「続・蛙独言」2
生まれおちた「人」の原初体である「あかちゃん」は、どのようにして「成人」していくのだろうか。
蛙は、「差別問題」を考える上で「ここが重要」と考えている。
我が子の「育ち」を振り返ってみるのだけど、もう30年以上も前のことになるのだから、それは「遠く、濃い霧の中に包まれているよう」で、よく分からない。
そこいくと、「孫」のことは「よく見える」ように思う。
埼玉に住んでいるので蛙との距離は遠いが、「IT革命」ということか、「スカイプ」という無料の「テレビ電話サービス」があるので、週に一度くらいは2時間ばかり「孫」と遊んだりしている。
この「システム」は実に優れモノだ。
無料ってのがいい。
上の子は4歳になる。
下の子はまだ10カ月ばかり。
上の子とは、もう一人前な「ことば」のやり取りができる。
ハモニカも随分上手に吹けるようになっている。
下の子はまだ「ギャーギャー」喚いているばかりだけれど、一つひとつの「音韻」は「はっきり」しているから、「ことばを獲得していく」過程には何の問題も無いように思われる。
ここではもう「聴覚」に「障害」があったり「脳機能」に「不都合」があったりすれば、明らかに「マイノリティ」の側に立たされることになるが、蛙の「孫」たちにはそういう兆候はないようだ。
おおよそ3歳までに「脳」と「神経系」の「接続」が「完成」されると言われている。
「人」が形成されていく過程は、おおまかなプログラムが遺伝子レベルで用意されているのだけれど、どのタイミングでどんな風にということは、「順次、状況に応じてスイッチが入っていく」ということに係っていて、「同一のもの」ということが一切無い。
「一卵性双生児」でもそうだけれど、極端には「クローン人間」が実現されることがあったとしても、決して「同一」ということが無い。
大木の数多の葉の葉脈にも、人間の「指紋」にも「同じもの」は決して無いのだ。
「皆が皆、違っている」のが当たり前なことなのだけれど、そのようには「人」は「教育」をされない。
最悪なことに、この「人間世界」では「違っている」ことを忌み嫌う「文化」がある。
「ここ」が「差別」の「始まり」なのだと蛙は考えている。
衆議院選挙は民主党の圧勝に終わったのだけれど、蛙は「あまりに永く続いた自民党を主軸にする政権」の「負の遺産」を受け継いでの出発なのであるから、大きな期待を持ってはいないということを言ってきた。
新しい「政権」の「政治哲学」は奈辺にあるのかも分からない段階だから、今の時点で、とやかく論評はできないのだけれど、ここにきて早速の「腰砕け」みたぁな話が出てきているのは悲しい限りではある。
鳩山君は「国民の意思が『赤字国債』は許さないということであれば『マニフェスト』の一部割愛もありうる」などと言っているようだ。
旧政権から引き継いだ「借金地獄」だけれど、そもそもそれはゼネコンを初めとする大企業と「銭ゲバ官僚」の「金儲け」のために結果したことなのであるから、「国民のための政治」に舵を切るならキッパリと「赤字国債も辞さず」というべきだろう。
あまりよくは見えていないが、「東アジア共同体構想」などということも言われている。
それがどのような意味であるかは今のところ不分明だけれど、榊原英輔氏の著作を何冊か読んできて、成程、彼がブレーンだと言われているのはこのことかと蛙は納得している。
反体制・反権力を標榜する蛙とは対極にある榊原氏ではあるが、彼の主張は概ね首肯できるだろう。
圧倒的な「経済力・軍事力」を以って「世界」を牛耳ってきたアメリカに対抗して、ヨーロッパは「EU」という選択肢を選んだのだが、榊原氏の持論は「EU」の「アジア版」の構築ということだった。
アメリカはあからさまな「不快感」を示しているし、当のアジア各国も、それがあの「八紘一宇・大東亜共栄圏」構想とどう違うのか、疑心暗鬼というところだろう。
「資本」に「国境」などというものは無いということは、もともとマルクスが言っていたことだ。
それだから、プロレタリアートの闘いもまた「インターナショナル」が必然なのだということも。
「マルクス以降」の「資本」の側は、マルクスから最もよく学んで、その「危機」を「一国主義的」に回避する道を選んできた。
労働者階級の側は、その「インターナショナリズム」が、「ソ連邦のソ連邦によるソ連邦のためのコミンテルン」に変質をさせられ、徹底的な敗北を喫した。
けれども、時代は進んで、「資本」の側は、「一国主義的対応」で延命を図ることはできない段階に達している。
今、この「国」の労働者は、何年も前から「資本」の側が先行して展開してきた「彼らなりのインタナショナリズム」によって、「賃金切り下げ」攻撃にさらされている。
この「国」の労働者階級が、アジアの民衆との連帯を築こうとしなかった「大いなる罰」なのだ。
榊原氏の構想を逆手にとって、アジアの民衆との恒常的な連帯の闘いを目的意識的に追及する、そういう土壌は既に準備されている。
今のところ、皆目、その兆しは見えないが、必ずそのように事態は展開するだろう。
アメリカに対抗し、内需を中心にこの「国」の経済が活性化されれば、現在の懸案事項も、この10年以内には必ず解決するだろう。
それが、「資本」の側の「思い通り」ということになるのか、労働者の側の「大いなる前進」ということになるのか、気がもめるところではあるが、そのような問題意識が希薄なのであるから、蛙は鬱々として眠れないのだ。
昨日は『在日朝鮮人歴史・人権週間』関西集会というのに出ていて、本日は同盟県連主催の「連続理論学習会」ということで、黒川みどり氏の講演を聞いたり、ちと忙しかったね。
仕事を終えてからの参加だったし、疲れるよ。
前者の集会では、最後の「意見交換」というところで、司会の側から会場にふられたのだけれど、こういう場面で一発目に発言するのは、なかなかたいへんだ。
で、誰も手が上がらないから、蛙が発言をする破目になった。
相当の聴衆の前で発言をするのは緊張もするし、前もっての準備なども無い場合、難しいものだ。
「この日」の蛙の発言について、何人かの人に聞いたんだけれど、「まぁ、まとまってたんじゃない」って評価だった。
ゆうた内容は、「蛙が若かった頃には『在日』の問題は左程『日本人』の間で重要なこととして取り上げられてこなかったように思う。自分自身の経験としても、例えば、会社の慰安旅行のバスの中で『勝新』の『兵隊やくざ』などというバカげたビデオが流されていて、『慰安所』の前に、それも寒さに震えながら兵隊たちが並ぶシーンを見たが、自分はただ単純に「馬鹿な話」くらいに受け止めて流してしまった。
「従軍慰安婦」という「ことば」は蛙は嫌いで、「軍事性奴隷」というべきなのだろうけれど、この『被害』にあった人たちが声をあげて初めて、その「シーン」の意味をやっと理解しえた自分をとても恥ずかしく思う」
と、いったようなことだった。
さて、今日の黒川さんの講演だけれど、蛙には納得のいかない話が多かった。
好意的に評価するとすれば、「差別は、差別する側で、時代の変遷に応じて、都度々々、その『呼称する』『徴し』が『作り変えられてきた』のではないか。そのことにもっと注目すべきではないか」ということなのだろうか。
そういう限定付きであれば、「問題を考える新しい切り口」として評価は出来るかも知れない。
黒川さんの講演から感じた疑問など、この後、何回かにわけてUPしておこうと思う。
前稿で「つづく」ってゆうたけど、「講演」を聞いて、コツコツ、引っ掛かるところもあったし、向学さんの「黒川批判」を読んでいたり、とりわけ、ネット上で閲覧できる「藤田敬一とのやり取り」などには大きな疑問符のつくところであったから、色々、思うことをUPしていこうと考えてたわけだ。
でも、講演という形式では、話者の側でも充分意は尽くされていないということもあるだろうし、聞き手の側でも誤解はよくあることだから、一度、それなりな「著書」を読み終わってからにした方がいいように考えた。
で、ならば、蛙の「考え方」を一から書いていった方が、「黒川氏」との対比ということになるのかも知れないと考えて「方針転換」しようと思った。
まず第一には、「被差別は存在するか」という設問から始めよう。
蛙の答えは「NON」。
ここは難しいところだけれど、勿論、「差別」は存在する。
これを否定しているのは日本共産党だけだろう。
彼等も完全に皆無って言ってるわけではないが、「それは『遅れた考え』を持つ一部の人々の中にあるだけで、民主主義の側に立つ人々の広範な努力で、そのような『考え方』を孤立させ『絶滅』させていくことができる。問題は、既に『解決済み』のことを仰々しく取り上げて『利権あさり』に狂奔する『解同』の存在であり、これを『殲滅』することが最重要な課題である」という主張になる。
それだから、同盟と日共とは「不倶戴天」って関係になる。
誠実な人々からは、「一致するところで共同行動を」などと言われたりするけれど、共産党の側が態度を改めなければ、一歩の前進も望めない。
「差別」は存在するのに、「被差別は存在しない」という蛙の主張は「矛盾」していると思われるだろう。
然り、これは「矛盾」である。
普通、人々は「矛盾はあってはならないもの」と考えているのだけれど、現実には「矛盾」は存在する。
マルクス主義を学んだことがある人なら、このことは常識ということになるし、それを正しく捉えまえる「方法」の内に「解決の鍵」があるということを知っている。
旧ブログでも言ってきたが、蛙は「被差別」は「他称語」であると考えている。
詳しくは、後述することになるが、それはただ「他者」から「そのように呼ばれている」ことによって「あるように見える」存在であるに過ぎない。
そのものの内実に「差別を受けなければならない」根拠は何もないからだ。
例えば、「実態的差別が心理的差別を生む悪循環」などという言い方があるが、これ程、人を馬鹿にした論法は無い。
蛙の親の世代では、勿論、ムラはたいへん貧しかったが、それだからと言って「貧乏人を差別してよい」という法は無かろう。
「差別」は「差別をしたい人」が「作る」だけのことなのだ。
明日から三日間、広島県は福山市で「解放全国研究集会」ってのがあるんで、ブログの方は「お休み」ということになる。
常時使っているのは「ノート」なんだから、持っていってもいいんだけど、1キロを超える荷物はやだからね。
この「集会」、最近、あまり面白くないというか、そんなに「収穫があった」ってこともないんだけど。
さて、「被差別は存在しない」というのであれば、「解放運動」などというものは「意味無いんじゃない」ってことになるかって話をしておこうと思う。
「被差別」と「呼ばれる」地域には、内在的に「差別されて然るべき根拠」は無い。
にも拘らず、この地域に暮らす、或いは、この地域の出身者である人々に対して、「」とか「四つ」などなどという「差別言辞」が投げつけられ、「忌避・排除」ということになる現実はある。
「ならば」その「現実」を「引き受けて行こうではないか」、「そして」そのような「現実」を「白日の下に晒して」、それがどれほどの悪辣な「犯罪的行為」であるかを万人に知らしめていく「徹底糾弾」の闘いを「推し進めていこうではないか」、これが「解放運動」なのだと蛙は考えている。
「」の「意思」も「ここ」にあった筈だ。
「宣言」は、当時、想像を絶する「残虐・冷酷・非道」なものであった「差別」に抗して、「団結して闘おう」という「呼び掛け」であったし、その「現実」を主体的に引き受けて、なお、その先の「吾等は必ずや勝利するに違いない」という「希望」を「指し示した」ものであったのだから、全ての「大衆」を鼓舞し勇気づけたのだ。
それは「言葉にならぬ」程の感動をもって受け止められた。
ただ、と蛙は考える。
「その意気やよし」ということはあるが、「時代」は大きく変わったのであるから、今、必要とされているのは、この「時代」に相応しい新しい「解放宣言」なのではなかろうか。
何事も「歴史的な制約」ということはあるのだ。
「宣言」には「解放の理論」の裏付けは無い。
蛙が一番厭な「台詞」は「であることを誇り得る時がきたのだ」ってところだ。
これは「その時代」には「大衆」を大きく鼓舞し、勇気づける「アジテーション」として多大な有効性を持ったことは間違いないが、この「台詞」のせいで、今でも「民としての誇り」などという発想が通用しているのは「いかがなものか」と思う。
蛙は、差別に抗して生き抜いてきた「我が父・母」を誇りに思っているし、「ここ」まで「闘い」を導いてきてくれた先達を「誇り」に思っているけれど、それは「民の誇り」などではなく、「人間としての誇り」ということなのだ。
ここのところは、友井さんと話していて、「完全に一致する」ところだということも書いておこう。
「福山全研」は、もともと大きな期待を持っていなかったから、「まぁ、こんなものかね」ってことだった。
メインスローガンとして「差別・貧困・格差を打ち破る・・」があげられていたが、その三つの語句が「並列」されること自体に蛙は酷い違和感を覚えるのだが…
それはともかく、始めたシリーズを続けよう。
前稿にジゲ戦記のブーさんからコメントがあって、その「ブログ」を読ませていただいたが、
「差別は何事も根拠のある『ちがい』をめぐる事柄であり・・」
という辺り、蛙の考え方を少しく書いておこうと思う。
「被差別」とそれ以外との間には「何の違いもない」ことは強調されなければならない。
随分以前になるが、全解連の機関紙「解放の道」の記事で、滋賀大の梅田修氏の講演と聴衆の反応を読んだことがある。
氏は「解同の『問題理解』は観念論である」と言い、聴衆からは大きな拍手があったというような記事である。
日本共産党とそれから派生した「共産主義を標榜する」各種「党派」の間では、「観念論である」というレッテルを貼りさえすれば「敵手」を「片づける」ことができ、自らを「科学的党派」=「正義と真実の護り手」と宣言することになるといった馬鹿げた話が通用している。
これをしも「俗流唯物論」という。
これらの人々は、一度もマルクス主義の原典を読んだことがないということを、自身で証明しているようなものだ。
マルクスもエンゲルスも「観念論と唯物論」については、ただ、「物質的存在が第一義」だと言っているだけで、「観念」についても重要な分析・考察を繰り返し論じてきている。
さて蛙が言おうとするところであるが、「差別は、この『国』の人々の『観念世界』の中にしか存在しない」ということだ。
これは、同盟の「考え方」にも背反する。
30年乃至40年前の「被差別」の現実は「万言を以ってしても言い尽せぬ」程の厳しいものであったので、同盟は「差別は、人々の中にある、遅れた『観念』だとすることは間違いである。差別は、現にある『実態』そのものなのであるから」とし、その「改善」、「格差解消」を目指して運動を進めてきた。
その成果は、大きく評価しなければならないが、仮に「格差」が「完全解消」されたとしても、なお、「差別」は無くなりはしない。
蛙は最初に「ボタンの掛け違え」があったと考えている。
最重要な問題は、人々の間に「骨の髄まで沁み込んでいる『天皇制』」だろう。
蛙は、その克服無しには「目的」は達せられないと考えている。
全ての「非合理主義・神秘主義」の淵源はここにある。
蛙がウロウロしている「サン地下」などでも「1街区」から「10街区」まで商店が立ち並ぶが「4街区」と「9街区」は無い。ホテルや病院などでも「4階・9階」が無かったりすることはよくある。「4」が「死」を「9」が「苦」をイメージさせるというのだろうが、「死」や「苦」を「忌み嫌う」文化は馬鹿げていよう。
「ひのえうま」についても以前、言及したことがある。
あれこれ、挙げればきりが無いが、この「国」の文化の総体が「差別」を生み出していく構造を持っているのであるから、目指されるべきは「文化大革命」ということになるだろうと蛙は思う。
「文化」とは民衆の「観念」の総体であり、その徹底的な批判の中からしか、展望は開かれない。
再度言うが、「被差別には『差別されて然るべき根拠』など何もない。」
「被差別」とそれ以外には何の違いも無いのである。