わんわんらっぱー

DIYやオーディオから社会問題までいろいろ書きます。

アベ政権は自衛隊を使った中国への軍事挑発をやめろ!

2018-11-14 12:36:06 | 戦争
◯与那国島・宮古島・石垣島・奄美大島が軍事要塞化へ
 与那国島では2016年に陸上自衛隊の沿岸監視隊が発足した。防衛省は今後、宮古島や石垣島のほか、奄美大島にもミサイル部隊と防空を任務とする地対空ミサイル部隊、警備を担当する部隊を配備する計画だ。日本政府は、地元住民の半数が反対しているにも関わらず、強行に石垣島・宮古島・与那国島に自衛隊を配備して、沖縄の島々を軍事要塞化しようとしている。
仮に尖閣諸島で揉め事があっても、従来通り国土交通省傘下の海上保安庁による警察力で対処するべきだという意見が一般的だ。自衛隊の派遣はそれすなわち軍事行動であり、相互に軍事衝突へと発展しかねない。自衛隊制服組の資料では『島嶼防衛戦は軍民混在の戦争』になり、『避難は困難』と明記されている。

◯南沙諸島で軍事訓練
 海上自衛隊の潜水艦を南シナ海に派遣し、護衛艦部隊とともに対潜水艦を想定した訓練を2018年9月13日に実施した。中国外務省の耿爽・副報道局長は9月17日の記者会見で、海上自衛隊の潜水艦が南シナ海で訓練を実施したことについて、「域外国は慎重に行動すべきで、地域の平和と安定を損なわないよう促す」と反発した。
 そもそも南沙諸島は日本の領海でもない。日本はなんら領有権を保有していない。この軍事訓練は米国から指示されたのか分からないが、自衛隊による挑発行為に他ならない。
 南沙諸島に介入する日本政府の言い分はマラッカ海峡経由の海上交通を守るため、というのだが、特に航路を妨害されたということはない。

◯日中軍事衝突は地獄への道
 実は、米国は他国の資金で戦争をするようになっている。2003年のイラク戦争以後、急速に日本が貧困化しているのはそのためである。日本が金融融通して米国を支え、そのカネで戦争経済を巻き起こし、米国内の経済を持たせている。
 その結果、中東では惨劇が繰り返され、イラクやシリアでは膨大な難民が発生している。
 これは一重に日本国民が無知なのが問題なのである。自分が搾取されているのに気が付かない。気がついても知らないフリをしている。その結果、海外で多くの人達が死んでも、当然知らんぷりである。
 戦時体制への移行で儲ける人もいる。官僚機構は強化されてポストが増える。軍需で直接儲ける企業もある。戦争への世論誘導でダマスコミも儲ける。

 因果応報という言葉がある。プルトニウム製造装置である原発が連鎖で爆発して、日本国自体の衰亡は確定した。これも米国の軍事物資の下請け作業によって発生した事故である。
 軍事というのは秘密が多くなる。戦時動員の掛け声の元、横車を押しに押して、人権を蹂躙する。敵国や他国だけの人権が蹂躙されるのではない。自国民の人権も蹂躙する。

 私のように非国民ぐうたら派にしてみれば、戦争は甚だ迷惑である。
日中が衝突したら、貿易も途絶する。その瞬間に国内の物価は大暴騰して、一気に生活苦が押し寄せる。中国に進出している企業は経済的な破局が直撃するが、その影響は即座に日本国民に浸透する。











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「白いナポレオン」昭和天皇と南京大虐殺

2018-11-11 11:46:27 | 戦争
◯南京大虐殺を考察する意義
 南京大虐殺は天王裕仁が226事件で秩父宮に加担した朝香宮に、軍功を持って忠誠を示せと指示したために起きた戦争中の犯罪行為である。この南京攻略戦において、略奪や虐殺や強姦が多発したため、南京特務艦は従軍慰安婦の開設を指示する。つまり、南京事件と従軍慰安婦は天王裕仁の戦争責任に直結する問題なのである。
 天皇制が消滅していれば、今更、南京事件を巡って論争を呼ぶこともさしてないだろうが、歴史改竄屋が天皇裕仁の戦争責任を糊塗して、改憲を通じて自衛隊を憲法機関の国軍とし、加えて国権を通じた永続的な支配を目論んでいるので、これに抵抗する人民との間に論議が起きている。
 人民の間にはアベ・アソー・テンノーなるものを統治機構から排除しなければ、再び日本が大規模な軍事攻撃や虐殺などの人権侵害行為を行いかねない危惧が蔓延している。それは根拠無きものではなく、すでに日本社会では人権の削減が持続的に行われており、人民の生活苦や精神苦をもって立ち現れているのである。日本が技術研修留学生を奴隷扱いする根底には日本人が持つ民族的優位性が内在し、その優位性とは天皇の名の元に恐るべき加虐を持って作り上げた帝国主義の残滓に過ぎないのである。
 であるが故に、私個人は南京事件の詳細の真贋についてはあまり深入りせず、日本側の軍令などに基づく、日本側の戦争責任、なかんずく天皇関係を中心に情報を並べたい。

◯三笠宮の南京事件に対する考察
 三笠宮崇仁親王は1915年に生まれ、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書いている。
 1956年の著書『帝王と墓と民衆』では
〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉
〈わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである〉と記している。
引用https://lite-ra.com/2016/10/post-2651_2.html

◯天皇の戦争責任と南京における関係情報
 1936年2月26日に発生した二・二六事件は大事件だったのである。私の祖母は料亭の女将に釣れられて226事件を見に行ったと言っていた。皇道派の将校に率いられた1483名の兵士が政界の大物を次々に殺害し、帝都の一画を占領した。
 松本清張は自著「昭和史発掘」 で4巻に渡って二・二六事件について原点資料からの引用を行っている。通俗的には皇道派真崎甚三郎大将が真の首謀者だったとは言われているが、裕仁の弟の秩父宮擁立事件だったとの見方がある。清張は小説「神々の乱心」で、秩父宮と思しき人物を擁立しようとする広い人脈の動向を描き出している。
 皇道派の将校らの考え方に、天皇の直ぐ下の弟(第二皇子)秩父宮が理解を示していたため、彼らは口実を設けて弟宮に接近し、その指導を仰いでいたというのである。やがて将校らは、天皇を退位させて秩父宮を即位させ、その下で一君万民の昭和維新を実現させようと考え始め、それを実行しようとしたという仮設がある。
 秩父宮は皇太子ではなかったので行動に制約が少なく、広く軍関係者と交友があったのは確かである。上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物でもあった。 裕仁が疑心暗鬼に駆られたのは、自身の生母である貞明皇后が秩父宮を特に可愛がっていた事に起因する。226事件勃発後、秩父宮がわざわざ駐屯先の青森県から帰郷して貞明皇后に会っている。これで裕仁はますます疑心暗鬼になり激高したと推測され
「彼ら凶暴な将校達は、私が親愛する老臣たちを殺したのだ。どうして彼らを許すことが出来ようか。お前たちが座視しているなら、私が近衛部隊を率いて鎮圧に当たる」
と強権的な構えを見せる。
 結果として226事件そのものは収束に向かうが、統制派偏重の人事構成になっていく。皇位喪失を恐れた裕仁は軍事行動の拡大へと向かっていく。

◯南京攻略戦時系列
1936年 海軍の96式陸上攻撃機が完成する。

1937年7月7日 盧溝橋事件

7月8日 南京渡洋爆撃(8月15日)の搭乗員が出撃準備の命令を受ける。海軍は南京への爆撃準備を始めた。

7月12日 海軍軍令部は「対支作戦計画内案」を策定する。
「海軍航空兵力を以て中支方面の敵航空勢力を掃蕩す。」

7月27日、海軍省と海軍軍令部は協議し「時局処理および準備に関する省部協議覚書」を決定。
「今後の情勢は対支全面作戦に導入機会大なるをもって、海軍としては対支全面作戦に対する準備を行う」

8月7日 「北支事変」の停戦を実現するための使命をもって船津辰一郎が上海に到着。

8月9日 大山勇夫中尉殺害事件。上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将の指示で、大山勇夫中尉は中国軍の飛行基地となっている虹橋飛行場へ強行突入して射殺された。

8月13日 日本の閣議では派兵に消極的だった石原作戦部長の意見は抑えられた。

8月14日 10時頃、中国軍は先制攻撃を開始し、中国空軍は第3艦隊旗艦「出雲」や陸戦隊本部、日本人学校を攻撃した。 
同日  軍令部は大海令第13号を発令。海軍軍令部「対支作戦計画内案」の第二段階に突入。

8月15日 南昌及び南京の飛行場爆撃。海軍木更津航空隊所属の、前年に完成した新鋭機96式陸上攻撃機20機が、長崎の大村基地から南京まで約600キロを4時間で飛んで渡洋爆撃を行う。
同日   国民党政府は総動員を下令し蒋介石は自ら陸海空の総司令官に就任し、中国共産党は「抗日救国十大綱領」を宣言し全面戦争は開始された

不拡大派の石原莞爾作戦部長は対ソ連を目標にした軍備拡張のため、中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた。
石原莞爾中将回応答録から
「今次の上海出兵は海軍が引きずって行ったものといっても差し支えないと思う。私は上海に絶対に出兵したくなかった」

8月21日 陸海軍の統帥部は検討の上2つの案を天皇に奉答しました。
1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる。
2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する

天皇は当時上海2個師団の我兵力では甚だ手薄であるのが問題だとしてまずは増兵を督促した。

8月25日 首相・陸相・海相・外相の4相会議で、 宣戦布告はしないが、それに変わる勅語を出すことが決定された。宣戦布告の利害得失を検討して、布告しての正式戦争はマイナスが多いと判断した。「事変」とすることで、ハ-グ戦時条約を遵守しない方策である。

8月29日 南京に駐在するアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア5ケ国の代表が南京爆撃に対する抗議書を日本に提出。

9月2日 閣議で「北支事変」の呼称を「支那事変」に変えることが決定され、全面的な日中戦争になった。

9月4日  第72臨時議会開院式で昭和天皇の勅語が発表された。
(勅語)中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。朕これを憾とす。今や朕が軍人は百艱を排してその忠勇をいたしつつあり、これ一に中華民国の反省を促しすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、忠誠公に奉じ、和協心を一にして賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む。
同日 杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの訓示を出した。

9月5日 前日から始まった臨時議会で近衛首相は施政方針演説を行う。
演説:今日このさい、帝国として採るべき手段は、できるだけすみやかに支那軍に対して徹底的に打撃を加え、彼をして戦意を喪失せしめる以外にないのであります。

9月6日 天皇は参謀総長を召して再度増派の意思を伝えた。直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し、天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び台湾守備隊を増派することに内定」と上奏した。
重藤支隊―台湾守備司令官重藤千秋少将が指揮する台湾歩兵第1、第2連隊。華北から後備歩兵10個大隊等増派

9月7日 拡大派武藤章作戦課長を中心に大部隊の上海派遣が決定された。

9月11日 上海に5個師団の派兵遣が決定し、石原莞爾は辞任を決めた。

9月12日 中国は正式に、国際連盟規約に基いて日本の侵略を提訴。

9月15日 海軍第3艦隊司令官長谷川清中将は南京空襲部隊の編成を命令し、南京の反復攻撃を下令した。無差別爆撃を許可。

9月19日 長谷川清第3艦隊司令長官は南京空爆作戦決行の為、各国外交機関と居留民に「通告文」を、南京市民に「警告文」を発表した。南京への爆撃が始まる。
爆撃は9月19日の第1次から25日の第11次まで行われ、延べ291機(289機という資料もある)が参加し、爆弾は355発(32.3トン)が使用された。

9月21日 上海派遣軍として次の部隊が派遣された

9月22日 第101師団上陸

9月23日 増派に反対していた石原莞爾は更迭され関東軍参謀副長として「ついに追い出されたよ」の言葉を残して満州へ。後任に下村定少将が就任。

9月26日 野戦重砲兵第5旅団、野戦重砲兵第15連隊(特設連隊・本隊は近衛野戦重砲兵第8連隊)上陸

9月27日 第9師団上陸

9月28日 13日からジュネ-ブで開かれた第18回国際連盟総会において「日華紛争に関する国際連盟諮問委員会」が作成した「日本の中国都市爆撃非難決議」が全会一致で可決された。

10月1日 上陸第13師団(特設師団・後備役兵を召集して臨時編成した。高年齢である)上陸

10月 南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論。ドイツのトラウトマン駐日大使に仲介を依頼する。

10月上旬 参謀本部は杭州湾の上陸作戦を決定し、第10軍が編成(軍司令官柳川平助中将)された。

11月5日 第10軍(司令官柳川平助中将)の3個師団余が杭州湾北岸に奇襲上陸。

11月6日 「日軍百万上陸杭州北岸」のアドバル-ンが上海にあがった。

11月7日 上海派遣軍と第10軍を合せて中支那方面軍の編合が発令され、松井石根大将が上海派遣軍との兼任司令官になった。

11月8日までの日本軍被害は戦死9115名、戦傷3万1257名と合計4万人を越える。
中国側の戦死者は25万人前後。

11月9~13日 中国軍の退却が始まる

11月13日 第16師団は白茆江に上陸成功

11日15日 現地の第10軍は独断で南京に追撃する事を決定。

11月19日 第10軍より、全力をもって南京に向う追撃命令を各師団へ発電。各師団に追撃命令を出した事を参謀本部に報告。

11月20日 参謀本部は「第10軍の南京追撃は臨命第600号指示(作戦地区)の範囲を逸脱している」直ちに中止、制令線から撤退せよと命令を出した。

同日 日露戦争以来32年ぶりに大本営(戦時に設ける最高統帥機関)が宮中に設置される。事変でも大本営設置を行えるように軍令を改正した。

11月24日 中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」との意見書が参謀本部に届く。

朝日新聞社関係が80人以上、大阪毎日新聞関係が70名以上を現地に派遣し、先を争って国民の期待を煽る連戦連勝の報道をした。

12月1日 【大陸命第8号】が発令され、同時に大本営から戦闘序列も発令された。
「支那方面軍司令官は海軍と協同して、敵国首都南京を攻略すべし」
天皇が始めて、中国を敵国と呼び、首都南京の攻撃を命令した。
すでに南京に向けて進撃していた日本軍は命令後、3ルートに分かれて南京城に進攻した。中支那方面軍と上海派遣軍の司令官を兼任していた松井石根は、中支那方面軍の専任司令官となり、新たに皇族の朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍の司令官に任命され7日に着任した。

12月2日 国民政府の蒋介石は駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えた。
日本政府は南京攻略で興奮していたのもあり、中国政府からの申し入れを断ってしまう。
12月4日 日本軍は南京防衛線東側の一番外側のラインである句容県に攻め込み占領。

12月10日午後2時 日本軍は中国側が降伏勧告文に応じなかったため南京城攻撃命令を下令。

12月12日12時 中華門西方の城壁に第6師団第47連隊が日章旗をたて、その後続々と占領が進む。

1938年1月15日 トラウトマン和平交渉打ち切り

 海軍省の記録では、8月15日の渡洋爆撃から始まって、12月13日の南京占領にいたるまで海軍の南京爆撃は50数回におよび、延べ参加機は900余機、投下爆弾は160余トンにおよんだとされている。

◯南京攻略戦の問題点
 南京事件で20万から30万の中国人民が殺されたとされる。南京攻略戦の司令官である松井石根大将も、当時軍務に就いていた昭和天皇の弟である三笠宮殿下も、日本兵の暴行が多数あったことを認めている。
 問題はこの点だけではない。
 中国系のアメリカ人ジャーナリスト アイリス・チャンによると、
「南京の中国人を皆殺しにするという方針は、昭和天皇から直接任命された、朝香宮上海派遣軍司令官が、南京攻撃前に署名した命令に明記され、事前に政府、軍最高レベルで決まっていた。」
としている。

 南京攻略を焦ったのは、226事件における宮廷内の政争問題が一因である。また、皇族である朝香宮を無事に南京へ入城させるために過剰に掃討作戦を実施したという見方もある。

 後の重慶大爆撃に先行して、南京への無差別爆撃が行われた。しかも、米英への艦船も攻撃している。日本政府は対米開戦だけは避ける意向だったとされるが、現地軍の暴走とはいえ、もはや手遅れだったと言える。

 南京に至る過程も含めて略奪、殺人、強姦が多発した。これをうけて、南京特務機関が民間へ委託する形で慰安所を開設した。

 現在、南京大虐殺と従軍慰安婦を無かったものとしたいのは、天皇の戦争責任を抹消して、再び天皇を担ぐ形で軍部の台頭を狙っているのである。今度は更に悲惨で、米帝国主義の尖兵として、世界各地で血を流しながら各民族や国家から恨みを買うことになる。

 天皇裕仁はナポレオンを崇拝しており、宮中の書斎にはナポレオンの胸像を飾っていた。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれている。

 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが昭和天皇だった。天皇としては開戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。「海軍善玉論」は天皇が戦争責任を逃れるために作られたものである。責任を現場に押し付けたので、多くのBC級戦犯が死刑となった。

◯従軍慰安所の開設
天皇勅令である軍令「軍隊内務書」に野戦酒保規定があり、その規定を1937年、つまり後備役劣後兵による風紀紊乱多発した日中戦争で、中支方面軍が「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(飯沼参謀長)とした。
南京特務機関の委託を受けて開設された従軍慰安所
日華親善館
皇軍慰安所
大華楼慰安所
東雲慰安所
青南楼慰安所
浪速楼慰安所
共楽館慰安所
菊水館慰安所
満月慰安所
鼓楼飯店中部慰安所
洋屋慰安所
珠江飯店慰安所
人民慰安所
故郷楼慰安所
上軍南部慰安所
上軍北部慰安所
桃花宮慰安所
芯香院慰安所






















映像の世紀 南京大虐殺1 地獄絵巻はこうして繰り広げられた


【南京事件】 映画「ジョン・ラーベ」 売国奴 香川照之 全登場シーン 1/2


【南京事件】 映画「ジョン・ラーベ」 売国奴 香川照之 全登場シーン 2/2
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岸信介と731部隊と朝鮮戦争

2018-11-10 20:01:52 | 戦争
◯帝銀事件
 椎名町に住んでいる人に聞くと、今でも椎名町には帝銀事件の影響で銀行は出店していないそうである。
 帝銀事件とは戦後間もない1948年に東京・豊島区の帝国銀行支店で厚生省の役人を自称する人物が防疫のためと称して行員らに毒物(シアン化化合物と言われている)を飲ませ、殺害した事件である。その真犯人も動機も謎が多いために、様々な憶測や推理が行われた事件だ。
 ドキュメンタリストの吉永春子氏は帝銀事件取材の過程で、警視庁が旧陸軍731部隊(関東軍防疫給水部)にいた関係者たちを捜査対象にしていたことから731部隊の存在を知った、というのである。そして、これがきっかけとなり、帝銀事件とは別に、この陸軍の部隊がかつて満洲で何をしていたのか取材を進めていったという。

◯731部隊とは
 岸信介が満州国国務院実業部総務司長に就任した1936年(昭和11年)に軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当した。1941年には、「満州第100部隊」と改称された。
 満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた。
 731部隊は三千人以上におよぶ「丸太」(=捕らえられた多くの中国人・朝鮮人・ロシア人ら) を生きたままペスト・コレラ・チフスなどの生体実験材料として殺し、非人道的な細菌戦の研究開発およびその実行をした。
元隊員証言では石井部隊長は徹底したエリート意識の持ち主だった唯我独尊の選民意識と、当時の日本人が持っていた『アジア諸民族の中では日本人が一番えらいんだ、優秀なんだ』という排外的な民族意識が結びついた731部隊の残虐行為の根っ子には度はずれた選民意識があるとしている。
 ペスト・コレラ・チフスの実験の他には飢餓や凍傷、レントゲン照射による肝臓への影響などの研究を行った。


◯山口県と731部隊
 吉永春子氏「魔の731部隊」1976年作を見ると、岸信介の出身地である山口県と、731部隊の関係に気が付かされる。
 古橋義雄証言では昭和20年3月731部隊には下関から出発している。
 大田氏に関する情報では731部隊は満州から山口県萩市に引き上げてきて部隊の秘密を誓い合ったとされる。
 朝鮮戦争で使われた細菌爆弾の一部は山口県の岩国基地から持ち出されたとされる。

◯フォート・デトリック(キャンプ・デトリック)
 アメリカも1941年頃からキャンプ・デトリックを中心に、細菌の研究と製造のための機関を設立していた。フォート・デトリックでは、1943年から1969年にかけて、アメリカ合衆国生物兵器プログラム(en:United States biological weapons program)の中心施設として生物兵器の開発や実験、生産が行われた。
 中国はアメリカの情報を分析して、この研究所には、戦後1946年頃から実験資料が持ち込まれ、ナチスドイツの専門家と石井士郎を始めとする旧日本軍の731部隊18人の日本人研究者が参加していたと判断した。
 1949年当時、すでに米国は日本軍731部隊からの資料を独占することによって、世界最大の細菌兵器大国になっていた。

◯朝鮮戦争で細菌爆弾を使用
 米軍の細菌戦実施については、1952年2月~8月にかけて世界的にも高名な学者たちによって組織された二つの国際NGO調査団(国際民主法律家協会・国際科学委員会)が、現地調査を行い、「北朝鮮と中国で発生している伝染病の原因は米軍による細菌戦である」と結論ずけ、さらに「米軍による細菌戦は、旧日本軍731部隊の研究・成果を引き継いで行われた」と断じている。
 石井四郎は朝鮮戦争勃発前夜1949年に消息不明となった。石井は朝鮮戦争に参加したと言われている。
 50年の12月から51年1月、米軍は共和国内の占領地域からの撤退に際して、初めての細菌散布作戦を行なった。撤退時に細菌を家屋や水源地などに散布する方法は、日本軍731部隊も中国浙江省で多用した。占領から解放されて住み馴れた地域に再帰した人々を汚染するのである。これにより、平壌、成川、高原、元山、咸興などは天然痘で、平安北道、平安南道、黄海道は発疹チフスで汚染され、1000名以上の人が犠牲になった。
 52年2月28日に始まった中国東北への細菌攻撃は、丹東、寛旬、洛陽、瀋陽、通化、本渓、撫順、長白、鞍山などの地域へ計72回の細菌攻撃があったが、その内、丹東(寛旬・龍王廟)地域だけで攻撃は28回に及んでいる。(「抗米援朝記念館」館長・張忠勇)攻撃の方法の多くは、内部が四層にわかれた部屋を持つ細菌弾(各層にそれぞれ細菌で汚染されたノミ、シラミ、ハエ、カ、クモなどの昆虫を入れ、着弾の寸前に容器が二つに割れて、中から昆虫が飛び出すしかけになっている)や、汚染した昆虫やネズミを缶に入れ、パラシュートで投下するというもの、汚染した食品、木の葉、綿花、羽毛、ビラなどを直接撒くというものであった。
 国際調査団『報告書』には、この時期、「52年1月28日から3月31日までに、米軍の朝鮮北部に対する細菌を持った動物の散布は804回に及んだ」と記されている。投下された昆虫・動物などは、蒼ハエ、カ、ノミ、クモ、ネズミ、ウサギ、鳥、魚、貝、南京ムシ、トウモロコシ、木の葉、錦花、そして玩具なども落とされ、その種類は20余種。細菌は、ペスト、チフス、炭そ菌などを中心に10余種京にのぼっている。

◯石井四郎元731部隊長や北野政治・若松有二郎が韓国(南朝鮮)で米軍細菌戦を指揮した。
 細菌戦部隊米国第406部隊に、731部隊の幹部たちは戦犯の免責と引き換えに協力、編入されていった。米軍は1950年からの朝鮮戦争に日本の旧731部隊員の協力を受けて大規模な細菌戦を展開した。
 新聞報道によると、52年の初めごろ、細菌戦の指摘が出始める前に、石井四郎が韓国を2回を訪問したとのこと。

以下転載

「ビルマ・ラング-ン発のテレプレス」1951年12月  (注:)まだ完全確認はされていません
歴代731部隊長の石井四郎、北野政次と、100部隊長だった若松有二郎らが米軍の顧問として、
ペスト菌、コレラ菌などを積み込んだ貨物輸送機で南朝鮮に派遣された。
「キム・ソンジュンの証言」
日本支配下の京城帝国大学医学部で学ぶ。
戦後は北朝鮮の保健省衛生部防疫局長
現在(2002)は医学科学院通報センタ-勤務
*米軍が中国志願兵部隊や朝鮮人民軍に対して細菌爆弾を使用したとの報告で、
  1952年キム・イルソン主席の命令で戦線地帯の調査をした。
*1月18日の未明米軍機が低空で何かを落としていった。
  爆発はしなかったが、現地にはハエやノミ、南京虫などの昆虫のほか,
  ネズミなどの動物,紙切れ,磁器の破片が雪の上に無数に散らばっていた。
  ある朝、伊川の現場で2つに割れた磁器製の爆弾を見付けた。
  私は以前731部隊の石井式磁器爆弾を見た事があるので,すぐにそれだと分かった。* 昆虫等の落下物を採取して検査をしたところ、
  ハエからはコレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌が、ネズミのノミからはペスト菌が検出された。
これらの調査をきっかけに研究を開始したクム・ソンジュン氏の研究結果を整理してみます。
* 第1期 1950年の朝鮮戦争開始前から1951年6月まで
1)1950年4月から6月にかけて、朝鮮軍の炊事場や水源地、貯水池がサルモネラ菌で汚染され、
  数百名に被害が出た。
2)1950年8月15日、大邱周辺の洛東江沿岸で畑の瓜とスイカを食べた兵士ら数百名が
  コレラに感染して40%が死亡した。
3)1950年末から51年1月、天然痘を流行させ、江原道、黄海道、咸鏡南道の各地方だけで
  3500人以上が発病し10%が死亡した。
4)1950年12月から1月にかけて米韓軍に再帰熱や発疹チフスが発生、
  撤退時に発病した韓国兵を残したため、その後数万人が感染し20%が死亡した。
5)51年秋から冬にかけて清川江の北から鴨緑江の南端までと陽徳、咸興、元山に
  汚染された日用品、お菓子、水産物が投下され、被害は数万に及んだ。
6)51年3月、元山沖で人民軍の捕虜ら数千人に対し数十種の細菌を使った人体実験をした。
  巨済島収容所でも人体実験は行なわれ、第4収容所だけでも2000人以上が伝染病で死亡した。
  ここでの人体実験では日本人の専門家が参加したといわれている。
* 第2期 1951年7月から1953年7月の休戦協定まで
1)52年1月から4月まで、5回飛行機連隊を動員して北半分の200の市、
  169もの郡に対しのべ8000回にわたって、細菌弾、毒ガスを投下。
  散布した昆虫は20種類以上だった。








細菌兵器731部隊】生体実験には子供や女性もいた!背後の指揮官は安倍の祖父・岸信介!生体実験の捕虜
https://web.archive.org/web/20171010011602/https://kimito39.at.webry.info/201708/article_53.html




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ベトナム北爆への道

2018-10-30 21:17:54 | 戦争
 ガンダムの生みの親の一人として語られる安彦良和氏だが、アニメ界で活躍したあと、漫画家へ転じ、『虹色のトロツキー』などの歴史物マンガを手がけた。時系列ではファーストガンダム以前のガンダムオリジンのマンガを執筆後、ガンダムオリジンの総監督としてアニメ界に復帰した。
Youtubeに、たしかジュンク堂だかで、開催した「私に影響を与えた本」とかいうようなお題で安彦良和氏の講演があった。
(該当する映像は検索してもでてこない)
そこで、ベトナム反戦運動に参加して弘前大学を除籍になったと、驚くべきことをを述べるのである。
運動に参加した仲間の中には連合赤軍に参加したものも居るという。私の聞き違いかと思って調べたら、植垣康博氏のことだと推測される。
参考「“僕が育った町”で元“連合赤軍兵士”が営むスナック『バロン』」https://air.ap.teacup.com/taroimo/1275.html

安彦氏は運動に挫折して、精神科医の前で「このままではベトナム戦争が止められない」とおいおいと泣いたとも述べた。

関連する動画があるので紹介する。
「機動戦士ガンダム」生みの親の1人 安彦良和氏語る 宇宙移民、大日本帝国とナチズムの共通点


Wikiでは“私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 7”. 北海道新聞夕刊. (2012年3月12日)にベトナム反戦運動についての記述があるとして参考文献にあげている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BD%A6%E8%89%AF%E5%92%8C#cite_note-12
恐らくそれまで殆ど語られていない、安彦氏の生い立ちである。
日本の世相への危機感から、自身の思想的背景を語る必要を感じたのだろう。

 私のベトナム戦争に関する知識は「映像の世紀」などのドキュメンタリーによって与えられた程度のものである。
ベトナム反戦運動が日本に与えた影響は大きい。大きな影響を受けたはずだが、今現在では、あまり語られることもない。

端的に「ベトナムに投下された爆弾の量は、日本本土空襲の10倍に達する」
という一文だけでもベトナム戦争の凄まじさが分かりようものだ。


【映画 2015 】ベトナム解放=勝利に導いた2万キロの戦略路

ホーチミン・ルートの建設と維持に関する事が解説されている。
このホーチミン・ルートを破壊するために、米軍は170万トンの爆弾を投下したとされる。
ホーチミン・ルートの大半はラオスを通る。ラオスもベトナム戦争に巻き込まれ壊滅的な状態となった。

いわゆる北爆を指揮したのは、あの「鬼畜ルメイ」である。
1965年カーチス・ルメイ空軍参謀総長は、「ベトナムを石器時代に戻す」と息巻いた。

ルメイのそれまでの経緯
大佐としてB17によるドイツ空爆を指揮している。
ドイツによる防空能力は高く、最大損耗率は3割と言われた過酷な任務だった。

◯日本への無差別絨毯爆撃
ルメイは無差別爆撃を実施したB-29部隊の司令であり、戦術転換を最終的に決断したのも彼ではある。
焼夷弾の使用や効果的な攻撃、更には壊滅的打撃を与えることで対日戦において決定的な役割を果たすことを強く要求したのは米陸軍航空軍の上層部である。

偏西風の影響を避けるため、高高度爆撃ではなく、低空爆撃(1800m以下)を主とした。
迎撃をかわすため夜間攻撃に限定した。
日本の木造家屋を効率良く破壊するため延焼しやすい専用焼夷弾を開発。
搭載燃料は最小限、防御用の銃座は外す・機体への搭載は焼夷弾のみ、かつ最大積載とした。

東京大空襲では東京一帯が焦土と化し死者10万人以上・負傷者11万人と言われている。
投入したB29、325機中撃墜12機、被弾42機という損害を被ることになった。
その後6日間、日本の各都市に焼夷弾が落とされ焼き尽くされた。だが7日目に南太平洋全域に備蓄していた爆弾を全て使い果たし、ルメイは爆撃停止命令を出した。
再び焼夷弾を調達し、今度は大都市のみならず市町村単位での爆撃優先度リストを作成し、徹底的に空爆を行った。

◯キューバ危機
キューバ危機ではルメイは核を積んだ爆撃機をキューバ領空ギリギリで待機させていた。
JFK大統領とマクナマラは全面核戦争を回避するために必死の説得を続けていた。
ルメイは強気だったが、実際の所キューバには160発を超える核弾頭が配備されており、フィデロ・カストロ議長とソ連のフルシチョフは米軍機が領空侵犯した瞬間にニューヨークとワシントンに核を打つ算段だった。


◯ベトナム戦争
1965年、ベトナムのブレイク(地名)にあるアメリカ軍基地が南ベトナム解放戦線により壊滅、将校が多数殺害されるという事態が発生した。 激怒したジョンソン大統領は、航空機による北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を即日命令した。
空軍参謀長として北爆を推進していたルメイにとっては
「北ベトナム問題に関する私の解決策とは、彼らに率直にこう言ってやることです。刃向かうな、攻撃をやめろ、さもなくばわれわれはお前たちを爆撃して石器時代に戻してしまうぞ、と。われわれは彼らを陸軍の力ではなく空軍力・海軍力で石器時代に叩き込むでしょう。」
と、述べてB52部隊の再編を開始した。
そして宣言通り、瞬く間に北ベトナム全土がB52の爆撃と空襲にさらされた。
ところが当の本人は1965年に自ら除隊している。


1972年冬ニクソンがデタントで時間を稼いでる間、北ベトナムを譲歩させるべく、北の都市港湾施設を大規模に絨毯爆撃を行う「ラインバッカーⅡ」が発動された。
泰、グアムから出撃した百機ちかいB-52ストラトフォートレスはハノイ、ハイフォンを夜間爆撃、延べ12日間に渉る猛爆を行った。
これに対し北ベトナムはソビエト軍事顧問の指導のもと毎夜200発近くのSAMミサイルによって迎え撃った。
作戦当初「ミルク運び」と形容された戦略爆撃は北ベトナムの対空砲火によってダメージを受け始める。
米軍発表で12機、北ベトナム発表で34機の「空の要塞」が撃墜されたとされる。
北ベトナムの戦法はチャフ回廊の中を編隊飛行してくる米軍の戦法を見破り、レーダー誘導によらず側的された高度で爆発する近接信管を用いたSAMを打ち上げる、というものであった。
この作戦は「クリスマス爆撃」として国際的な大非難を浴び、翌年1973年に終結した。
パリ和平条約は作戦前の原案とほぼ変わらないものであった。
「空のディエンビエンフー」と呼ばれている。

ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦
http://urx3.nu/N4ss
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ベトナム戦争 -テト攻勢-

2018-10-29 20:42:11 | 戦争
 ベトナム戦争やテト攻勢に関する膨大な映像がYoutubeにアップロードされている。
映像は情報量としては多いのだが、軍事行動の背景や政治的な動きは限定的にしか伝えられていない。ベトナム側の資料と、映画にもなった「ペンタゴン・ペーパーズ」によって、ベトナム戦争に関してベトナム政府及び米政府がそれぞれどのように情報を把握して思考していたのか判読できるようにはなっている。

 ベトナム解放戦線部隊が1968年1月31日午前3時を期して首都サイゴンをふくむ全国の主要都市、軍事基地に一斉に攻撃を仕掛けた。サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃された。
 このテト攻勢は、米軍の本格介入で劣勢に追い込まれた解放戦線側が、巻き返しを図って展開した乾坤一擲の作戦だった。解放戦線はテト(旧正月)の休戦の隙をついて、首都サイゴンをはじめ「南」全土の主要都市と基地に一斉攻撃を仕掛けた。サイゴンの米大使館も一時、占領されかけた。
 孫子の兵法に学んだボー・グエン・ザップ将軍はそれまでゲリラ戦を展開してきた。全面的な軍事行動には反対だったとされ、テト攻勢決定の会議は欠席している。

テト攻勢再考 木村哲三郎
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181029191652.pdf?id=ART0009384204
↑ベトナム共産党の党文献全集に収められた、政治局決議、中央委員会総会決議、南部中央局決議、第5戦区委員会決議や
指示などの党内部文献を米側史料と比較検討して書かれた論文

◯1968年のテト攻勢はレ・ズアン(Le Duan)第1書記が主導して行われた。
◯その頃、ボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap)国防相兼総司令官はすでに実質的に失脚していた。

 テト攻勢―正確には第一波―が完全に終わるまでにはほぼ1か月かかったが、その間に態勢を立て直した米軍や南ベトナム政府軍の反撃で、米軍の発表によると、推定6万7,000人とされた南ベトナム解放戦線の戦闘兵力は3分の2が壊滅した。
 戦術的には敗北を喫したが、アメリカのみならず世界的な反戦運動世論が沸き起こり、戦略的には成功したと言われており、ザップ将軍もその点は認めていている。

 余談だが、「世界的な反戦世論の高まり」に日本も影響を受けている。第二次安保闘争、東大安田講堂事件などは民族自決を掲げて米軍と戦うベトナム人民への共感を下地としている。
 日本の創作世界も影響を受けており、手塚治虫も1968年を境に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』などの社会派のマンガを志向するようになる。1970年代のマンガの爛熟期を支える起点とも言える。
 宮崎駿の「風の谷のナウシカ」の主人公ナウシカは自身が飼って行動を共にしているキツネリス(宮崎の想像種)を「テト」と呼んでいる。これを偶然と考えるか否かは、宮崎の思想的変遷を考えれば容易に答えがでよう。

 テト攻勢で南ベトナム解放戦線組織が大打撃を受け、北ベトナム正規軍が戦争の主役となり、重砲や戦車、対空戦力の増強が必要となっていた。
北ベトナムは防空体制の強化のために、ソ連が提供するレーダー、地対空ミサイル、高射砲そして地上戦を有利に進めるための重砲を必要とした。
中国はAK突撃銃などの小火器と機関銃、迫撃砲・対戦車ロケット砲・野砲しか提供できなかった。
中国は長期持久戦を望んだ。ソ連は長期化を望まなかった。

 解放戦線内部の親ソ・親中派の抗争は親ソ派側が優勢となり69年9月、ホーチミンが死去すると親ソ派の筆頭であるレ・ズアンが主導権を握った。

 中国もソ連の脅威への対抗策を探していた。こうした米中両国の思惑が合致して、1972年2月、ニクソン米大統領の中国訪問が実現し、米中和解が成立した。
 1972年5月北爆が再開される。北ベトナムの全港湾を機雷で封鎖して、共産圏からの軍需物資補給を断とうとした。
 翌1973年1月、難航していたパリ和平交渉が妥結して協定が成立。同年3月、68年頃には54万人を超えていた米軍の全面撤退が完了した。

 ベトナム戦争における戦死者は米軍側が約5万8千人、南ベトナム側が20万人以上、北ベトナム側は約110万人。南北の民間人犠牲者は3百万人以上とみられる。

 ベトナム戦争は1975年に北ベトナム解放戦線がサイゴンを陥落させて終結するが、戦争の悲劇は続いた。
1978年12月25日、反ポル・ポト勢力に手引きされてベトナム軍はカンボジア侵攻にし、クメール・ルージュを政権の座から追い出した。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュはわずか3年の間に300万人の自国民を殺害した。
翌年1979年2月17日、ポル・ポト政権を支援していた中国政府が懲罰として三個軍団、約13万の兵力でベトナム国境の全線にわたって攻撃を開始した。中越戦争である。
ベトナム政府軍が中国軍を押し戻して戦争は終わる。
当然、戦乱に明け暮れたベトナムは1980年代においても人民は貧困を脱せなかった。
1986年ドイモイと呼称する改革開放政策が打ち出され、社会主義体制のもとで市場経済システムの導入に踏み切った。

ベトナム戦争 7 テト攻勢

ベトナム戦争 9 ラオスとカンボジア (一部映像の乱れあり)
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