続・蛙独言

ひとりごと

一から始める蛙の部落解放理論 3

2009-10-28 09:20:54 | 日記
花崎皋平さんの「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)から引用しよう。

差別は被差別者の特性や固有性とほとんど無関係である。つまり、その標識は恣意的にえらばれる。差異をあげてその価値づけを理由にするのは、「差別」の仕組みそのものをみえなくさせるための差別者側のワナである。「差別」の本質は、特定のカテゴリーの人びとの「排除」にあり、「排除」の目的にかなえばその標識はなんでもよいのである。女性が男性から差別されるのは、女性としてのあれこれの特性によるのではなくて、男性でないからである。同一性に対して非同一性のカテゴリーに位置づけるのである。
この場合、重要なのは差別する側がカテゴリーを設け、それに命名する権利を独占しているという非対象の関係である。差別する者と差別される者との関係は、名づける者と名づけられる者、区分する者と区分される者という関係である(p218)

花崎さんはもう78歳になられるから蛙とは一世代以上も違うことになるが、直接的でないけれども「書かれたもの」を通じて40年以上も前からの「お付き合い」になるわけで、似たような発想になるのだろう。
もっとも、蛙の生き方など中途半端そのものだから、その「思想」とその具体的な「日常生活」の徹底的な一致を目指された彼の生き方とは較べるべくもないけれど。
彼の場合、日常的には「アイヌ問題」との直接的な関わりということになる。
引用を続ける。

「差別の論理」を支えるこの関係は完全に一方的であるから、区分の特徴は恣意的であって差しつかえない。また、差別する側は自分については自明であるから名づける必要がない。すなわち、差別者のカテゴリーは無徴性であり、被差別者のそれは有徴性である。そのさい、あたかも被差別者側の「実在的な差異」が有徴性の根拠であるかのように関係を指定するのである。ここからあれこれの差別がなぜ不当なのかを理由づける挙証責任を被差別者側に押しつけるという転倒がおこる。この関係そのものの不当性と非対称性を暴露し、問題はカテゴリー権の奪還にあることをあきらかにすることが「反差別」の論理である。(p219)

この後、「要するに多数者の自己定義は『差異ある者(アイヌ)を除いたあとの、それ以外のわれわれみんな』というかたちをとっているのである。」(p220)といった展開になっている。

蛙は、一般的な「差別の論理」と特殊「差別の論理」とは「集合の全体と一要素」の関係のように捉えていて、その具体的な「在り様」を考えていこうと思うのだ。

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