わんわんらっぱー

DIYやオーディオから社会問題までいろいろ書きます。

日中友好アニメ「カードキャプターさくら」が鳴らす清和会政治終焉の鐘

2019-05-01 22:49:14 | アニメ
○アニメーションに存在する言論の自由空間
 自宅ではテレビが見れないのだが、実家にはある。稀に肩揉み機を動かしながらテレビを見ることが有る。NHKはネットでは散々な言われようで、実際その通りにNHKは「アベちゃんねる化」している。2011年頃には優れたドキュメンタリー作品を放送していたが、良質な映像作品が減少しつつある。そんな最中2年くらい前にNHK-BSで「ベルサイユのばら」が放送されているのを見た。を?っと思った。あの「アベちゃんねる」が「ベルばら」ですか?と。 

 日本ではメジャーメディアは反米を煽るような内容の放送は難しい。特に報道においては一定の統制が行われていると推定されるし、報道関係者の不審死の事例は多い。だが、創作分野、つまりフィクション世界における、政治弾圧はそれほど聞いたことがない。どうやら、宗教批判系アニメ作品は圧力がかかった形跡があるが、それ以外では取り立てて仄聞しない。

 GHQが情報統制を行っていた頃から、漫画やアニメは所詮は子供向けの絵空事だということでお目溢しというのが通例なのか、大きな枠組みで言えばWar Guilt Information Programの一環で日本人を娯楽漬けにしておけ、ということで、放置なのか良くわからないが、日本の漫画やアニメでは言論の自由が存在する。それでも、放射能被曝を扱った手塚治虫のマンガ「きりひと讃歌」は版が進むごとに台詞の書き換えが行われていた。

 政治的意図という観点から言えば、悲劇的事象を描く路線もあれば、融和を謳う路線もある。私はどちらの路線に優劣をつけるつもりはないが、私の性格柄、歴史上であったり空想世界での惨劇を描く事によって発せられる政治的言論というものを極めて強く尊重する姿勢を取ってきた。

 だが、よくよく観察すると、著名人で政治弾圧や暗殺が加えられた事例には、連帯や融和的メッセージを発した事に対する、統治機構側の防御的な行動である事が多い。
 アベ政権下で「はだしのゲン」閉架問題が勃発した。これの政治的意図はよく分かる。「はだしのゲン」には内部被曝の描写があるし、「戦後の」日本統治機構の問題にも踏み込んだ描写がある。よって、広く人民に読まれたくないから閉架しろ、ということだ。
 ところが最近では唐突にジョン・レノンの「イマジン」叩きが始まった。歌詞は宗教や国境がない世界を想像し、人類の融和を理想とする世界観である。おそらく歌詞の内容の宗教批判という観点よりも、人類の融和は平和を宣言しているという点が、「奥の院」は気に入らないのであろう。


○カードキャプターさくらの続編から見えてくる日中友好路線の重要性
 話は飛ぶが、2018年「カードキャプターさくら クリアカード編」の放送が始まった。前作「カードキャプターさくらTV版・劇場版」(1998年-2000年)は、熱狂的なブームが起きた。ひねくれ者の私はリアルタイムには見ておらず、浅香守生氏が監督したGUNSLINGER GIRL(2003年-2004年)に衝撃を受けて、同監督作品をさかのぼって見たのである。浅香監督の少女の心理状態を丹念にビジュアル化、動画化する執念が作品から感じられた。
 登場人物達は前作クロウカード編・さくらカード編は小学生5・6年生だが、クリアカード編では中学生になっている。基本的には、主人公・木之本桜と香港から転校して来た李小狼(リ・シャオラン)や李苺鈴達と共に、魔力が宿るカードが繰り出す障壁を乗り越える形で物語は進んでいく。
 
 原作者であるCLAMPに政治的な意図は無いと思われるが、よくよく見てみると、日中友好を意図する演出が随所に感じられる。特に最新作であるクリアカード編では登場人物は中学生になったというのもあって、中国語や英語がポンポン発せられて、国際色が豊かに感じられる演出のみならず、さくらとシャオランの恋愛物が語という点が強く押し出されている。
 前作の原作連載やアニメ放送が始まった1990年代では、近未来では中国が覇権を握っていたり、個性的な中国人系キャラクターが登場するアニメ作品が増えてきた。それはSF色を強く押し出すための演出の一環であったのであり、特に中国を持ち上げるというものではなかったと思う。例えて言えば、リドリー・スコットのブレードランナーが近未来色を映像化するために日本人や日本文化を作中に登用したものと同じ意図であったと推測される。であるから、特にCLAMPが中国押しということではなかったのだろう。
 私も2000年代にはそのように考えてきた。
だが、石原慎太郎-前原誠司-野田佳彦らの尖閣問題に端を発した日中間の諍いや、アベ政権下のおける排外主義の横行で、日本の世相は経世会政治が紡いできたアジア融和路線から暗転する様相を見せてきた。
 製作関係者の意図とは別に、日中友好色が強く、広く国内外で視聴されるアニメ作品が存在するだけで政治的な意味が発生しえた、と私は感じたのである。
 つまり、日中関係が米国の指図に従う政治家によって、狙い通りに険悪化する中で、日中友好を物語として紡ぐアニメ作品はその政治的存在価値が増大したのである。

 前作のカードキャプターさくらのアニメ化に当たって、当時マッドハウスの社長であった丸山正雄は浅香守生へ監督の依頼をしている。(1) 放送するNHKの側もアニメーションとしては最大規模の予算編成を行ったとされる。
 丸山は1983年の「はだしのゲン劇場アニメ版」に設定で参加している。以後「政治的にややこしい作品」を意図的にプロデュースしてきている。最近話題の『この世界の片隅に』の映像化も丸山の力量に負うところが大きいとされる。荒っぽく言えば、私が勝手に規定する「アニメ思想史」なるものが存在するとすれば、丸山正雄は宮崎・高畑に次ぐ存在である、と評しようか。 
 その丸山はアニメがもたらす良い意味での「ソフトパワー」を使って日中の関係を良好なものにするべくアニメ化を行ったのかもしれない。
 当時、NHKの会長は海老沢勝二であり、新シルクロードなどを肝いりで製作するなど親中派の人物であったことも影響していると考える。

 2000年は政治的に激動の年であった。森喜朗を首相とする清和会政権が誕生し、日本の財政危機を訴えていた石井紘基議員が刺殺された。

 2000年、丸山が企画に携わった『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』をもって、主人公を演じていた丹下桜が事実上の引退をした(2005年から声優業に復帰)。カードキャプターさくらシリーズのアニメ化もそこでストップした。また、同年に丸山はマッドハウスの代表取締役を退いている。

 文字通り人気絶頂だったカードキャプターさくら自体が封印されてしまったのである。私には舞台裏を知る由も無いが、清和会政権の誕生と同じ時期に、続編の製作の望みは絶たれてしまったかに見えた。

 丸山は2011年6月にマッドハウスを退社してMAPPAを設立している。MAPPAの社長は後進に譲り、現在は会長職にある。そのMAPPAは、2016年には日露友好アニメとも言える「ユーリ!!! on ICE」を製作し、2017年の覇権アニメ(パッケージソフト販売の商業的成功)と称された。

 2018年、丸山の古巣のマッドハウスは2016年からCLAMP原作マンガの連載が開始されていた「カードキャプターさくら クリアカード編」のアニメ化を行ったのである。
 「クリアカード編」は最新のデジタル技術を多様して、セルアニメ作品の最高峰と賞賛された前作品群を凌ぐ圧倒的情報量を持ってして、元来持っている淡い色彩が放つ世界観を劇的に彩っている。
丸山の関わった作品は数多いが、インフルエンサー的な役割でアジア諸国民を揺り動かした観点から言えば、「カードキャプターさくら」こそが最も政治的に重要な役割を果たした作品と言えようか。

 暗い話が多い世相だが、私は本作が含有する輝ける映像と台詞を通じて、アジアの融和と平和を維持する心因的礎(いしずえ)とならんことを願うものである。

(1)浅香守生監督インタビュー/【カードキャプターさくら】制作裏話
https://matome.naver.jp/odai/2143749648540949101

劇場アニメ「さよならの朝に約束の花をかざろう」評論

2018-11-11 21:46:21 | アニメ
◯岡田麿里による「我こそは東映動画劇場アニメ本流を引き継ぐものなり」という宣言
 あまりネタバレしないように書きたい。
 本作を一言で評すれば、2時間という制約の中で、生命としての人を描き、社会の中の人々を描き、戦争の中の群像を描ききったと言えようか。
 基本は、マキアとエリアルの物語ではあるが、メザーテ国王の軍隊や、諸外国の軍隊との衝突なども濃密な映像で描かれる。単に牧歌的な話に留まらず戦争がもたらす悲劇や社会への打撃なども物理的にも心理的にも描かれる。

 脚本としても序盤での様々な発言や行動が、後の伏線となっている。レイリアの跳躍や犬との死別が、類似の形で後に発生し、あたかも物語がきれいに収束する感じに捕らわれるように、計算されてできている。また、ネット評で言われる通り、滂沱の涙なくしては見ることのできない作品である。
 
 キャラクターデザインはどことなく元祖アニメーター森康二氏を思いださせるような雰囲気があり、重厚なストーリーテリングであることもあり、作品総体を見終わった感覚としては、岡田による「我こそは東映動画の正当な継承者なり!」という高らかな宣言を見た、とも感じた。
 
 アニメ界自体が多様化して、奇をてらうような作品が多いなか、完全に作品をコントロールできる監督という立場に立ち、あえて、日本アニメの本道を行くバランスが良く奥行きの深い作品を世に送り出したという意義は大きい。本作が他の作家への与える影響は絶大なものだろう。ポスト宮崎駿に足る人物が意外なキャリアから発生した、といえば分かりやすいだろうか。


◯時間の流れを遡らない岡田脚本
 「時をかける少女」劇場版や「魔法少女まどか☆マギカ」のヒットやラノベの台頭もあり、時間ループ(リープ)作品が増えた。時間が巻き戻る作品は構成を複雑にできるので、想像の幅が広がるという利点はあるが、話がややこしくなるのと、フィクションの度合いが強まって荒唐無稽感が出るという短所もある。
 私が知る限り岡田作品で時間が戻る作品はない。(回想とかは別とする)
この点では保守的であるとも言えるが、脚本家としての美学があるのだろう。
本作では長命な「イオルフ」を主人公に据えて、人の寿命を遥かに越えて生きる者の悲哀を描いている。時間軸を守る宣言のようにも思えた。

◯本作誕生までの経緯自体が叙事詩
 エンドロールのスタッフ名を見て、椅子がから飛び上がった。錚々たるメンバーが名前を連ねている。かつて、岡田と一緒に仕事をした人という人たちだけでは無いように見受けられた。
 ここ10余年の日本アニメーションは岡田麿里の時代といっても過言ではない。脚本家が自ら数多記した脚本により、カリスマ性を帯び、自らが掲げた旗の元に凄腕のアニメーターが参集し、映像としても優れた劇場作品に仕上がった事自体が壮大な叙事詩であるとも言えようか。


機動戦士ガンダムが語ろうとした戦争。

2018-10-31 23:03:35 | アニメ
 1979年、機動戦士ガンダムはテレビ放送を迎えた。
作品は
「宇宙世紀0079
地球から最も遠い宇宙都市サイド3ジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。
この一ヶ月あまりの闘いでジオン公国と連邦は総人口の約半数を死に至らしめた。
人々は自らの行為に恐怖した」
のナレーションで始まる。「地球へのコロニー落とし」というカタストロフィ後の戦争が描かれている。
52話の予定が視聴率低迷を理由に43話に短縮されて放送打ち切りとなったが再放送で人気に火がついた。後に劇場版3部作が上映されて、ダンダムのモビルスーツプラモデルも爆発的な売れ行きを見せた。ガンプラの累積販売数は4億個と言われている。

◯ファーストガンダム成功の理由
 富野由悠季の「ザンボット3」は衝撃的な最終話で話題とはなったが、それまでの子供向けロボットアニメの範疇を越えていなかった。『宇宙戦艦ヤマト』から始まったアニメブームを念頭に「機動戦士ガンダム」は起案された。
 「機動戦士ガンダム」は従来のロボットアニメとは一線を画し、宇宙戦艦ヤマトでは疎かだったSF考証に関して専門の人員を配してリアリティにこだわった。
 地球と月の引力が拮抗するラグランジュポイントにあるコロニーへ多くの移民が居た時代、ジオン・ズム・ダイクンは宇宙移民の独立を提唱した。ダイクンを暗殺したザビ家はザビ公国を名乗り、地球連邦政府に対して独立戦争をしかけるという、現実の戦争において有り得そうな軍事戦略展開をした。
 宇宙戦艦ヤマトシリーズに参加していた安彦良和はガンダムにアニメーションディレクターとして参加している。安彦良和によれば内容にも口出し出来るポジションを確保したかったため、ということのようだ。しかし、宇宙戦艦ヤマトの経験から、当初から続編には参加しない意向だったとされる。安彦は続編の機動戦士Zガンダムときには富野側からシャットアウトされた、とも発言している。
大河原邦男が実際の産業機械としての実用性が有りそうなロボットメカデザインを行った。
脚本は練りに練って4人体制で始まった脚本家は星山博之以外は富野総監督によって外されている。
星野によるとチェーホフの舞台劇に影響を受けたと思われる、決め台詞が突然決まって、その台詞に落とし込むような脚本展開が要求されたとされる。

以下箇条書き
・敵役シャア・アズナブルの行動に必然性がある、ように見える設定が行われている。
・それまでにアニメ界が培った様々な映像技術が注ぎ込まれている。富野が高畑作品のハイジや三千里に絵コンテで参加。
・ファミコンなどのゲーム機がなかった。
・イデオロギー戦争に対する恐怖感が現在よりも濃厚だった。
・そもそも、競合するアニメ作品が少なかった。
・安彦キャラクターの魅力ある人物を多数配置した。
・大河原邦男デザインのモビルスーツの持つ魅力。
・製作者サイドの自発的な意見が尊重された。
(それでも、安彦によれば、スポンサーサイドから、CMの前後で戦闘シーンが入るように要求され、富野は忠実にそれを守ったとされる。)
・石ノ森章太郎原作の宇宙SF作品の意匠を取り込んでも居る。
・先んじて「海のトリトン」の美少年キャラや「ライディーン」などの美形キャラに対してファン層が形成されていた。
・脚本を練り込んで、ヒューマンドラマを数多く盛り込んだ。
・SF考証を行いリアリティにこだわった。
・登場型ロボットが自律型ロボットよりも自動車の運転に似ており、親しみを感じた。
・補給や修理を徹底的に描いた。(マチルダさん達)
・視聴率テコ入れのために新型のモビルスーツが作品に続々と投入された。


◯機動戦士ガンダム THE ORIGIN
 安彦良和の手によるマンガ機動戦士ガンダム THE ORIGINが23巻で完結している。ファーストガンダム本編以外に、ザビ家によるジオン・ズム・ダイクン暗殺からルウム戦役までの本編直前までが描かれている。ルウム戦役で5隻の戦艦を沈めたシャア・アズナブルの活躍を見ることが出来る。この部分は、劇場版アニメとして、機動戦士ガンダム THE ORIGIN 1話-6話で製作されている。
ファーストガンダムに相当する部分も製作予定であり、2019年に上映されると言われている。(要検証)

 安彦は自分で作品をコントロールしたかったと繰り返し述べている。特に、作中に登場するエスパー的超人である「ニュータイプ」の概念が独り歩きして、選民思想と結びつくことを警戒した。同名の「ニュータイプ」というアニメ雑誌が創刊されており、その懸念が荒唐無稽とは言えないほど、社会現象となっていったのである。
 THE ORIGINでは主人公アムロ・レイを当初は「感の良いエスパー扱い」から入り、科学者による科学観察や研究対象として扱い、万能的な人物ではない、という演出を打ち出している。
 また、宇宙移民の独立を提唱したジオン・ズム・ダイクンに対する極端な神格化も避けるように描いている。作中では演説中に毒殺されてあっけなく死んでしまう。

 また、主人公たちが乗り込む「ホワイトベース」は、当初は偽装輸送艦として登場し、戦闘艦なのか不明なまま運用されて、強襲揚陸艦として使われると噂されて、最終的にジャブローで改装されてペガサス級宇宙戦艦となる。
 このような「ホワイトベース」に対する軍艦運用の描かれかたはファーストとの違いとして挙げられる。 


◯安彦良和とマルクス
 安彦良和はマルクス経済学を徹底的に読み込んだ経緯で、ベトナム反戦運動にも取り組んだ経緯がある。現在では
「マルクス主義は間違いだが、マルクス経済学は今でも通用すると」
言及している。

 マルクス主義の負の側面は存在するのは確かである。独裁政治による粛清や、統制経済による生産停滞が起きた。
だが、ソビエト連邦に限って言えば発足から、他国により営々と戦いを強いられた国家であり、経済の疲弊は避け難かった。
マルクス主義は米帝国主義よって敗北に追い込まれたのである。

ソ連はナチスとの戦いだけでも2000万人の死者を出した。
戦後は米国との核兵器競争が始まる。
1950年から始まった朝鮮戦争で、搭乗員こそロシア人では無かったが、米国とジェット戦闘機で交戦している。
ベトナム戦争ではベトナムはソ連や中国からの援助を得て対米戦争を勝ち抜いている。
ソ連は1973年まで戦争の当事者で有り続けたと言える。
1979年からはアフガニスタン紛争へ介入し1989年に撤兵で幕を閉じるが、これがソ連邦崩壊の決定打となった。
皮肉な事に、帝政ロシアが戦争を繰り返し、人民の疲弊が極限に達し、革命を産んだ。
ソ連革命政権は米国の帝国主義に対抗するために戦乱に明け暮れて、最終的に崩壊した。

 西側を自由主義陣営だとか、民主主義陣営と呼んでいるが、実情は米帝国主義陣営であった。
ナオミ・クラインのショック・ドクトリンなど、米帝国主義批判が行われてはいるが、日本ではそれほど米国の国際政治政策が危険視や問題視されているとは言い難い。
 そもそも、大戦後も各地で戦争が起きており、「冷戦」という表現が現実に即していない。
日本では第二次大戦後は平和な時代が続いたとみなされるが、日本本土が戦争になっていないだけで、朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需で社会資本を蓄積することができた。
日本は米国保護領、そして、資本主義陣営のショーウィンドウ国家として一定の繁栄が許された。
一言で言えば、米帝が「ソ連の存在を許さずに抗争し続け結果的に崩壊した。一方で日本は米帝保護領としたので繁栄した」のである。
戦争時に培った製造技術の民間転用と、戦争需要で「下駄を履いて」経済成長したのである。

 安彦はベトナム反戦運動で大学に二週間も立て籠もり除籍になった人物であるから、人一倍民族主義・アジア主義的な価値観に基づく抗米戦争に敏感だった。であったがゆえに、虚構の世界における戦争描写でも手を抜かないで、現実味をもたせることに執着したのである。

 戦争描写における高い再現性は「装甲騎兵ボトムズ」などで活躍する高橋良輔にも見て取れる。高橋はアニメ「ヤングブラック・ジャック」でベトナム戦争やあさま山荘事件の脚本を担当している。

 日本のアニメーションは日本国内が経済的基盤を得て、人民の生活にある程度の余裕があったから、それなりの市場規模を確保しえた。アニメ技術の成熟は製作者達の賜物であることは言うまでもないが、多数多様な作品がオタク層を育み、そのオタク層がアニメーション界を支えてきた。アニメ文化の爛熟は東側と西側両陣営が激突する間隙を縫って、偶発的な「歴史のあや」によって発生したとも言える。
 戦争当事国や支援国は必要な生産を維持するだけで労働者は時間を奪われて、趣味的な活動を行う時間を持てないのである。
日本も2000年の清和会政治となってからは、米国への金融支援や軍事支援によって国力を吸われており、生活水準が低下しつつある。今後、日本アニメ界が生き残ろうとするのなら、日本以外の市場を獲得せざるを得ない。

実写を超えるリアリティを産んだアニメーション作家、巨匠高畑勲監督を追悼する。

2018-04-29 21:24:51 | アニメ
(敬称略)
 映画よりも現実味を感じるアニメーションを作り、戦後アニメーション開闢者の一人である、アニメーション監督高畑勲氏が亡くなられた。宮崎駿・高畑勲の2人は様々なアニメ作品を通じて、人を語り、世相を読みあげ、日本社会への警鐘を乱打してきた。
 何しろ、宮崎駿の夢には高畑勲しか出てこないとまで言われ、鈴木敏夫プロデューサーによると、宮崎は高畑勲ただ一人のためにアニメーションを作っているとまで言わしめるほどに、宮崎は高畑への一方的な片思いが存在する。
 鈴木敏夫の「吹かし」が多分にあるにしても、商業的失敗覚悟、巨額損失計上前提で、高畑に「となりの山田くん」に続いて「かぐや姫の物語」という作品の製作の場を与えた宮崎・鈴木の渾身の配慮が、その偏愛を裏付けるとも言える。
 常日頃、私が思うに、存命中にその仕事を賞賛しなければ意味がない、と思うのである。であるから、今更高畑勲を顕彰しても、お墓の中には届かない。それでも、拙い文章を通じてでも語らざるを得ないほど、高畑作品とその相方であった宮崎作品に私は強烈な影響を受けているが故に、高畑の死は衝撃なのである。

 作品の時系列から言えば、「太陽の子 ホルスの大冒険」(1968)の存在が大きいということになる。本作ホルスはかなり遅れてみた。いわゆるアニメ解説本のたぐいから、アニメーションの歴史的な意義が幾度も語られていた作品であった。ホルスの斧を「鎖鎌術」を用いて縦横無尽に振るい、激しい戦闘を行う場面から始まる。とにかく登場人物が激しく動くのだが、最後の方の群衆シーンでは止め絵を左右に揺するスタイルとなっており、製作過程で力尽きた感がでている作品である。当初1年の所を3年の月日を費やして製作にあたったが、事実上未完成での公開に至るという所が高畑勲的と言える。これにより、プロデューサーの原徹は東映動画を辞職に追い込まれたが、後に原は高畑・宮崎のプロデューサーしての役割を担っていく。
 作品内容は農本主義と労働者の団結を基礎としており、東京大学仏文出身の高畑の理想とする思想的な面が強くでている。当然のように当時のソ連では高い評価を受け、日本国内でも初めてディズニーに並ぶ作品が登場したと評された。

 東映動画はホルスの大冒険製作にあたって演出(現在の監督)に大塚康生を指名したが、大塚は固辞し高畑を監督に推薦した。高畑と宮崎は学生時代から政治運動を通じて既知の間柄であり、宮崎は高畑の導きで東映動画に入社したとされる。平のアニメーターに過ぎなかった宮崎がホルスで要職を担ったのは、宮崎の演出にかける積極的な働きかけによるものであるが、高畑が宮崎を重用する判断を行っている。
 ホルスはアイヌ民族風の人々で構成されており、苦境にある人々を描いていく高畑作品の出発点となっている。
 宮崎にとって高畑は単なる上司と部下という立場を超えて、アニメーション演出の師であり、古典的生産社会を理想とするマルクス主義的な視座からの理念を育んだ思想における師でもあり、後にタッグを組んで「風の谷のナウシカ」を生み出すに至るまでの共同作業体としての同志でもあった。

 ホルスで協同して作業にあたった大塚康生は東映動画退社後の高畑・宮崎の就職斡旋を行い、後に鈴木敏夫を高畑や宮崎を紹介して、大塚自らが行っていたプロデューサーとしての役割を鈴木に引き継がせている。また、高畑・宮崎をキャラクターデザインや作画で支える近藤喜文を日本アニメーションに就職させたのも大塚である。

 高畑は日本アニメーション時代には『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『ペリーヌ物語』『赤毛のアン』に関わっている。
 ハイジ・三千里・アンは高畑作品と言えるが、フランダースの犬とペリーヌは森康二(もりやすじ)の作風である。
 日本における元祖アニメーターと称されている森康二は自著で高畑・宮崎を「天才」とか「雲の上の人」と絶賛している。同業者をこんなに褒めそやすのも珍しい。
 この5作品は世界名作劇場の黄金期であり、ハイジは現地ロケハンに1年を費やしたとされる。

 緻密なロケハンと、丁寧に日常を描くことがアニメーション足り得ることを証明した作品群であり、それまでアニメーションを席巻していた劇画などを原作にした、劇的物語展開作品以外の世界を切り開いた。

 私は5作とも全編を観ているが、母をたずねて三千里を再放送で最後まで見ることが出来なかった。マルコがアルゼンチンで旅費で貰った丸めて所持していた札束を駅で盗まれてしまい、その後の苦境を察して観るのを止めてしまったのである。
 後の「火垂るの墓」も1回は通して観ているが、辛くて最後まで観る事ができないのである。そんな作品は他にない。本来、実写の方が恐ろしく、悲しいはずなのだが、なぜかデフォルメされたキャラクターの方が感情移入してしまいやすいのである。私の頭がアニメ脳になってしまっているのか、高畑の実写をも乗り越える演出によって為せる技なのか判然としないが、私は高畑の演出力によって発生する魔力なのだと考えている。

 「赤毛のアン」にはキャラクターデザインに近藤喜文を起用している。今から見ても萌え要素抜群のデザインである。それまでは東映動画風であり、森康二的なキャラクターデザインが世界名作劇場の流れであり、今にして思うと顔の輪郭は「ポプテピピック」しているし、目が「小林さんちのメイドラゴン」の小林さんなのである。それに比べてアン・シャーリーは目が大きくて可愛らしく、顔の輪郭もシャープである。しかも、近藤はアンが1歳成長するごとに明瞭に顔のデザインを描き分けて設定している。

 明らかにアン・シャーリーのデザインは「カリオストロの城」のクラリスや、「風の谷のナウシカ」のナウシカの原型となっている。また、アンの声優オーディションでは、山田栄子と島本須美が争ったが、高畑は特徴のある声をしているヘタウマ山田栄子を抜擢したが、宮崎は島本須美を後の作品で使うことを想定したとされ、クラシスもナウシカも島本須美が演じている。

 この近藤喜文がもたらしたキャラクターデザインよる萌え要素力を宮崎は後々全開で作品に取り入れていくことになる。高畑も宮崎もスタジオ・ジブリ後継者として近藤喜文を重用し、近藤は『耳をすませば』では監督を担っているが、1998年に急逝している。
 後にジブリを引き継ぐ者として、森田宏幸、細田守、庵野秀明、新海誠、片渕須直、米林宏昌の名前が出たが、結果的に宮崎駿的美少女演出追求家としては「借りぐらしのアリエッティ」「思い出のマーニー」「メアリと魔女の花」を監督した米林宏昌が担ったと言える。というのも、米林の画力が凄まじい。作画の比較はあまり意味が無いと断った上で言えば、米林のイラストは宮崎や近藤を超えている、ようにすら見受けられる。

 高畑はナウシカのプロデューサーを務め、一山当てたご褒美に『柳川堀割物語』(1987)の製作に入るも、例によって大幅に製作期間も制作予算も超過して、宮崎は所沢の自宅を抵当に入れて銀行融資を受けるハメに陥る。

 「火垂るの墓」(1988)では、ジブリは高畑の「火垂るの墓」制作班と、「となりのトトロ」制作班に別れて、2本立て上映を目指すのだが、近藤喜文の争奪を巡って高畑・宮崎で激しい鬩ぎ合いが演じられた。
 世間一般では高畑勲の代表作は「火垂るの墓」となっているし、実際岡山で空襲を受けた経験のある高畑としても、反戦の意志を指し示す重要作品であることは間違いない。
高畑は最晩年には『「火垂るの墓」には戦争を抑止する力足り得ない』とアベ政治への批判を口にしていた。
 私にしては珍しく「火垂るの墓」は野坂昭如の原作である小説を読んでいる。なぜ「蛍」が「火垂る」なのかは、岡田斗司夫の解説で知ったのだが、蛍のように夜空を演出する焼夷弾を火垂ると称しているのである。
 主人公の清田(せいた)が我を張らず良い子を演じれば、生き抜くことも可能であったと称する人も居るが、これも最近知ったのだが、都市部の大空襲や戦争で親を失った疎開先の膨大な孤児を戦後の日本政府は「無かったことにした」のである。今話題の森友学園は大阪大空襲で発生した孤児を収容する施設として発足している。
 米軍の駐留経費に国家予算の3分の1を計上しながら、孤児への配慮はGHQに指示されるまで放置したのである。戦災孤児の餓死者数は判然としない。なにしろ、1945年から1949年までの餓死者数が公表されていないのである。
 戦中よりも戦後の方が食糧事情が悪かった。闇米摘発はGHQが日本人民による蜂起を抑止するために意図的に食料流通を抑えたという説も有り、そういった事情がまた戦災孤児を追い込んだ。
 戦争は終戦(敗戦)すれば終わりではく、むしろ、戦後に本当の生き地獄がやってきたのであり、無数の清田や節子が発生したのである。

 高畑は絵は描けなかったが音楽には造形が深く、譜面を読めたし、楽曲から譜面を起こすことも出来たそうである。作品で使用する楽曲には、かなりのこだわりがあったそうだ。
「魔女の宅急便」(1989)では音楽演出として参加している。
 
 以後、「おもひでぽろぽろ」(1991)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)と日本社会の世相を描く作品を監督した。
 フレデリック・バックから影響を受けて、「となりの山田君」(1999)「かぐや姫の物語」(2013)では人物と背景が一体となるような作風に転じた。
高畑が写実性を捨てて、商業的な採算性を度外視する芸術路線へ転向したのは宮崎と同じ作風を維持しても意味がないという判断によるものとされている。

 私は片渕須直監督の2016年の話題作「この世界の片隅に」を観て、なんとなく高畑勲的な作風を感じた。それは前作「マイマイ新子と千年の魔法」よりも「この世界の片隅に」はより淡い色彩で描かれており、フレデリック・バック的な絵作りの傾向が観て取れた。演出家として緻密なロケハンと聞き取り調査と膨大な資料の読み込みから再現される背景と、細かい日常動作の描き込みは高畑勲的演出を想起させるものであった。
 後に知ったのだが、「魔女の宅急便」を起案したのは片渕須直であり、演出補として残った片淵はストックホルムなどノルウェー各地をロケハンして、緻密な街づくりを映像に反映させている。
 評論家の宇野常寛も「この世界の片隅に」をして片淵を高畑演出の継承者と評しており、やはり、そうなのかと思い至った。

 高畑勲の遺産は属人的な技術などで継承されており、高畑死しても、その遺志はアニメが作り出す虚構の映像世界に生きていると言うこともできる。

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岡田斗司夫ゼミ11月27日号「『この世界の片隅に』で見えたTVアニメーション崩壊前夜!中抜きでアニメ業界総ブラック!業界のおカネ事情は?~アニメ・イズ・デッド第二弾」対談・山本寛(アニメ-ション監督)


「終末のイゼッタ」魔法少女の絶大な戦闘力と近代戦争を一元化し、国家間の攻防と個々人の悲劇を現実的に描き切ったアニメ史上に残る屈指の傑作!

2017-02-27 09:18:07 | アニメ
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松竹

敬称略
(なるべくネタバれしないように・・)
 主人公イゼッタ役は「Dance with Devils」(2015年)立華リツカ役を演じた茜屋日海夏(あかねや ひみか)。公女フィーネ役は赤髪の白雪姫の白雪など数々の作品に出演しており、既に著名な早見沙織。他声優陣は驚くほど豪華であり、声優オタクなら作品を見る前から仰天する陣容となっている。
 ちなみに、「終末のイゼッタ」はあにぽた年間アニメランキングトップ100で1位を維持している。ネットでは10回数以上の視聴をしたとの書き込みもある。
参考https://akiba-souken.com/anime/ranking/
 驚くべきは全くノーチェック状態だった「亜細亜堂」が本格的な戦闘描写を基盤としたアニメ作品を製作したことである。亜細亜堂といえば子供向けアニメ製作が主力であり、私が見たことが有るのは「英國戀物語エマ」ぐらいしか思い浮かばない。エマは19世紀英国、イゼッタは20世紀中欧だが、服飾や建築意匠で通ずるものが有ると言えばある。

 近年、アニメやゲームでは戦争の残虐さを伏せたり、そもそも人が死なない設定の作品が増えた。戦争にまつわる悲劇を描かずに戦闘行為で登場人物が活躍する場面を連続的に映像化した作品の増加は、私にとってある意味脅威である。日本という国家自体が米国の誘導により戦時体制に入りつつ有る。かつての「海の神兵」のような宣撫工作アニメ作品が、意図して作られてアニメ市場に投入されているのではないかという疑念が拭えない。何しろ現在の日本では、副首相が「ナチスに倣う」と公言し、絶対的権力掌握のため「改憲や緊急事態権制定」を急ぐ政権統治下にある。

 そんな状況の最中にアニメ「終末のイゼッタ」は忽然と現れた。本作は1939年、各国の設定は現実の国名と差替えられているが、明らかにナチスドイツを模したゲルマニア帝国による軍事侵略に抗う小国エイルシュタット公国の「公女フィーネ」と「最後の魔女イゼッタ」による激闘と悲哀の物語である。

 作品のプロットは「風の谷のナウシカ」的な要素が強い。族長の娘ナウシカは内政・外交・軍事指揮・蟲の誘導(一種の軍事力)とすべてを役割を一人で担ったが、「終末のイゼッタ」では魔力を使った軍事力行使はイゼッタ、他の内政・外交・軍事指揮はフィーネと役割分担している。幼少時にフィーネに命を助けられたイゼッタは、自己存在の全てをフィーネとエイルシュタット公国に捧げていく。やはりというべきか「魔法少女まどか☆マギカ」が紡いだ百合要素も織り込んである。
 直近では「純潔のマリア」(2015)が類似作品として存在する。魔女マリアは英仏の軍事衝突を収めるために魔力を使い、大天使ミカエルの逆鱗に触れる。「終末のイゼッタ」の雛形となった可能性は高い。
 軍事描写は「月刊PANZER」から軍事ディレクションを仰ぎ、兵器の挙動や歩兵組織、塹壕戦の圧迫感などを緻密に再現している。従来の魔法少女と一線を隠すのは、近代戦争と魔法の力による正面からの衝突を、可能な限り細密に描いたという点である。そして、多くの人が傷つき斃れる様をも描いた。商業的観点から言えば、残酷描写は避ける流れにある中で、本作は戦争のもたらす悲惨な有り様を丁寧に描きだしている。藤森雅也監督は「西部戦線異状なし」などの古典戦争映画が持つリアリティの再現を希求した趣旨の事を述べている。

 音楽は「未知留」という若手の作曲家。瑞々しい感性を感じる新鮮な作風であり、作品を盛り上げる効果が高く、ネットでも軒並み高い評価である。OPは力強いメタルソング、担当はAKINO、EDは哀愁漂うバラードでMay'nが担当。

 奇想天外さに度肝を抜かれたのが、魔法少女イゼッタが対戦車ライフルに乗って活躍する描写である。
 アニメにおける対戦車ライフルの登場は古く「カリオストロの城」(1979)で次元大介が操っていた。攻殻機動隊TV版(斎藤)や劇場版PSYCHO-PASSでも登場する。
 一方でいわゆる戦闘系美少女アニメでは、対戦車ライフルが重要な役割を担うには定番となりつつあった。大戦後の現代では、対物ライフルとして利用されている。
「DARKER THAN BLACK 流星の双子」(2009)では蘇芳・パヴリチェンコがUSSRの単発ボルトアクションのデグチャレフ PTRD1941を駆使して物語が進んだ。
 Angel Beats!(2010)では仲村ゆりが第一話でチェイタックM200を狙撃に利用して物語が始まる。
 ソードアート・オンラインⅡ(2014)では仮想世界において朝田詩乃(シノン)がPGM ヘカートII(仏製)を駆使して対戦相手を攻略していく。
「棺姫のチャイカ」(2014)ではチャイカ・トラバントが棺に自身の身長よりも長い機杖(ガンド)を魔力で操った。
 個人的にはかなり難易度の高いSF設定を施した岡田麿里脚本の「DARKER THAN BLACK 流星の双子」が鮮烈な記憶を残している。

 帝国主義に基づく軍事侵略に伴う悲劇と、それに抗う為に行使される魔力という強大な武力を巡る各国の諜報や外交の駆け引きなどまでも、細密に織りなされて物語は終盤を迎える。シリーズ脚本の吉野弘幸は「フィーネこそが魔女」と述べている。国家を背負って個々人を否応なく操り、外交折衝を行いながらも、軍事力の行使を躊躇せず、自国の存続を最優先する皇女殿下であるフィーネこそが、政治力を通じた現代の魔女なのである。
 魔法はファンタジーではあるが、現実的な現象として映像に嵌め込み、違和感なく溶け込ませている。そして多数の登場人物達の思惑が錯綜し、衝突しつつ紡ぎ出される寓話でもあるが、あたかも実写映画を凌駕するのではないかと思わせる緊迫感を持続させている。
 現代日本社会への警鐘を乱打したとも受け取れる「終末のイゼッタ」だが、題名とは裏腹に日本アニメ界の「浮力」を維持させ、更なる映像作品群を生み出す原動力となるであろう。
TVアニメ「終末のイゼッタ」オリジナルサウンドトラック
フライングドッグ