わんわんらっぱー

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中世におけるユダヤ教徒の歴史

2018-11-12 19:56:18 | 歴史
◯中世以後のユダヤ教徒の動きを探る。
 私はユダヤ教の教義には興味がない。また、敵視するものでもない。石角完爾(石原莞爾ではない)という日系ユダヤ人による経済分析の本が的確であったことから、ユダヤ教徒の視点に価値があるものだというのことは分かった。
 ユダヤ教から直接学ぶのではなく、ユダヤ教徒の歴史的な動きを渉猟することによって見て取れることから、有用な知識を得るのが目的である。
 また、巷間言われている特定財閥による世界支配について、ユダヤ教が直接的に関わっているのか判然としない。私見では歴史上の動きから推測すれば、複数の財閥群による金融や医療や戦争を通じた支配構造というものがあると断ずるものである。ただし、そのすべてがユダヤ教の宗教的教義に基づくものとは言えないだろう。

◯ハザール可汗国のユダヤ教
 6世紀から8世紀にかけて、ハザール民族はカスピ海の北方に進出すると、ロシア人とたびたび衝突するようになった。ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にして、カスピ海の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イティルでは当時、ロシア人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。
 ハザール固有の宗教は、自然の不可思議な力の中に神秘的な存在を見いだし、神として敬うというだった。月や太陽を信仰するのである。一神教の宗派からは迷信深く無知蒙昧な輩とみなされていた。
 7世紀頃のハザール可汗国が成立する。 「ハザール可汗国」はハザール人によって カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。
 ハザールの首都イティルには、キリスト教の教会もイスラム教のモスクもユダヤ教のシナゴーグもあって特に悶着もなく共存していた。
 ネットでは8世紀に国家まるごとユダヤ教に改宗したとの記載が多いが、実際には支配階級が国民統合の道具としてユダヤ教へ改宗したと言われている。国王が衰退する国力を案じ、求心力を維持するためにユダヤ教へ改宗したとの見方もある。
 8世紀から9世紀にかけて、ロシア人とハザール王国は数回にわたって戦争をしたが、965年、ついにロシア人がハザール王国を占領した。首都イティルはほとんど壊滅した。それ以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることはなかった。

◯ローマ教皇グレゴリウス7世「公職追放令」
 1078年にローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令すると、全ての職業組合からユダヤ人が締め出された。

◯アルフォンソ10世
 カスティーリャ王国はイベリア半島中央部にあった王国である。今のスペインのあたりである。
 13世紀、カスティーリャ王国の国王アルフォンソ10世 (在位:1252年-1284年)は 天文学などの知的好奇心が旺盛でアラビア文化を学ぼうと、アラビア語を知っているユダヤ人を優遇した。
 ユダヤ教徒は13歳でヘブライ語の聖書を朗読し自分で解釈を述べなくてはならない。ヘブライ語はアラビア語と同じセム語族であり、ユダヤ教徒はヘブライ語とアラビア語が読めたのである。

◯エドワード1世
 1269年、イギリス政府はユダヤ人が土地を所有することを禁じ、さらにユダヤ人による遺産相続を禁じ、相続財産は王室が没収することとした。
 1290年、エドワード1世はイギリス国内からユダヤ人全員を追放した。この時、1万6000人のユダヤ人がイギリスを離れ、フランスなどへ逃れたのである。

◯イザベラ女王によるユダヤ人国外追放
 1492年(コロンブス航海の出発日)ついにスペインのイザベラ女王はユダヤ人追放、キリスト教への強制改宗を始める。キリスト教(カトリック)に改宗したユダヤ人は(マラノ=ブタ)と呼ばれた。異端審問所で見つけられた改宗していないユダヤ人は火炙りの形などの拷問が行わた。
結果、スペインに居住していたユダヤ人はポルトガルとオスマントルコに移動した。
 ユダヤ人が撤退した後のスペインは16世紀にカルロス1世(在位1519年-1556年)が皇帝カールとして全盛期を迎える。
 1521年にアステカ(メキシコ付近)がスペイン領に、1532年にインカ(ペルー付近)がスペイン領に編入されアメリカ大陸の大部分がスペイン領となる。
1580-1640年にスペイン王がポルトガル王を兼任アジア・アフリカのポルトガルの領地を獲得していった。中南米のスペイン領は19世紀前半まで続いた。

◯スペインからオランダへ
 15世紀後半にイベリア半島のスペイン・ポルトガルで始まったユダヤ人への大弾圧で、スペイン・ハプスブルクの領地であったオランダに大量のユダヤ人が流入した。
隣国のモロッコ、イタリアのジェノバやヴェネツィア、オスマントルコなどにも移り住んだ。
 当時、オランダにはプロテスタントのルター派が広まっており、狂信的カトリックの国と違う自由な風土で17世紀のオランダではユダヤ人の商才はいかんなく発揮される。

◯ピューリタン革命による庇護
 1642年に「清教徒革命」(ピューリタン革命)が起きると、1655年に、オランダのアムステルダムのユダヤ教のラビ(マナセ・ベン・イスラエルら)が、イギリスのオリバー・クロムウェルの政府に、ユダヤ人のイギリス復帰の嘆願書を提出し、イギリス政府の黙認の下にユダヤ人がイギリスに再渡来し始めた。

◯ユダヤ人の移動と栄枯盛衰が重なっていない?
 ユダヤ人を受け入れた国は栄える、という歴史がある。
スペイン→ポルトガル→オランダ→イギリス→アメリカという順である。
13世紀のスペインはイスラム圏に置かれていたが、キリスト教徒もユダヤ教徒も混在していた。ユダヤ人を通じてイスラム圏の優れた技術を取り入れることができた。
しかし、よく見ると、スペインはユダヤ人を受け入れて、追い出した後に栄えている。だから一概に因果関係はない、と主張する人もいるが、やはり関係がある。

 中世において、ヨーロッパではキリスト教カトリック派の抑圧で、科学技術が停滞した。ユダヤ人はアラビア語が読めたのでイスラム圏が培った科学技術を継承できた。最先端の航海術や造船術を育んで、交易や戦争で利益を得ることが出来た。

 金融業の独占がユダヤ迫害の原因と言われる。確かにユダヤの金融業者から借りたカネを踏み倒すために国外追放になった例もある。しかし、主たる理由は奴隷貿易と軍需貿易だろう。奴隷貿易は言うに及ばないが、敵味方のどちらにも軍需物資を融通するユダヤ商法が、国家対国家の枠組みにおいては危険だとみなされた。これが迫害に繋がったと思われる。

 現在、ユダヤ人はアメリカに500万人、イスラエルに600万人、他400万人と言われている。歴代のアメリカ政権がイスラエルに肩入れしてきた歴史がある。パレスチナ人政策へのテコ入れと、イスラエルによる核開発を牽制したジョン・ケネディ大統領は暗殺された。イスラエルロビーが隠然と米政界で威力を持ち、アメリカという国家を操縦している。
 一神教の宗教は他宗教に不寛容である。それでもイスラムは一定の賦役(納税)を行えば、他宗教を認めた。寛容であるというよりも、国家財政を賄うため、という意図の方が強いと言われている。それでも、冗談なのか本気なのか分からないが、他宗教に寛容なイスラム人口がいずれキリスト教を凌駕して、世界制覇すれば宗教問題は解決する、という人もいる。

◯ユダヤ人の気質に学ぶ
 ユダヤ教徒は度重なる迫害の経験から、身一つで移住できるように知識を重視し、教育熱心である。また、ユダヤ人は職業を制限されていたため、新規の技術開発への熱意が高い。そういった向学心や先端技術や観念的世界での探求は見習うべきものである。

 現在、インドのカースト下位層、特に不可触民などは既存の職種には就業制限がある。しかし、新規に立ち上がったIT系は就業制限はないので、数学や英語に長けているのもあって、インドのみならず米国などの先進国においてインド人が活躍している。
 
 私の様に「とりあえず飯が食えればそれで良い。うわー世の中だるいわー。」とかいう人が増えると国が停滞するのである。実際に停滞しつつある。

 ただ、この所までは技術革新による生活向上はあった。今遡上に上がっているブロックチェーン・AI・IOT・自動運転などは実現するのか怪しいのもあるし、実現しても人が幸せになるのか疑問なものもある。
 技術革新を追い求めるよりも、エネルギーを使わない社会への転換が必要とされているようにも思えて、私のように厭世的な人が言う所の「あれは不要、これは不要」という言説でも役に立つような気がしないでもない。



参考元
ユダヤ問題特集
http://inri.client.jp/hexagon/floorA1F/a1f1000.html#01


シュメール文明について

2018-11-08 22:02:42 | 歴史
◯宇宙人の否定
 ネットではアヌンナキは宇宙人であり、シュメール文明は宇宙からもたらされたなどと吹聴する動画やブログで溢れかえっている。
 少し調べれば分かることだが、シュメール文明が突然発生したわけではない。
ギョベクリ・テペ→チャタル・ヒュユク→シュメールと狩猟採取社会から灌漑による農耕社会へと段階的に発展している。

 楔型文字も突然発生したわけではなく、エジプトのように象形文字から経済文書の作成用として楔形文字に変化している。効率を考えての上だと思われる(私見)。


◯目が大きい像を残したシュメール文明
 シュメール人というと、よく目の異様に大きい像が引き合いに出されるが、これは祈願者像と呼ばれる、神殿に奉納され、奉納者の代わりに神に祈る役割を持つものであり、シュメル人の外見的特徴を写したものではない。
 目が大きい理由は「目に神が宿る」という独特の信仰があったようだ。年を重ねるにつれて作品の目がでかくなっている。
 目そのものが人を引きつける力を持っているのは確かである。信仰により人を束ねて大集団を維持することが文明の起点であるとする考えがある。(私見)
 写実性を損ねても目を大きくすることが、芸術として進化しているとは言い難い。ギリシャのパルテノン神殿に陳列されていた彫刻の写実性は極めて高い。ルネッサンス様式も写実性を極めている。人(ギリシャの場合は神々)そのものを賛美する場合は基本的に写実性が高くなる。
 日本の萌文化の目の巨大化は、商業的な理由である。


◯高度な技術
 紀元前4-3千年のシュメール文明は、文字をもった最古の文明として知られるが、高度な天文技術、建設技術、政治体制、青銅技術を育んでいた。
 「都市」(城塞都市)、職業・身分制度(分業)戸籍調査、暦法と時間、インフラ(交通網の整備)、金属の利用(銅製品・銀貨幣鋳造)、文字<表語文字>、法典の制定(実定法)、女性たちの地位、占卜、馬の利用(戦闘)、行政に書記官までいた。
 前期シュメール文明では初歩的な数学が生まれ商業が発展したが、当時数の概念は神に帰属すると考えられていた。
四則演算より複雑な計算を勝手に行うことは禁じられていた。
初代アルリム王の治世下では、線形代数を王宮の外で論じた数学者が利き手を切り落とされた記録が残っている。(要検証)

 光学望遠鏡がなければ絶対に肉眼では見えない、天王星や海王星の軌道も記された太陽系の図が粘土板に刻んである。(要検証)

 灌漑で大麦の収穫量を増やした。1粒の大麦で70粒程度の収穫があったとされ、後のヨーロッパでの小麦栽培などに比べても効率が良い。

 60進法はシュメール文明の発案であり、60進数は時計に残されている。
60のように、それ未満のどの自然数よりも多くの個数の約数をもつものを高度合成数(highly composite number)という。
 エジプト文明が太陽暦を採用していたのに対して、メソポタミア文明は太陰太陽暦を採用していた。エジプトの場合、毎年発生するナイルの氾濫に合わせて太陽暦を造り、河口で栄えたシュメールは月による干満潮が重要だったので太陰(月)太陽暦となったと言われている。

 ビールはシュメールの発明である。ビールの歴史は古く、紀元前4000年以上前には発明されていたという。
 ちなみに、産業革命まで、ヨーロッパでは日常的にビールが飲まれていた。就業中の者もビールを飲んでいた。生水を飲むのは危険であり、アルコール1%程度でビール醸造し滅菌して飲んでいた。ただし、産業革命で酔って就業すると機械事故を起こすので、就業中にビールを飲む風習は無くなったという。

 シュメールに鉄器は無かったようで、鉄器で武装したアッシリアに滅ぼされてしまう。
◯生活
 残された粘土板の文言によると、生活苦について言及している。また、教育熱心であったようだ。森林がそれなりにあったようで、「家を建てるのに木を切ってしまって心苦しい」という内容の記述もあった。


◯シュメール語の文書
 シュメール語が使用されていた時代の文書資料はほとんどが経済文書であり、文学などはシュメル語が使用されなくなった古バビロニア時代以降に書かれたものである。
 ただし、文学そのものはウル第三王朝時代までに成立していたと考えられており、使用されなくなっていた時期にシュメル語の文学が書かれていた理由は、シュメル語が中世ヨーロッパのラテン語のような教養語としての地位になり、祭儀などの文書記述などに用いられていたためとされている。

 双頭の鷲の紋章の起源は古代シュメール文明だとされている(要検証)。双頭の鷲といえば、ローマ帝国、ハプスブルク家などのローマ帝国の継承者達が用いている。ロシアでも用いられていた時期がある。


◯多神教
 メソポタミア文明のシュメール人と、アムル人やアッシリア人などセム系民族はそれぞれ、自然神崇拝、あるいは祖先崇拝から始まったと思われる多神教信仰を持っていた。
 シュメール人ははじめ、天空神アン(アヌ)、大気(風)の神エンリル、地の神を意味し知恵を司るエンキ(エア)など7神を持っていたが、灌漑農耕が広がった頃からイシュタル神という豊饒と戦争を司る地母神(女神)が神々の中心となった。
 七大神(アン、エンリル、エンキ、ナンナ、ウトゥ、イナンナ、ニンフルサグ)は、独立した一人神であり、それぞれの神の間に関係はなかった。ゆえにシュメールでは、神統譜は基本的に作られなかった。
 これらのオリエントの神々は、ギリシアのオリンポス12神の中の女神アフロディテや、ローマのヴィーナスにつながる神である。

◯多神教から一神教へ
 エジプトでは太陽神ラー(アメン=ラー)を中心とする多神教であった。多神教が支配的であったオリエント世界に一神教を初めてもたらしたのは、ヘブライ人のヤハウェ神信仰であった。またエジプトでも新王国のアメンホテプ4世はアトン神という唯一神への信仰を国民に強制したが、それは一神教革命としての宗教改革(アマルナ革命)とされている。エジプトでは一神教は定着せず、それ以前のアメン=ラー神を中心とする多神教に戻ったが、モーセに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出したという伝承の背景に、一神教が認められなかったことがのではないかという見解もある。また一神教は前15世紀ごろのオリエント世界の統一の動きという政治的な流れの中で、アルファベットという表音文字の普及とともに民族を越えた普遍的な世界観を生み出していくこととなったと考えられる。<本村凌二『多神教と一神教-古代地中海世界の宗教ドラマ-』2005 岩波新書>


(1)多神教
https://www.y-history.net/appendix/wh0101-027.html













THE UFO 神々との遭遇!宇宙人と超古代文明 1995


 1950年代の初め、考古学者リチャード・ダンブリル博士らが紀元前14世紀の粘土板を数枚発掘した。その粘土板は、シリアの古代都市ウガリットで見つかり、フルリ語のくさび形文字の署名を含んでいたことから、これまで発見された中でも最古の音楽作品、3,400年前の儀式用の賛美歌であることが判明した。

"Hurrian Hymn No. 6" (c.1400 B.C.E.) Ancient Mesopotamian Music Fragment

シュメールの歴史

2018-11-07 21:00:13 | 歴史
 前10000-8000年の古代遺跡がトルコ東部の遺丘ゴーバックリー・テペ(ギョベクリ・テペ)から発掘される。石柱の総数は200本以上、各石柱は6メートル以上、重さは20トン
 遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は前15000年紀とされ、更新世(洪積世)を1000年も遡る。
 石柱は謎めいたピクトグラム(絵文字)や動物の彫刻で装飾されている。狩猟採取社会であった事が窺える。周囲にはわずかに定住の痕跡も見られ、野生の麦を採取していたと考えられている。
 宗教施設として建設され、先祖崇拝の神殿として機能して、周辺の信徒にとっての巡礼場所となっていたと考えられている。
 古代の天文台という説もある。

 古代のシュメール人の信仰とよく合致する。すなわち、アヌンナキの神々が住む聖なる山エクル(英語版)から人々に農耕、畜産、織物が伝えられたという信仰である。

前7200年頃:トルコのコンヤ高原の「チャタル ヒュユク」。灌漑農業を行い、人口は6000人を越えていたという。
 家と家がすき間なく隣接していて、道路がない。家の屋上の戸から出て、家の屋根づたいに移動したのである。家の屋根を道路として使い、街全体を城壁とした。

前7000年紀前半:メソポタミアの肥沃な三日月地帯にジャルモ遺跡などに見られる農耕文明が生まれた。

前6000年紀中頃: チグリス・ユーフラテス河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。

前4000年紀頃:シュメール人が最初に都市国家を形成し、メソポタミア文明を成立させた。メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市文明を生み出した。青銅器や楔形文字、多神教信仰、シュメール法典、子供や役人育成のための教育機関、最古の神話ギルガメシュ英雄叙事詩などの文化が産みだされた。
 古代オリエントは前4000年紀のシュメール人の都市国家から前330年のアケメネス朝ペルシアの滅亡までを指す。

前3200年頃:ウルクから見つかった粘土板は約800枚(断片を含めると約3000枚)、紀元前3200年頃のものとされており、絵文字またはウルク古拙文字とも言われる。ウルクの絵文字には約1000の文字が使用されているが、完全には解読されていない。
前2600年頃:ギルガメシュ王がウルクを統治する。

前2500年頃:ウルク市で発明された絵文字(古拙文字)が、整備され完全な文字体系に整えられる。表音文字も登場し、文字の数も約600に整理され、シュメル語が完全に表記されるようになった。起筆が三角形の楔形で書かれるようになり、こうして楔形文字が誕生する。

前2350年頃:ウルク第3王朝のルガルザゲシ王が、シュメールの諸都市を統一する。シュメールで最初で最後の統一王朝となる。

前2300年頃:アッカドのサルゴン王は、シュメールのルガルザゲシ王を破り、シュメールを併合した。これがアッカド王国である。「アッカド+シュメール=バビロニア」。この王国を担ったアッカド人は、シュメール人とは異なる民族である。アッカド人は、シュメールの高度な文化や、くさび形文字を継承する一方、独自のアッカド語を編み出した。

前2250年頃:異民族の侵入が続きアッカド王国は大混乱に陥る。

前2200後-前2100初:シュメール諸都市は、アッカド王国に対し反旗を翻し、ウル第3王朝を復興させた。「ウル・ナンム」はシュメール系のウル第3王朝の初代王。分裂状態にあったメソポタミアをほぼ統一した。各地に巨大なジッグラトを建設しシュメール文明を復興。世界最古の法典ウル・ナンム法典を制定。刑罰と損害賠償を定め、約350年後のハムラビ法典の同害復讐と異なる。

前1900年頃:シュメール人のウル第3王朝を滅ぼしたアムル人がバビロンを都としてバビロン第1王朝(古バビロニア)を建国した。

前1792-1750年:バビロン第1王朝第6代の王ハンムラビ王が、全282条からなるハンムラビ法典を制定した。

前2000-1500年頃:西アジアの大きな民族移動によってに、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどの侵入を受け、鉄器時代に入る。

前1286年頃:小アジアのヒッタイト王ムワタリと、シリアに進出したエジプト新王国のラメセス2世の軍隊が、カデシュで衝突した。このカデシュの戦いは、一時ヒッタイト軍が優勢であったが、ラメセス2世の勇戦によってエジプト軍が態勢を取り戻し、勝敗決せず終わった。これによってエジプト新王国はシリアの領土を確保することができた。

前1269年頃:エジプトとヒッタイト両国の間で、平和同盟条約が締結された。この条約は現在知られている世界で最初の国際条約といわれている。

前1200年頃:メソポタミア北部でアッシリア人が、鉄製の戦車と騎兵を使って有力となる。トゥクルティ=ニヌルタ1世がバビロニアから戦利品としてギルガメッシュ叙事詩を持ち帰る。

前8世紀末:サルゴン2世がメソポタミアの分裂時代を終わらせて統一。サルゴン2世がメソポタミアの分裂時代を終わらせて統一し、アラム人やヘブライ人を支配下に組み込んだ。

前663年:アッシュール=バニパル王がエジプトを征服して、初めてオリエント全域を統一、西アジア最初の「世界帝国」としてのアッシリア帝国を作った。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
 最盛期の都ニネヴェの遺跡からは大量の楔形文字を記した粘土板が発掘され、世界最古の図書館とも言われている

 アッシュールバニパル王は文書収集に熱中した王として知られる。彼はアッシリア全土に書記を派遣し神話・医学・宗教・言語などの学術書、果てには商業証書や一般人の手紙までを集めさせた。全国の蔵書家に文書の供出を命じ、複写させた(しかも原本の返却をしなかった)。これが、オリエント世界の知識の集大成とも言える図書館を建設へと繋がった。これは現在アッシュールバニパルの図書館、またはニネヴェ図書館として知られている。最も残存率の高いギルガメシュ叙事詩の版本もこの図書館に保存されていた。また、こうした文書収集に関するアッシュールバニパルの命令書も保存されていた。

 ニネヴェ市の王宮書庫と図書館には、推測によると、文学作品が約5,000点、書簡や記録文書が約6,000点ほど納められていた。

 バニパルは博識な王であり、識字率の低かったオリエントにおいて、国際語のアッカド語のみならず、死語だったシュメル語まで解した。図書館に関しても「余は書記の神ナブーの叡智を書き留め、吟味し、書物を比較対象してここに所蔵した。余が見たり読んだりする為である」と記名している

 アッシリア帝国はまもなく倒れて4国分立時代となり、メソポタミアには新バビロニアがバビロンを都に有力であった。しかしイランにアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。

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