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はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

新香港国際警察

2006-11-03 00:22:34 | 映画
「兄弟、未来には素晴らしいことがまだまだ待ってる。済んだことは忘れて、辛い気持ちを力に変えるんだ。」

映画「新香港国際警察」において、ニコラス・ツェー扮するシウホン巡査が、失意のどん底にいるチャン警部(ジャッキー・チェン)の奮起を促すために用いたセリフ。
未来への憧憬は、過酷な現在と過去を駆逐する。簡単だけど、それだけに的確に、チャン警部の耳に届いた。

岐阜で長崎で福岡で、中学生の男女の自殺が相次いでいる。あまりにも時期が重なるため、何かの社会現象かと思ってしまうくらいに。
動機はそれぞれなんだろうけど、共通して言えるのは、いじめを受けているということ。周囲はそれに気づけずに、あるいは気づいてもどうにもできずに、ただみすみすと死なせてしまった。死んでしまった。
いじめのない明るい学級を作ろう。とか。
事実関係の把握に努める。とか。
色々いうけど、いじめ対策が成功した実例を俺は知らない。教育関係の人たちには、「みんな同じ人間なんだから分かり合えるはず」ってのがお話の中だけのファンタジーなんだってことを、ぜひわかっていただきたい。いじめはなくならない。
だったらどうすればいいかって、やっぱり本人が強くなるしかない。真正面から立ち向かって砕けるのも手だけど、いじめられっ子がそんなに急に強くなれるもんじゃないのは俺自身が一番わかっている。
効果があるのは、逃げること。単純明快。尻をまくって脅威から逃げればいい。物理的にも精神的にも、殻を作ってその中に逃げ込めば、当座は凌げる。
格好悪いかもしれないけど、屈辱かもしれないけど、生きていれば、そのうちきっと報われる。
周囲の人間にできるのは、その逃げ道を作ってあげること。殻の中で、いじめられっ子に夢を見させてあげること。
それは未来の夢。あやふやで不確かな、霧の向こうに仄見える幻影。それを幸せな自分の未来像なのだと信じさせてあげること。
そしていうのだ。柔らかな声音で。

「兄弟ー」

ユナイテッド93

2006-10-10 22:28:20 | 映画
2001年9月11日10:00
乗客が雪崩を切ってコックピットへ侵入した。
彼の我の手を払い、足をどけ、背を踏み越えて先へと進んだ。
己の身体が傷つくことなど怖くなかった。
切り傷も、打撲もどうでもいい。
ただ終わってしまうことが恐ろしかった。
目の前にある希望を掴み損ねるのが嫌だった。
彼らは、また彼女らは国籍も信条も違うけれど、その瞬間だけは心合わせ、ひとつ同じ事を思っていた。
あの人の待つ地上へ帰りたい……

生まれて初めて、映画を見て震えた。
シートの背中に押さえつけられるような圧迫感を感じながら、吐き気をこらえながら、スクリーンを凝視した。
面白いとか面白くないとか。うまいとかうまくないとか。映画の出来に関わるすべての感想などまったく意味をなさないような、あまねく人の魂に訴えかけるような、そんな映画だった。
それが「ユナイテッド93」。
題意は、2001年のアメリカ同時多発テロにおいて、ハイジャックされながらも、重要施設突撃という任務を果たせなかった、たった一機のジャンボジェットの名だ。
あの日あの時間に同機内であった「のではないか」という推測を、無数の事実の積み重ねから構築したものを映画化した。
だから、間違いかもしれないことを念頭に置かなければならない。
だけど、とてもリアルだった。もしくはそう見えた。
ポール・グリーングラス監督は役者にヒロイックな演技を求めなかった。お涙頂戴のシーンなどもっての他。無駄を極限まで排除し、ただ淡々と事実のみを積み重ねた。
だから、観客は一体になった。映画と同化し、生々しい恐怖を我が事のように感じた。ラストの、ユナイテッド93が地上に激突し、画面が真っ暗になった瞬間。会場中が無言になったのがその証左。

映画を見てる最中、ずっと考えていたことがふたつある。

ひとつは、この映画は誰にどういう思惑で見せるために作った映画なのか、ということだ。
遺族が泣くため? 観客が泣くため? どれも正解なようでいて、間違いなようでもある。だがいまいち釈然としない。Aの言葉も考え合わせて、俺はようやく納得することができた。
「亡くなった方々が、遺族の方々に見てもらうためだよ」
彼女は死後の世界を信じている人だから、その答えにまったくよどみがなかった。彼女がいうには、亡くなった方々は、自分達がどのように死んだか知っていてほしいのだそうだ。自分達がどのように感じたか。戦ったか。無念だったか。それを知っていてほしかったというのだ。
俺は死後の世界を信じない。だけど、この世にはそういった世界を信じている人たちがいて……そういう救いもあるのかもしれない。そう思った。これは事実に背を向けぬ人たちのための救いの映画なのだ。

ふたつめに思ったのは、役者のことだ。
生きるためのわずかな希望にすがり、わずかな勇気をかき集めてハイジャック犯に立ち向かい、偽爆弾を奪い、コックピットへ突入し、偶然機内に居合わせたパイロットと管制官に奪還後の機の操縦を任せ……でも生き残れなかった。そういう人たちを演じることにどれほどの勇気がいったか。彼らが、あるいは彼女らが作戦決行前に機内電話から地上の家族へ残したセリフをどんな思いで読んだのか。「愛してるよ」というたった一言の言葉を発するのにどれほどの気力を振り絞らねばならなかったのか。
5年間だ。あれから5年しか経っていない。怒りも、恐怖も、風化するにはまだ早い。悲劇は人々の胸の中に強く残ったまま……。
敬意を覚える。頭が下がる。百万言を費やしてもこの思いは伝えられない。だから、俺はただ泣いた。この事件と、この映画に関わったすべての人たちのために、涙を流した。

「ある日の共通の地。永遠の名誉の地。この場所を訪れた人が乗客と乗務員の勇気と犠牲を思い出し、英雄たちの住み処としてこの神聖な地を崇め、目の前の現実を変えようとした個人の力に思いを馳せることを願う」
-ペンシルベニア州ショーシャンクスヴィルのユナイテッド93墜落現場に建立される予定の記念碑の一文-




サイレントヒル

2006-08-04 23:22:40 | 映画
ローズ・ダ・シルバは娘、シャロンの不安定な言動に悩まされていた。それは夢遊病とも思えるような奇妙なもの。わずか9歳の少女がしきりに「サイレントヒル」という町の名を繰り返し、夜の山道をさ迷うのだ。
見かねたローズは夫クリストファーの制止を振り切りサイレントヒルを目指すのだが、その道中で事故に遭い、意識を失ってしまう。目覚めたときには後部座席に乗っていたはずのシャロンの姿はすでになく、かわりに禍々しい一枚の絵が置かれていた。
あたりは一面の霧。どこまでも続く深い霧……。

「サイレントヒル」は、ゲームを原作としたシチュエーションホラーだ。それだけに導入は凝っている。
娘を失い、たったひとりで霧の中にたたずむローズ。「投げ出された」感は、サイレントヒルシリーズ特有のものだ。これからローズが自力で切り抜けねばならない様々の脅威を思い、自分自身に重ね合わせて想像すると、本当にぞくぞくする。この「やってやるぞ」という思考は、いまだに誰かと共有できたことがない。
映画館にはAと一緒にいった。アンデルセン展のあとに見るホラー映画というのは、普段と違い味わい深いものであった。
Aは、自身初の「映画館で見るホラー映画」というものの、思ったほど怖がってはいないようだった。ぽりぽりとポップコーンを齧る余裕すらある。本人によると、上映前に俺がいった、「全部作り物だから。怖いというよりよくできてるなあくらいに思えばいいんだよ」という言葉が効いたらしい。
まあ実際のところ、それほど怖い映画ではなかった。迫り来る異形のクリーチャーと対比された魔女狩り教団。そして霧の世界と現実の世界の境界線の存在が、怖さを薄れさせた。
ホラー映画のくせに「起こっている事の意味を考えさせる」ほうにベクトルが向いていることも原因のひとつなのかもしれない。
いずれにしろ、始まりから終わりまで、俺はずっと考えていた。そして悲しく思った。霧の世界は、死後の世界なのだ。多くの人間が死ぬ際に感じたストレスが、強い感情の爆発が、この霧の世界を生み出した。「死んでも逃げられない」というキャッチに嘘偽りはなかった。冒頭で、すでにローズは死んでいた。
そう思って見れば、ラストの一連のシーンの乾いたイメージはより一層強くなる。これは、とても無慈悲で、残酷で、切ない擦れ違いの物語なのだ。





SAW2

2006-07-18 00:01:49 | 映画
俺がホラー映画を愛するのには理由がある。
背筋も凍るような恐怖。圧倒的なスリル。絶体絶命の状況。それらを打破することに快感を覚えるからだ。
この辺、「積み重ねれば誰でも勇者になれる」RPGと似ている。最後には自分が勝つことがわかっている勝負ほど、楽しいことはない。ホラー映画にもそういう部分がある。どんな化け物や怪物、呪いに襲われても、主人公はなかなか死なない。ぎりぎりの所をすり抜けて、最後は勝利を掴む。
だけど、中には例外もあって……。

「SAW2」は、題名を見ても分かるとおり、衝撃的なシチュエーションホラーとして大ヒットした「SAW」の続編だ。
もちろん、主人公はむごい最期を迎える。
1でもっとも気に入っているのは絶叫だ。絶対に助けの訪れることのない密室で、主人公が上げた苦しみの声。今まで数多くのホラー映画を見てきたが、あれほど恐ろしい声を聞いたことがない。
報われぬ努力。追いつけぬ犯人。自分の命が助からぬと知った時の、あらがってもどうにもならぬと知った時の、その無力感。
「SAW」は絶望を描いた映画だ。ギミックや謎解きは飾りに過ぎない。
「SAW2」……やってくれた。ギミック、謎解きの精度が上がったのもさることながら、ラストに1作目のあの部屋にいく一連の流れにはぞくぞくとさせられた。
「助からない」ホラー映画の怖さ。
主人公刑事が最後に見た光景が、今も目に焼きついて離れない。

ブレイブストーリー ~その後~

2006-07-14 20:48:26 | 映画
「ブレイブストーリー」を見た。
せいぜい4、50人程度しか入れないような上映室が、観客で一杯になっていた。座席に座れない人はパイプ椅子に座っていて、それもできない人は立ち見をしていた。
客層は親子連れがほとんどで、若干中高生が混じる程度。カップルで来ている人は皆無だった。

深夜に「ブレイブストーリー」の特番をやっていた。ウエンツがリポーターとしてアメリカやフランスや、日本のアニメの製作現場に飛び込んでいた。
世界での評価や製作裏側などはどうでもよかったので、視点についてだけ注視していた。今回フジテレビがアニメを作るにあたって重要視したポイントはどこなのか。どうして「ブレイブストーリー」なのか。べたべたなストーリーの中に感じた違和感はなんなのか。
ディレクターは語る。万人に受け入れられる普遍的に面白いものを探したらこの作品に出会った。この作品は現実逃避と地に足をつけて生きていくことを書いた物語だと。
現実逃避という単語を聞いた瞬間に、すべてが腑に落ちた。
一見幼稚なストーリーは狙いであり、罠だったのだ。感性の素直な子供たちにはシンプルなアニメとして、ひねくれた大人たちには裏を読まなければ楽しめない物語として、絶妙なバランスを保った設定だったのだ。
つまりラストの一連のシーンが物語の主題で、最後のワンカットは救済措置だったというわけで……。
いつの間にか大泉洋がウエンツをくって出ずっぱりだったのも、ひとつの現実には違いない。

ブレイブストーリー

2006-07-12 07:49:58 | 映画
「ブレイブストーリー」を見た。
せいぜい4、50人程度しか入れないような上映室が、観客で一杯になっていた。座席に座れない人はパイプ椅子に座っていて、それもできない人は立ち見をしていた。
客層は親子連れがほとんどで、若干中高生が混じる程度。カップルで来ている人は皆無だった。

宮部みゆきという作家について知っていることは、多くない。「理由」という作品を読んだことがある。発火能力者の女の子が出てくる映画を見たことがある。「模倣犯」は…あれは宮部みゆき作だっただろうか?そのくらい。隣でポップコーンを頬張るAよりはややまし、といった程度。ただ、しっかりしたものを作る人だな、という認識はあった。それは「理由」を読んだ時に受けた感覚で、あながち間違いでもないだろうという自信があった。
だが今回は子供向けの映画ということもあり、また作者自身がゲーマーだということもあり、まるでRPGのムービーを見ているようなストーリーだった。つまり幼稚なということだが、それもあるいは狙いだったのだろうか。意図的な罠なのか。
主人公ワタルは優しい両親にぬくぬくと育てられた小学生で、ほとんど苦労もなく育った。それがある日壊れる。父が他の女と暮らすため家を出、そのショックで母が倒れて病院に運ばれた。そしてワタルは決意するのだ。いつか廃屋で見たビジョンという世界に飛びこみ、崩壊した家庭を修復しようと。
隣のAは、自分で見たいといったくせに舟を漕いでいた。ワタルが母についていてやらずにビジョンなんてあやふやな世界にいってしまったことが気に入らないらしく、上映後もしばらく不満げな表情を浮かべていた。
俺もそこは疑問だった。離婚なんていうやたら現実的な話を持ち出してきておいて、なぜ異世界に賭けようという結論になるのか。現実の戦いと夢の戦いは違うのじゃないか。色んな問題が一気に押し寄せてきてゲシュタルト崩壊を起こしたのだとしても、逃げ出しちゃならない局面っていうのがこの世にはいくつかあって…。
あるいはラストシーンがそれにあたるのだろうか。これはただのハッピーエンドではなく、これから始まる長い戦いのスタートラインだという予告だったのか。原作を読んでいない今、結論は出せない。

明日の記憶 ~その後~

2006-05-25 19:56:10 | 映画
「どうあれ、僕は生きている。様々な恐れや不安と向き合いながらも、生きる希望と勇気を持って今日を生きている。」

下の日記を書いた時点で、その事実は知らなかった。ただ、パンフレットのコメントを見た時に、ずいぶん思い入れのある作品なんだなと感じたことを覚えている。
その事実を知ったのは、会社の同僚が読んでいたスポーツ新聞の記事だった。驚く同僚をよそに、新聞を奪うようにして読んだ。
渡辺謙 C型肝炎を告白。
衝撃的な記事だった。そこには何年もの間人知れずC型肝炎と闘っていた事実を淡々と語る渡辺謙のコメントが乗せられていた。
自分自身が重い病を背負っているために、なるべく病気がらみの作品への出演を避けていた渡辺謙は、明日の記憶を撮ったことによって日々を生きることの大切さを知り、またこれ以上病を隠す必要のないことを悟り、著書「誰?WHO AM I」での告白に踏み切ったという。

「そうなんだ。自分は17年前、2度目の命をもらって今ここにいる。そのことへの感謝と自分の思いを形に出来るとすれば、この作品を撮ることじゃないか」

映画には、人を動かす力がある。時にその人の人生を変えてしまうほどの力を持つ。それは観客だけでなく作り手にとっても同じで……。
つまるところ、明日の記憶という作品には、渡辺謙を変えた何かが宿っている。
生きてきたこと。
生きていること。
生きていくこと。
日々積み重ねていくことの大切さ。
たぶん、そういうものなんじゃないだろうか。それ以上は、俺のような若造が理解するには早すぎる。

明日の記憶

2006-05-23 16:35:08 | 映画
戦わねばならない。
キャンパスのノートに日記を綴りながら、佐伯雅行は決意する。
日記を綴るということは現在の自分を記憶する行為で、同時に現在の自分と向き合う行為でもある。
守らなければならない。
陶芸教室でろくろを回しながら、佐伯雅行は考える。
日々変わっていく自分が身の回りの誰かを傷つけてしまわぬように、自分自身を完成させなければならない。自作の陶器は人間としての器を体現すると、かつて酔っ払いじじいがいったように。
しかし時は流れる。恐ろしいほどの急スピードで。
目に見えて、日記に使用される漢字の量が減っていく。
日々上達する陶芸の腕とは裏腹に、人格は失われ、こぼれゆく。
精神力ではどうにもならない。残るのはただ圧倒的に無力な自分。
だから佐伯雅行は泣く。吠える。もだえ転げ回る。
この戦いに勝ち目はない。同時に逃げることも許されない。

「明日の記憶」は、若年性アルツハイマーを患った男の生き様を描いた映画だ。
一人娘が子供を妊娠し、いずれ結婚。会社では部長として、多忙だけれど充実した日々を送っている。幸せの絶頂にあった佐伯雅行という男が突き落とされ、もがきあえぐ姿を、目をそらすことなく真正面からとらえた映画だ。
主役の佐伯雅行役は渡辺謙。献身的な妻、枝実子役に樋口可南子。監督は堤幸彦。
この布陣でどんな作品が生まれるのか、正直最初はまったく予想がつかなかった。役者陣個々の実力は認めるが、何せテーマが重い。プラスして前衛的な演出が売りの堤幸彦が監督ときている。
最高か最悪か、ふたつにひとつの危険な賭け。結果は前者と出た。堤幸彦の、映画「恋愛写真」やドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」で見せたようなせつなさ、無力感の表現に磨きがかかっていた。特筆すべきはラストシーンで(詳しくは書かないが)、その何秒かで二人の人間の人生をすべて表現しきった。その要望に応えた二人の役者の演技には鳥肌が立った。そのシーンを見るだけでも、映画館に足を運ぶ価値はある。そう思った。