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はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

ドリームガールズ

2007-02-19 16:16:14 | 映画
「ドリームガールズ」監督:ビル・コンドン

一瞬で引き込まれた。それは濁流に飲まれる感覚にも似ていた。派手な照明、きらめく衣装、リズミカルにかき鳴らされるブラックミュージック。陽気な音楽の洪水の奥から、きっと楽しいことが押し寄せてくる。その予感が運転疲れの脳を完全に覚醒させた。トニー賞6部門を受賞した伝説的ミュージカルの映画化は、「シカゴ」脚本を担当したビル・コンドンが指揮をとり、キャストにも恵まれ、結果後世に語りつがれるべき名画となった。歌うことの楽しさと、夢の変遷。それがテーマだ。
シカゴ育ちの三人娘エフィー(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル(アニカ・ノニ・ローズ)はドリーメッツというトリオを結成、スターになることを夢見て多くのアマチュアオーディションに出場していた。実力はあるのに運に恵まれない三人だが、野心家カーティス(ジェイミー・フォクス)との出会いにより、ジェームス・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスを任されることに。それだけでも成功には違いないが、カーティスは満足しない。強引な手腕ながらも黒人開放の時流に乗り、三人娘をザ・ドリームスとして華々しくデビューさせた。
その際リードボーカルを歌唱力に勝るエフィでなく華麗な容姿のディーナにしたのはテレビ時代の訪れの現われでもある。だがそれを不満とするエフィは大暴れの末に脱退。新メンバーとともにザ・ドリームスが歩むのは、ポップでライトで踊れる音楽。ソウルを失った楽曲に絶望したジェームスと作詞家C・Cが離れ、映画出演など音楽活動以外の活動に従事させられることにディーナは疲れ……。
彼女らは自らに問う。自分たちがやりたい事はなんだったのか、かなえたい夢はなんだったのか。他人の夢を踏みにじってもなんとも思わないハイパープロデュースマシンと化したカーティスに鉄槌を下し、そして壮麗なるラストステージが訪れる……。

ジェニファー・ハドソンの名演、ビヨンセ・ノウルズの美声、ジェイミー・フォックスの悪の演技。良いところはたくさんあるけど、個人的に印象に残ったのはエディー・マーフィだった。彼の演ずるところのジェームス・アーリーは中堅どころの歌い手だが、陽気で下品で女好きで、でもソウルに満ちていて、本当に楽しそうに歌うのだ。生粋のエンターティナーのエディのキャラが生かされていて、それがとても嬉しかった。最近ぱっとしない彼だけに、この当たり役は大きい。夢の変遷と人の心の移り変わりと、汚れちまった悲しみと、それらをすべて表現しきった彼のラストは見物。

ブラック・レイン

2007-02-10 18:36:05 | 映画
「ブラック・レイン」監督:リドリー・スコット

滲むように真っ赤に沈む夕日。蒸気と煙で黒く塗りつぶされた地上。赤と黒の毒々しいコントラストで表現された工場地帯が、敗戦後の瓦礫の山から復興した日本の象徴である、とリドリー・スコットは思っていた。結果生み出された猥雑で活気に溢れた街並みを大阪に求め、名作「ブレード・ランナー」のようなサイバーパンクな世界観を見事創りあげた。後にも先にも、これほど異国感を漂わせた道頓堀の映像を撮った作品を、俺は知らない。
ニューヨーク市警殺人課の汚職刑事ニック(マイケル・ダグラス)は、偶然居合わせたレストランで日本のヤクザ同士の抗争を目撃する。負傷しながらもなんとか拘束したヤクザ佐藤(松田優作)を日本まで護送する任務に就くが、日本の警察官に扮したヤクザに佐藤を奪われてしまい、慣れない土地での捜査に奔走することとなる。大阪府警の松本(高倉健)の協力はあるが、何せ大阪は佐藤の地元、相手の策略にまんまとハメられ、相棒チャーリー(アンディ・ガルシア)が斬殺されてしまう……。
捜査を共にするうちに芽生えるニックと松本の友情。菅井(若山富三郎)や菅井の若衆(安岡力也)の板につきすぎたヤクザぶり。ヤン・デボンの手による印象的なカメラワーク……。
見所は満載だが、なんといっても本作のポイントは佐藤。松田優作が生み出した暴走ヤクザのど迫力。ニューヨーク市警の取調室で、マジックミラー越しに見えるはずのないニックにサインを送るシーン。夜の大阪の駐車場で、追い詰めたチャーリーの首を刎ねる直前の無言の笑い。口数の少ない佐藤という男を所作のみで演じきるあたりはさすが。とても撮影当時癌を患っていたとは思えない。
佐藤の名演がアメリカ映画界に残したイメージは大きかった。実際、ショーン・コネリー監督の次回作に出演するという話もあったという。が、そんなことはもはやどうでもいい。彼が死んでしまったことに変わりはない。彼は永遠に失われ、スクリーンの中にのみ生き続ける存在となった。映画に命を賭けたある一人の男の亡骸。その姿が荒廃した工場地帯の姿とだぶる。高度経済成長の真っ只中にある街並みの、内在する儚い夢の、行き着く先にある悲しみ。それを背負っているからこそ、この映画は心に沁みるのだ。

幸せのちから

2007-02-06 00:44:26 | 映画
「幸せのちから」監督:ガブリエレ・ムッチーノ

原題はThe pursuit of happyness。アメリカ独立宣言に基づく言葉。スペルの間違いは、作中に登場する託児所の落書きに由来している。正しく訳すなら「幸福の追求」となるが、堅苦しさを避けるためこのような邦題になった。しかし「幸福の追求」は作中重大な意味を持つ言葉として何度も登場してくる。「幸せのちから」ではだめなのだ。その根幹に関わる変更をあっさりとやってしまうところが非常に腹立たしい。

個人的鬱憤はともかくとして、面白い映画だった。単純なサクセスストーリーではなく親子の愛を描くことに重きを置くことにしたのは正解。
骨密度測定器のセールスに失敗したクリス(ウィル・スミス)は妻に捨てられ、息子クリストファー(ジェイデン・クリストファー・サイア・スミス)と共に路頭に迷う。アパートを追い出され、モーテルからも締め出され、友人からは見捨てられ、泊まれるところといえばグライド(貧民救済の宿泊施設)のみ。そこがだめなら駅のトイレの個室。唯一の希望の光は株の仲買人の見習いになれたことだが、それだって20名の中から1名のみの選抜で、あげく半年間無給ときてる。
どこまでも落ちていく境遇に唖然としてしまう。しかもそのほとんどが自分の蒔いた種。まったくもって自業自得……なんだけど、なぜか同情してしまうのはクリスの行動指針が純粋だから。息子を愛し、共に幸せになる為にサンフランシスコをひた走る姿に父親を感じるから。
クリスが高級車から降り立った男に成功の秘訣を聞くシーンがある。街をゆく人々の笑顔に羨望を感じるシーンがある。すべての人間は平等で、等しく生命、自由、幸福を追求する権利を有するのだから、きっと俺だって幸福になれる。その願いには共感できる部分があった。幸せになってほしいと思わされた。だからこそというか、ラストの無音の雑踏の中での歓喜のガッツポーズはなかなかの名シーン。
その他に特筆すべきは息子クリストファーの可愛さだ。ウィル・スミスが実の息子を映画に登場させると聞いて、その親バカぶりに正直がっかりきていたのだが、これが意外や意外の掘り出し物だった。飛んだり跳ねたり泣いたり笑ったり愚図ったり、演技なのかそうでないのか分からないほどのナチュラルさ。そしてウィル・スミスにもたれかかった時に浮かべる安らぎの表情。委ねきった寝顔。こればかりは他の子役には真似できない。実の親子ならではのコンビに拍手。

「マイボス・マイヒーロー」

2007-01-30 23:57:44 | 映画
「マイボス・マイヒーロー(漢字表記は頭師父一體。トゥサブイルチェと読む)」監督:ユン・ジェギュン
         
韓国ヤクザの若頭ドゥシク(チョン・ジュノ)はバカだ。メールと手紙を間違えたり(それはそれで合ってるような気もするけども)、自分の名前を漢字でかけなかったりと筋金入りのバカ者。組長に高校卒業を命じられ、とある私立の高校にギブ入学(裏口入学)するも、そこは悪徳校長の支配する学園で……。
笑いあり涙ありバイオレンスあり。とにかくいろんな要素を詰め込めるだけ詰め込んだらこんなんなっちゃいました、という韓国映画特有の(偏見)好き放題しっちゃかめっちゃかムービー。日本ではリメイク版がテレビドラマ化され、2006年に放映された。個人的にはそちらのほうがまとまりが合って好きなのだが、原石ごろんのこちらも悪くない。ヤクザと高校生達による校舎突撃&大乱闘とか、日本版には無い見所も多い。
しかしなんといっても特筆すべきはドゥシクの同級生ユンジュ(ソン・ソンミ)のやられ具合。これが本当にすごいのだ。涙でメイクが子供の落書きみたいにぐしょぐしょになったり、いじめっ子グループとの乱闘で顔を腫らしたり、暴力教師に髪を掴まれ引きずり回され、挙句は暴行に次ぐ暴行で病院送り。医師に瞳孔をチェックされてるシーンなんかはあまりのむごさにポカーンと口を開けながら見てしまった。良くも悪くもアクの強い映画だけど、ソン・ソンミの役者生命を賭けた(?)汚れっぷりのためだけでも一見の価値はある。

北の零年

2007-01-24 00:58:45 | 映画
「北の零年」監督:行定勲

1870年。庚午事変もしくは稲田騒動と呼ばれる武力襲撃事件により、洲本稲田家は北海道静内及び色丹島の移住開拓を命ぜられた。開拓すれば開拓した分だけ稲田家の領土になるとの約束を信じて何百名もの家臣郎党が海を渡った。未開拓の野生の原野を前にして、誰もが体のよい厄介払いであることを悟ったが、希望という言葉でそれを押し殺した。
船の難破。過酷な自然。多くの同胞を失いながらも小松原(渡辺謙)の指揮下にひとつにまとまりながら、最初の冬を乗り切った一同。春になり、ようやく稲田家の当主が到着するが、持って来たのは良い知らせではなかった。当主は廃藩置県により明治新政府との約束が反故にされたことを淡々と告げると、そそくさと洲本に帰っていった。
二重の裏切りに合い、絶望した一同を救ったのはやはり小松原だった。彼はこの地に自分達の国を作ることを呼びかけると、髻を切った。同胞の血と汗と命が染み込んだ大地に生きることを誓った。
北海道の自然は厳しい。自分達が故郷でやってきたようなやり方では稲が育たないことを知ると、小松原は札幌にあるという農園へと向かった。厳寒の大地でも育つ稲を求めて単身旅立った。
小松原が消息を絶ちしばらくすると、食料危機が訪れた。扶持米を横取りした行商人倉蔵(香川照之)が窮状に付け込み、村の中で勢力を誇った。
小松原の妻志乃(吉永小百合)は、手のひらを返したように冷たく当たってくる村人の仕打ちに耐えながら、娘の多恵(大後寿々花)と共に小松原の帰りを待った。それは長く過酷な日々だった……。

正直いって出来の良い映画ではない。北海道の厳しい寒さや過酷な自然がちいとも伝わってこないし、主役である吉永小百合の出番が少なすぎて、序盤がもたつく。奇妙な演出も目に付く(「ええじゃないか」とか)。
もうちょっと視点を絞ったほうがいいだろうとか。西部開拓じゃなくアメリカ開拓を想定した舞台設定にすればいいだろうとか。色々改善できるポイントはあるのだけど、ひとつだけ変えてはいけないものがある。それはテーマ。
この映画のテーマは裏切りと矜持だ。武を捨て農をとった稲田家の人々が、北海道の自然と維新によって激変した力関係に翻弄される中盤。ひたすらに夫の帰りを信じ待ち続ける志乃のいじましい姿と、その志乃に残酷な現実を見せ付ける後半において、それははっきりと明示される。再三に渡る裏切り。身分の逆転によるプライドの崩壊。人間という浅ましい存在への絶望と諦観。恐ろしいほどの冷徹さで、行定勲はそれを描く。
志乃の戦いはそういう戦いだった。北海道の原野の中で、無力な人間のひとりとして、次々と訪れる現実に打ちのめされながらもなお、雄々しく生き抜くこと。誇りは、それによってのみ保たれる。

バイオハザード

2007-01-01 09:46:21 | 映画
寒い冬のことだった。照明を落とした部屋の中、カーテン越しに冷たい雨の音を聞きながら、3人、発光するブラウン管に向かっていた。一人がコントローラーを握り、二人はにやにやしながらベッドの上からそれを眺めている。うち一人は缶コーヒーを啜っていて……つまりは、それが俺だった。
ゲームはまだ序盤だった。ラクーン市特殊部隊S.T.A.R.Sの一員ジル・バレンタインが古びた洋館を散策している。ベレッタを構えながら、廊下の隅にうずくまる男に歩み寄った。
同時に、窓の外で音がした。じゃりっ、小石を踏む音。現実世界と仮想世界の境界線が踏み破られたような錯覚を覚えて、皆は悲鳴を上げて、俺はコーヒーをこぼした。

「バイオハザード」監督:ポール・W・S・アンダーソン

クリス・レッドフィールドとして、あるいはジル・バレンタインとしてその古びた洋館に突入してから10年が経つ。その間もゲームは続編を重ね、今ではギミックやアクション性の強いものへと移行している。でも、純粋な恐怖感の演出では初代に勝てる作品はないといわれている。今年放映されるという映画3作目に向け、1作目を改めて見直した。
本作は、ラクーン市郊外の洋館から始まる。そこはゾンビを生み出す元となった、アンブレラの地下研究所ハイブへの秘密の入り口だ。洋館の浴槽で、ミラ・ジョヴォヴィッチ扮するアリスは、記憶を無くした状態で目が覚める。そこへアンブレラの特殊部隊や謎の警官が現れ、彼女らは共にハイブへと侵入することになるのだが、ハイブはすでにゾンビと化した研究員の群れに支配されていて……。
こういう作品って、原作のファンが撮ると、やたらと原作とかけ離れた作品になるか、模倣しただけの作品になるのがオチなのだが、ポール・W・S・アンダーソンは違った。原作のイメージを損なわず、かつオリジナリティを成立させるという難しい事をさらりとやってのけた。
多分、この人はゾンビ映画が大好きなのだろう。過去の名作を踏襲したゾンビの登場シーンもそうだが、スプリンクラーの水で一杯になったガラス越しに現れる女性研究員や、内臓むき出しの犬、天井を蠢くリッカーなど。「その他大勢ではない」ゾンビの登場のさせ方が凝っている。ハイブのメインシステムとの機械的対決も、ギミックとしては珍しい部類だろう。
本作の為に空手など格闘技の訓練を積んだミラ・ジョヴォヴィッチの殺陣も見応えあるけど、一番は「愛」。ゾンビフリークのまっすぐな愛情を感じる映画なのだ。

硫黄島からの手紙

2006-12-25 00:51:43 | 映画
極彩色に塗り分けられたイブのF市、寒い中を、Aと二人歩いていた。腕を組んで寄り添うようにしながら耐えていたのは、しかし寒さではなく……。

「硫黄島からの手紙」監督:クリント・イーストウッド

暗い映画だった。重い映画だった。各方面から賛否両論の寄せられた、クリント・イーストウッドの太平洋戦争二部作。その裏面を見てきた。
時は太平洋戦争末期、主力艦隊が破られ、本土決戦も間近に迫った日本の洋上、遥か最果ての島。陸海空の兵力を極限まで削り取られた硫黄島で、塹壕を掘る少年兵西郷(二宮和也)の独白から物語は始まる。
本部から派遣された栗林中将(渡辺謙)の指揮の下、日本軍は迫り来る米国に必死に抵抗する。しかし、戦力の圧倒的な不足、指揮官クラスの小競り合いといった様々な障害が、彼らの戦闘を不利に導く。本土からの援軍が期待できなくなったことで、それはあるひとつの明確な結末を予想させた。
これは、多くの人間の死を描いた物語だ。逆説的にいえば、生を描いた物語だ。硫黄島に死んだ人たちが一体何を思って戦っていたのか、戦わざるを得なかったのか。彼らにとっての希望と絶望は何なのか。それを思う物語だ。過ぎ去った過去に思いを馳せる物語だ。
戦争は怖い。戦争は恐ろしい。スクリーンに釘付けになりながら、ひたすらそれだけが胸に刻まれた。
だって悲惨なのだ。戦う前に赤痢で命を落とす者。爆撃でなすすべなく死ぬ者。トーチカごと火炎放射で焼き殺される者。玉砕する者。自害する者。敵に捕まり嬲り殺される者。命令違反で殺され、投降しても殺され、介錯しようとして殺され、結局、誰も彼もが死んでいく。
意識的に抑制された演出が、時折現れるグロテスクな画像が、淡々と、淡々と、見る者の心を抉る。最後のシーン、完全に征服された硫黄島の夕暮れが、会場に静寂をもたらした。沈黙の意味を、きっと誰もが知っていた。
この映画を、日本人の監督ではなくクリント・イーストウッドが撮ったということに驚いた。アレクサンドル・ソクーロフが「太陽」を撮ったように、あるいは外国人だからこそ見える真実があるのだろうか。渡辺謙の鬼気迫る演技とともに、この映画が世界に打って出ることに、特別の感慨を抱いた。




28days

2006-12-22 21:55:03 | 映画
……気がつくと、自分の部屋の布団にうつぶせになって寝ていた。
時刻は午前5時。
手探りでエアコンのリモコンをつけ、脱ぎ散らかしたジーンズとシャツの山からメガネを取り出した。
舌と手足が軽く痺れている。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲みながら、状況を整理しようと試みた。
忘年会。
人数が多すぎて土鍋でしゃぶしゃぶするというレアな体験をした。
ビールを飲み、日本酒を飲んだ。浴びるほど、という表現が冗談でなくなったのは、手元がおぼつかなくなってコップを倒したからだ。
グループごとに点在するように飲んでいる同僚達の間を泳ぐようにうろつきながら、いつしか気持ちよい酩酊の中にいて……。
楽しく酒を飲んだ。いろんな人に迷惑をかけた。そういう大雑把な印象が残るのみ。
昔はこうではなかった。いくら酒を飲んだって、記憶は完璧に残っていた。加齢によって奪われたものは、体力だけではない。

「28days」ベティ・トーマス

グエンはアルコールと鎮痛剤の中毒患者。姉の結婚式でさんざ暴れ倒し、酔っ払い運転で事故を起こして施設に収容される。施設というのは、アルコール、ドラッグなど中毒や依存症の人間の更生施設だ。一定期間(多分題名どおりの28日間)、患者は下界と隔離され、食事療法、カウンセリング、各種セラピーなど介護プログラムを受ける。
グエンは我侭に好き放題にやってきた人間で、最初は施設が気に食わなくて何かと反抗するものの、刑務所送りをほのめかされたところでようやく目を覚ます。施設の作業にも積極的に参加し、嫌いだったチャントも大きな声で唱え(数人で輪になってスローガンを唱える)、グループの仲間の問題も解決しようと走り回る。
サンドラ・ブロックがアル中女を演じるってのも衝撃だけど、内容の興味深さはその上をいく。中毒患者の更生施設の内側を描いた映画なんて今まで見たことがない。
更生プログラムは、まず患者のプライドを壊すところから始めるのだ。一人の患者に対して他の患者が数人でカウンセリングをするのだが、これが決定的に痛いところをついてくる。個人が大事にしていたものや張っていた片意地、問題点を洗いざらいにし、論理的に責め立てる。
グエンのアキレス腱は、家族のことだった。アダルト・チルドレン(アルコール中毒の親に影響を受けながら育った子供)だったグエンは、酒で死んだ母の存在と優等生の姉にコンプレックスを感じ、結果的に快楽に溺れる自分になってしまったというわけだ。
家族を呼んで行うセラピーでは、当然姉が呼ばれる。今まで自分が感じていた事、姉が感じていた事。いわなかった事。いえなかった事。すべてをぶちまけて、向き合って。そして、グエンは更生するのだが……。
映画の中で、ある患者がいう。自分が真人間になったことをどこで判断すればいいのか。するとある人が答える。1年間植物か動物を育ててみなさい。水をやって、餌をやって、愛して。1年後にそれが生きていたなら、あなたは真人間です。
大変なんだ。更生するのって。一度覚えた快楽の味は、忘れようったって忘れられるものではない。一度堕ちた人間は、どこまでも堕落する。どれほど願っても、努力しても、すべてが報われるわけではない。この世には、自分では変えられないものがある。
ラストに、その怖さを思い起こさせるような事件が起きる。その事件はグエンにも多大な影響を与えるのだが、彼女は決して挫けない。挫けず、新たな人生を切り開いていく。
人間は、強くも弱くもある。希望だけでも、絶望だけでもない。多分、そういうこと。

ALWAYS~三丁目の夕日~

2006-12-12 19:48:59 | 映画
渥美清の寅さんとか、水谷豊の杉下右京とか、藤岡琢也の岡倉大吉とか、ある特定の役柄の印象がついてしまう役者っている。それだけのハマリ役があることは役者として光栄なのかもしれないけど、実際には弊害のほうが多いのではないだろうか。
例えば、何をやってもその役柄のイメージで見られること。
吉岡秀隆という役者がいる。繊細で心優しい青年がよく似合う。最近の若い役者には見られない本格派の演技者だと思うが、いかんせん彼にも強すぎるイメージの問題が付きまとう。山にいる時は「北の国から」の純。海にいる時は「Dr.コトー診療所」のコトー。纏わりつく殻の大きさに、彼はいつも悩まされている。

「ALWAYS~三丁目の夕日~」

昭和33年。まだ日本が猥雑な活気に満ちていたあの時代。建築中の東京タワーの麓の夕日町三丁目には、一癖も二癖もある人たちが住んでいた。
一度切れたら止まらない、鈴木オートの堤真一。
いやがる病人に無理矢理注射、アクマ先生の三浦友和。
そして純文学の大家になる夢を諦めきれぬダメ青年ブンガクを吉岡秀隆が演じる。茶川竜之介、なんてペンネームでわかるように、このブンガクはとてつもないダメ人間だ。東北の良家を勘当され、なんとなく受け継いだ親戚の駄菓子屋も今また潰しかけている。カストリ雑誌のあがりでは生活するのが精一杯。意中の女性へプレゼントする指輪も、金を借りたうえで「箱しか」買えない。正真正銘の甲斐性なし。
最初は違和感が拭えなかった。吉岡秀隆はか弱い青年を演じさせたら右に出るもののいない役者だが、コメディの要素を含んだブンガクとはどこかシンクロしない部分があると思っていた。だが、そんなイメージの刷り込みは、いつのまにか解けていた。吉岡秀隆は、作為性を感じたコメディをあっさり自分のものとして消化し、さらに演技力1本でブンガクという青年を演じきった。
身寄りのない少年淳之介を引き取り、慣れぬ子育てに奮闘し、打ち解け、やがて強固な絆で結ばれていくブンガク。惰弱だけど、臆病だけど、わがままだけど、もたもたしてるけど、ふらふらしてるけど、めそめそしてるけど、ブンガクはブンガクのままに、じっくりと成長していく。今までだったら「いいんだ。しょうがないんだ」と諦めていたことにも、意義を唱えることができるようになって……だけど、手にいれられぬものもある。
最後のシーン。淳之介とともに沈みゆく夕日を見つめながら、ブンガクはある幻想を視聴者に抱かせた。今この瞬間の夕日が綺麗なこと、この先ずっとそれが続いていくかもしれないこと。ブンガクというキャラクターが、上映終了後もスクリーンの中で生き続けていくかもしれないこと。その息吹を与えたのは吉岡秀隆だ。そしてたぶん、それがこの映画の続編を製作させる原動力となったのに違いない。

太陽

2006-11-17 23:50:24 | 映画
「あの録音技師はどうしたかね?私の人間宣言を録音した若者は」
「自決いたしました」
侍従長の言葉に、ヒロヒトは硬直した。
「……だが、止めたのだろうね?」
「いいえ」
1945年。焦土と化した東京には薄い雲がかかっていた。その向こうにぼんやりと見えるものは……。

「太陽」監督:アレクサンドル・ソクーロフ

フォーマルな舞台に登場する天皇の姿を描いた作品は数あれど、これほどまでに卑近な存在として扱った作品は例を見ない。
なぜならかつて、天皇は神の子と呼ばれていたからだ。現人神であり、太陽であり、うがった見方をするなら「人間であってはならない人間」だった。
そういう意味でも、外国人の監督でなければこの題材は扱えまい。
「太陽」のキーはまさにそこ。
焼け残った海洋生物学研究所で細々と生き延びているヒロヒト。人間でありたいと願いながら人間であることのできなかったヒロヒト。占領軍兵士にチャーリー(チャップリン)と呼ばれるシーンなどは、皮肉を通り越して滑稽といえる。もちろん、そういう含みもあっての対比なのだろう。イッセー尾形の起用も偶然とは思えない。

主な舞台は防空壕と海洋生物学研究所。照明も音響も抑え目だから、この映画は見た目がとても地味だ。
だが、テーマの重さが拭いきれぬイメージを見る者の胸に残す。愛国者であってもなくてもそれは同じ。日本という国に住まうすべての者に平等だ。
焦土と化した東京の、雲の向こうに垣間見える未来。そこに俺たちは生きているのだという事実が、この映画から距離を置かせてくれない。アレクサンドル・ソクーロフの積み上げた重厚な雰囲気がのしかかって、最後まで息をつかせてはくれない。