続・蛙独言

ひとりごと

一から始める蛙の部落解放理論 4

2009-10-29 17:21:08 | 日記
話し始めると支離滅裂で、あっちこっちに飛んで行ってしまうのだけれど、商売でやってるんじゃないから、読む人の迷惑を顧みずってことで続けていこう。
ごめんなさいね。

差別―被差別の「非対称性」については「旧ブログ」でも書いていたのだけれど、頭に来ていたのは「両側から超える」という「文言」が「解放運動」の一部でもてはやされていたからなんだ。
藤田敬一氏などは、「は実体概念ではなく関係概念である」などと言いながら、「両側」などということを言っているのは、自身、「自爆している」のに全然気づいていないんだろうと蛙は思う。
「両側」という規定は差別者だけがそのように認識するのだと蛙は考える。
花崎さんからの引用でも、そのようになるだろう。

は「実体」としては「無い」、藤田氏に倣えば「関係性の中にしか無い」、蛙の言では「他称語」でしかない、というのであれば「両側」などという「概念」は成立しない。
「両側から超える」ということを言う人は、多分、差別者も差別はやめなければならないが、被差別者も「誤った考え」や「克服すべき弱点」もあるのだから、双方が「きっちり」しなければってなことなんだろうか。
差別者も被差別者も「正道を歩まなければならぬ」なんて意味なら、当たり前な話なんであって、それを殊更、かっこつけて言うようなことでもなかろうに。
藤田氏はご丁寧に「同盟」の内部の「間違った考え」の事例を数え上げてご教示してくれているが、それは誰よりも「同盟」の内部で誠実に運動を進めようとしている少なからぬ人びとが歯噛みする想いで考えていることなのだ。
例えば奈良などでは、不幸な「運動の分裂」などがあるようだけれど、藤田氏は一方の側に「肩入れ」をしているように蛙には見える。
蛙は「事情を知らない」から、ただただ誠実な努力の積み重ねで「再統一」の一日の早いことをと祈るばかりだが、「分裂」の「裂け目」を更に深くするだけのような行為はやめてもらいたいものだと思う。

ついでに、以前にもゆうたことを再度言っておきたい。
藤田氏は、朝田善之助らとの酒席で杯がまわってくる時、「震えがとまらなかった」と言い、それが「自身の成育歴の中で、ことに家族から受け取った差別意識のせいだった」とし、その後「の人びととの交流を通じて差別意識が氷解した」というようなことを言っている。
蛙には皆目理解できない話だ。
なぜ「震え」なきゃなんないんだ!
「の人間」と仲良しになったら「差別意識」はなくなるんか?
蛙には、藤田氏について「自分自身を問う」深い思索が全く感じられない。
それだから、今でも藤田氏の「ものいい」の態度がいかにも「人を馬鹿にしたような」風になるのだと思うのだ。
蛙は、なによりも「謙虚さ」ということが、誰にとっても大切なことだと思うのだけれど。

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