田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

K山氏お亡くなりなった

2015年07月25日 | 仕事
 K山さんは私の人生において、お手本でもあり反面教師でもあった。社会人になった私は、念願の職種につけ、何事におても前向きであった。が、前向きであっても、多分に空回りしていたかもしれない。
 
 上司はT田さん(今でも私の尊敬する師匠)先輩のK山さん、3人でグループを作った。社内ではT田組と呼ばれ、稼ぎ頭であった。K山さんは能力的に優れ、T田さんも大いにその能力を認めていたが、K山さんはT田さんの指導力を認めなかった。私はその隙間を埋める働きをしなければならなかった。結果的にその力が認められ、一人での仕事が許され、多岐に渡る小規模な仕事を単独で行うことが多くなり、恵まれた経験を積むことができた。
 
 社内は独身が多く、女性とのお付き合いに関してはオクテの人達ばかりで、恋愛真っ只中の私は、きっと気の多い若者に見られていただろう。社は女性技術者も多く、私の2歳年上のタムラ女史は、社長令嬢の上司だった。先輩K山さんだが、タムラ女史に恋心を持っていたが叶わず、タムラ女史は社長令嬢を育て、寿退社となった。傷心のK山さんは、恋の痛手が原因なのか、ボランティア活動で海外へ渡った。K山さんが残した仕事の残務を私が引き継ぎ、仕事の巾を広げることができた。
 
 帰国後のK山さんは、同業他社に就職した。その後、T田さんの跡を継ぎ、大学の常勤講師や塾講師に就いた。K山さんでは手が回らぬ繁忙期には、私を大学や塾に紹介してくださったのであった。
 
 当時の私は独立していて、自身の仕事の他、元会社のT田さんの手伝い、他社の法律顧問等々、贅沢を望まねば喰うに困らぬ程度の収入はあった。
 
 大学や塾において、若者の教育に関しては初めてのことであり、手当を度外視して心血を注いだ。大学や塾でのコマ数の増加が、結果的にK山さんと対峙する立場になってしまった。
 
 対峙した主な原因は、教育に関する考え方の相違であった。妥協点を見つけることもなく、いつしか疎遠になった。K山さんはボランティアの実践に、シニアボランティアとして海外へ出向き、病に伏して帰国した。
 
 K山さんが亡くなられたことを風の便りに聞いた。67歳、少しばかり早すぎる。無理がたたったのであろう、合掌。