾つかの記述はウィリアム・H. マクニール「疫病と世界史」を参照している。

 古来、アフリカ平原部ではツェツェ蝿が媒介する「眠り病」が蔓延しており、野生動物を人から護る役割を果たしてきた。サバンナの動物が狩り尽くされなかったのは、感染症が常に蔓延している状態が人類を抑圧する状態においていたからだと言える。(麻雀放浪記の原作者・阿佐田哲也氏は眠り病だった)
 マラリアの感染抑制と人口の稠密度には一定の関係があると見られ。灌漑や治水や上水道にる『水の管理』がマラリアを媒介とする蚊の発生を防いだ。
 蚊は一般的に人よりも家畜の血を好む。家畜はマラリアに感染しないので、家畜と同居状態だったこともマラリア抑制に寄与したと見られている。

ペロポネソス戦争の開始翌年の前430年にアテネに疫病の大流行が起こった。
 18世紀までは主たる感染症は腺ペストであったため『ペスト』と推測されたが、トゥキュディデスによる詳述された症状からみて天然痘ではないかと言われているが、現在存在する感染症のどれとも一致しない。強いて言えば「エボラ出血熱」に近いと言える。
 だが、ヒポクラテスやその後継者達の書物には天然痘や「はしか」の症状を思われる記述はないが、マラリアを想起させる慢性的な熱病患者の症例は記述されている。
 アテネを襲った「謎の悪疫」はエチオピア由来とされ、地中海海路の発達で容易に伝搬するようになっていた。陸路の場合、疾病に倒れれば「その場に放棄」されていたが、船の場合は行き先まで運ばれてしまい、海運は感染症を容易に伝搬させたのである。

○ペロポネソス戦争
 ギリシア民主政の指導者であったペリクレスはスパルタとの戦争にそなえてアテネ人をアテネ城内に移住させていたので市内の人口は過密になっていた。
 場外にスパルタ軍が押し寄せる中で、アテネ城内では悪疫が蔓延した。真夏の炎天下、疫病は蔓延し、神殿と言わず、路上と言わず死体が転がっているという惨状となった。アテナイ陸軍兵士の4分の1が斃死したという。
 広場に集まって酒を飲んだり議論する風習が感染の拡大を招いたとも推測されている。
 トゥキュディデス『歴史』の二巻には、医師たちは患者の治療に当たり、懸命に病因究明に努めたが、医師たちは死に、希望の喪失、アテネ城内の無法状態、神々への畏敬の無力化、運命観・倫理観の変化などが綴られている。

 当時、医師たちは懸命に病因究明に努めたが、結果として次々と疫病の犠牲になってしまった。その感染力の強さは基礎疾患の有無に左右されなかった。アテナイの市民は完全に恐慌状態に陥いった。神殿に押し寄せて祈りを捧げる者も多数出たが、無意味だと分かると、誰も神殿に寄り付かなくなった。
 アテナイの市民の間では、その日限りの享楽的な生活を送る人が増加し、法律を犯したとしても、刑を受けるまでどうせ生きられぬのだから、その前に人生を楽しんで何が悪いのかという思いを誰もが抱くようになっていた。

 ペリクレスは大演説でアテネ市民の決起を促したが、ペリクレス自身も二人の子供をペストで亡くし、ついに自らも開戦2年目に疫病に倒れて亡くなった。
 ペリクレスが死んでアテナイは無秩序に戦争拡大に向かった。

○ソクラテスの生涯
 後に哲学者として記憶されるソクラテス(前470年-前399年)は石工の父と助産師の母のもと、アテネ近郊に生まれた。若い頃に数学や自然哲学を学び、ペロポネソス戦争に重装歩兵として何度も出陣している。哲学者として著名となった後にも戦時に従軍した。
 
 ソクラテスの言葉を書き残した重要人物として、「プラトン」と「クセノフォン」が挙げられる。
 ペロポネソス戦争によって法や国制への尊敬・信頼といったものが崩れていいったが、プラトンはソクラテスに学び、政治論を展開するに至った。

クセノフォンは、前427年頃~前355年頃の古代ギリシアの軍人、哲学者、著述家。師であるソクラテスの言行を残した『ソクラテスの思い出』やトゥキディデス『歴史』の後を受けた『ギリシア史』を著した。『ギリシア史』の完成によりペロポネソス戦争の記録が完成した。

 ソクラテスは40歳前後に起きたペロポネソス戦争(431~404年)から、時勢は変わり、ギリシア人の間における世界大戦とも見なされるべき、大戦争が断続しながら、約30年に渡って戦われ、人々の生活に暗い蔭を落としたのである。
 そして、この憂鬱な大戦争は、ソクラテスの祖国の敗北をもって終わった。アテナイには、占領軍の武力を背景とする、いわゆる三十人の独裁政権が樹立されるなど、戦争の終結は、必ずしも平和を意味しなかった。このような終戦の混乱のうちに、ソクラテスに死刑判決が下り、ソクラテスは脱獄も容易であったにも関わらず、自ら毒杯を飲み干した。
 ソクラテスの死刑判決についてはソクラテスの弟子とみなされたペリクレスが指揮したペロポネソス戦争の敗北責任が挙げられる。
 また、ソクラテスは当時の国教であったオリュンポス十二神に対して、一神教者とみなされた。実質的には不可知論者であっとされる。
 アテナイにはソフィストVS哲学者の構図もあった。アテナイは討論を通じて徹底的に真実を追い求める新興勢力であった哲学そのもの対して「死を迫った」のである。
 ソクラテスの最後については詳述された文献が残っている。私見ではソクラテスはペロポネソス戦争に従軍した武人として、また、真理の探求や不条理との闘争を行った哲学者として、本来避けられたはずの「死刑判決による」死を避けず主体的に人生の幕引きを図ったと考える。

<魂は滅す 現世を禁欲で>エピクロスの一生と残光

2018-10-28 19:56:05 | 哲学
 エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。
彼が生まれ育ったサモス島は、淡路島ほどの大きさの地中海東部に浮かぶ島で、小アジア本土の岬とは目と鼻の先にある。エピクロスの父ネオクレスはもとはアテナイ地方の農村出身で、およそ30年前の入植者の一人である。ネオクレス(父親)とカイレストラテ(母親)の間に四人の子供がいた。(1)

 父親であるネオクレスは、もともとはアテナイの市民であり、アテナイの市民権も持ってたが、ギリシア人がサモス島に入植してきた際に、アテナイからサモスへと移住した。

 当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアで(プラトン派)クセノクラテスの、またリュケイオンで(アリストテレス派)テオプラストスの講義を聞いたと言われる。
 同年、東方遠征をしていたアレクサンドロス大王が遠征先で病死する。ポリス国家を中心とする古代ギリシアの秩序が大王の世界遠征により解体され、さらに大王が弱冠33歳で早世した事によって帝国の秩序も崩壊した。大王は内政には迂遠であり、後継者指名を行わなかったため内戦となる。

 2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、都市テオスにてデモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下でデモクリトスの原子論を学んだと思われる。(2)
 原子論はレウキッポスによって提唱され、デモクリトスによって大成された。デモクリトス→キオスのメトロドロス(間接的に継承)→アブデラのアナクサルコス→エリスのピュロン→テオスのナウシパネスと連なる。

 紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年にはミュティレネや小アジア北方のラムプサコスに移り、後のエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。

 紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。人里離れたアテナイの郊外に庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。この時、エピクロスは35歳になっていた。
 このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生としてマンマリオン、ヘディア、エロディオン、ニキディオン、ボイディオンらの遊女の名前を記録している。女奴隷もいて、パイドリオンがその管理をした。彼女はエピクロスの嘱託を受けて、奴隷解放に努力した。(3)
 当時は男尊女卑の傾向が強固であり、奴隷制度下であった。このことからエピクロス主義者(エピキュリアン)は快楽主義者などと誹謗を受けたと指摘されている。実際の教義内容は禁欲に近い。

 エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。

◯死後の否定



「死はわれわれといかなる関わりをもたないと考えることに慣れよ。なぜなら、善も悪もすべて感覚なくしてはありえず、しかるに死は感覚の途絶にほかならいのだから。それゆえ、死がわれわれにとっては無であると正しく認識することは、生の<死すべき定め>を楽しみに変える。その認識が主に無限の時を付け加えることをやめ、不死への憧れを取り除いてくれるからだ。生なきことに何も恐れるものはない」(『メノイケウス宛書簡』124-125)

◯自己意識の絶対性
 ルクティウスについて記述が殆ど存在せず、BC54年にキロケが弟に宛てた書簡が残っており「ルクレティウスの詩は、おまえの言うとおり天来の閃きに溢れているが、同時にまたきわめて技巧的な作品だ」というのが同時代における唯一の記録である。
 エピクロスの主著『自然について』が失われた理由の一つに、ルクレティウスが才能溢れる詩人としてエピクロス哲学の概要を精彩ある筆致で魅力的に著した書『事物の本性について』によって、覆い隠されてしまった可能性が指摘されている。
 ディオゲネス・ラエルティオスによると、エピクロスの著書の量では同時代のすべての人を越えており、巻物の数は300にも達していたとされる。

ルクレテイゥス『事物の本性について』251-262
さてそれでは、もしすべての運動はいつもつながり、
古い運動から新しい運動が、一定の順序で生じ、
もしまた元素がその進路からそれることによって、
宿命の掟をやぶる新しい運動をはじめることなく、
原因が原因に限りなくつづくとすれば、
地上の生物の持つ自由な意思はどこからあらわれ、
いかにしてこの自由な意思は宿命の手からもぎとられたというのか?
人はその意思によってこそ、よろこびの導くところに進み、
さらにまた時を定めず、所もはっきり定めないで
心のおもむくままに運動を逸らすものではないか。
なぜなら疑いもなく、各人自身の意思が、これらのことに
きっかけを与え、それから手足に運動がひろがるのだから。

 人の「意思」というものが発動される際には、その因果関係の究極的な起点の位置にアトムの「逸れ」という原因を持たない運動が介入しているがゆえに、われわれは無限因の「自由意志」を持ちえる、と規定した。

 エピクロスは原子の逸れに端を発する非決定性の哲学を志向し、“偏倚”(クリナメン)概念の重要性・豊饒さを基礎にして、独自哲学の系譜を打ち立てたのである。




また、以下のような言葉を残している。
「若いからといって哲学するのを遅らせてはならない、年老いたからといって哲学に倦むことがあってはならない。なぜなら、魂の健康をめざすのに誰も時期尚早とか、機を逸したということはないからだ。まだ哲学する時ではないとか、その時期はすでに去ったと言う人は、幸福に向かう時節がまだ来ていないとか、もはやその時ではないと言う人と変わらない。それゆえ、老いも若いきも哲学しなければならない。老いては、かつて起こったよきことどもに感謝することにより清新な生気を取り戻し、若くしては、未来への恐れを克服することにより老成するために」(『メノイケウス宛書簡』冒頭)

参考
(1)哲学の歴史 中央公論新社
(2)Wikipedia
(3)エピクロスとストア 堀田彰

02 - Epicurus on Happiness - Philosophy: A Guide to Happiness

エピクロスの園があった場所は、今ではタクシーの墓場になっているらしい。
7分頃から

『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』発刊への祝辞

2018-10-25 22:14:44 | 哲学
 『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』という本が2018年11月5日に法政大学出版局から刊行される。
私はまだ読んでいない。私は読んでいないのだが、この本の持つ「歴史的価値」「哲学・思想史上の価値」というものが、茫洋としながらも感じ取れるのである。
実は共著打ち合わせの段階で、高田馬場の事務所を何回か貸し出していたので、書き手の数人とは面識がある。
ところが、話を横から聞いていても、私にはどういった内容でどういった趣旨なのか、よくわからない。
ニーチェやライプニッツやスピノザやマルクスの研究者が集まっているのだから、おおよその推測はつく。
私自身、酔った勢いで、無神論についての著作が読みたいということを事あるごとに繰り返し述べてきた。
そういった、哲学に無理解な私の無理難題が、忘れていた頃に叶うこととなった。

 トマス・アキナスらのスコラ学派からは、哲学は神学の婢(はしため)などとみなされていた。
その哲学がデモクリトスーエピクロスを源流とする原子論によって、オセロゲームのように哲学が神学との主従関係をひっくり返したのである。
仮に他の先進国で同様な趣旨の編著を考案したとしても、起案し発刊に至らないと思われる。
哲学研究が盛んな国はおしなべてキリスト教圏であり、体系的にキリスト教を根源的に否定しうる著作というのは、今でも抑圧的な挙動が予想される。
日本はキリスト教の抑圧が、諸外国に比べて低い国柄である。キリスト教の数も人口の1%程度と低い。
これは日本が仏教圏であり、寺の檀家制度を通じて人民を抑圧しているので、キリスト教が広がる余地が少なかったのが原因だが、戦後においては、フィクション世界の著作物の多さが人心を掌握したことによると推測される。
日本という特異的な国において、編者の執念と梁山泊的に集まった研究者達探究心とが、一冊の書籍となって結実する事が出来たとも言える。





◯ルクティウス「事物の本性について」On the nature of things and On the nature of the universe
世界の奇書をゆっくり解説 番外編2「物の本質について」

 エピクロスの著作というのは断片的にしか残っていない。弟子であるルクティウス(Titus Lucretius Carus)がエピクロスの哲学的自然学をラテン語の6巻7400行からなる六歩格詩の形で残した。それが、「物の本質について」である。
 1417年にドイツの修道院で発見された「物の本質について」の写本が16世紀ルネッサンスを支えたのである。逆に言えば「物の本質について」が僧院から『発見』されなければ、今でも我々は中世的世界観の元で生きていた可能性すらある。

 エピクロスの革新性は神々や死後に関する迷信を否定して、自身における平静の心境を保つことを優先し、苦痛からの離脱を唱えたことにある。
「死は我々にとって何物でもない。なぜなら、我々が存する限り、死は現には存せず、死が現に存するときには、もはや我々は存しないからである。」
エピクロス「おお、アリストテレスよ、動物たちにとって幸いなことには、この霊魂はわれわれのと同じように、滅びるものであり、死すべきものなのだ。親しき亡霊たちよ、君たちが生きようとする残酷な意思とともに、生そのものをもその悲惨をも全く喪う(うしなう)に至る時を、この庭園の中で辛抱強く待つがよい。何物によってもかき乱れない平和の理の前もって休息するがよい。」(1)

 「原子と真空以外なにも無い」という原子論に基づく世界解釈を行ったエピクロスは魂は肉体の消滅とともに霧消すると明言していた。死後の世界は存在せず、それらを語って不安を煽るような「宗教」は信じるべきではない、と主張したのである。
 死後の世界が無いなんて常識じゃね?って思うのは現代人であるからであって、ギリシャ哲学勃興期における紀元前においては並び居るどの哲学者も死後における霊魂の存在を指摘している。16世紀のデカルトやマルブランシュならともかく、多神教下であったギリシャ哲学の世界でも、死後の世界の否定は異端的存在であったといえる。(要検証)

 「今から二千年前、真実はすでに記されていた。 一四一七年、その一冊がすべてを変えた」のである。ギリシャ哲学が育んだ原子論の叡智は、わずか1冊の書物を通じて伝えられ、当時の出版革命に支えられ世界へ伝播したのである。
 以後、各時代を生きた思想家や哲学者が、原子論をどのように評価して、独自の解釈で現実社会との融合を試みたのかを、『原子論の可能性:近現代哲学における古代的思惟の反響』は論じているのである。

(1)エピクロスの園 アナトール・フランス著 大塚幸男訳 岩波書店1974年