続・蛙独言

ひとりごと

「違い」について

2009-10-15 19:45:40 | 日記
生まれおちた「人」の原初体である「あかちゃん」は、どのようにして「成人」していくのだろうか。
蛙は、「差別問題」を考える上で「ここが重要」と考えている。

我が子の「育ち」を振り返ってみるのだけど、もう30年以上も前のことになるのだから、それは「遠く、濃い霧の中に包まれているよう」で、よく分からない。
そこいくと、「孫」のことは「よく見える」ように思う。
埼玉に住んでいるので蛙との距離は遠いが、「IT革命」ということか、「スカイプ」という無料の「テレビ電話サービス」があるので、週に一度くらいは2時間ばかり「孫」と遊んだりしている。
この「システム」は実に優れモノだ。
無料ってのがいい。
上の子は4歳になる。
下の子はまだ10カ月ばかり。
上の子とは、もう一人前な「ことば」のやり取りができる。
ハモニカも随分上手に吹けるようになっている。
下の子はまだ「ギャーギャー」喚いているばかりだけれど、一つひとつの「音韻」は「はっきり」しているから、「ことばを獲得していく」過程には何の問題も無いように思われる。
ここではもう「聴覚」に「障害」があったり「脳機能」に「不都合」があったりすれば、明らかに「マイノリティ」の側に立たされることになるが、蛙の「孫」たちにはそういう兆候はないようだ。
おおよそ3歳までに「脳」と「神経系」の「接続」が「完成」されると言われている。
「人」が形成されていく過程は、おおまかなプログラムが遺伝子レベルで用意されているのだけれど、どのタイミングでどんな風にということは、「順次、状況に応じてスイッチが入っていく」ということに係っていて、「同一のもの」ということが一切無い。
「一卵性双生児」でもそうだけれど、極端には「クローン人間」が実現されることがあったとしても、決して「同一」ということが無い。
大木の数多の葉の葉脈にも、人間の「指紋」にも「同じもの」は決して無いのだ。
「皆が皆、違っている」のが当たり前なことなのだけれど、そのようには「人」は「教育」をされない。
最悪なことに、この「人間世界」では「違っている」ことを忌み嫌う「文化」がある。
「ここ」が「差別」の「始まり」なのだと蛙は考えている。

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