続・蛙独言

ひとりごと

「同盟」は変われるか 2

2010-04-10 19:17:39 | 日記
「組織」という「ことば」で人は何を思いうかべるのだろうか。
「国家」とか「小中学校」などとかも「組織」と呼べなくはないがそれらへの「参加」では「自身の選択機会は無かった」のであり「そこ」からドロップアウトすることは「可能性」としてはあるけれど、そういうものは今は検討しない
ここでは「成員の自由意思によって構成される集団」と定義しておく。
労働組合の場合、わが国では「ユニオンショップ制」が一般的であり、その企業に雇用された時点で「その企業の労組」に所属することになるから「自由意思集団」という話にならないがこれはこれでまた「別の問題」ということにしておこう。

ひとつの目的を以って集まった「集団」を「組織」というのだとすれば「解放同盟」の目的とは「差別を無くするために」ということであるだろう。
「同盟は大衆団体である」ということがよく言われる。
「政党」や「政治団体」は「ひとつの思想」を共有するが、「大衆団体」では「思想の自由は保障されている」という意味であるらしい。
それだから「同盟」には「自民党」「公明党」などの支持者も多数いるようだ。
国政レベルでも地方自治体レベルでも「政策協定」を結んだ上で「人権派候補者」を推薦している。
「逃げてる」ようだけど、そんな話は蛙は気にいらなくて「どうぞ御勝手に」ってところだ。

もともとが結成される時「全人類の解放」が謳いあげられたのだが、それは「民」が「差別から解放される」のは「単独」に「民だけ」が「解放される」こととしてはあり得ないという予感に基づいたものだったと思われる。
「同盟」もまた「その想い」を継承してきた。
ただ、「同盟」の闘いとって来た成果が「全人類の解放」とどう結びつくのか、それが明らかにされて来なかった。
というよりも、「全人類解放」の「戦略」が検討されることが無かったというべきか。

これまでも言ってきたことだが、蛙は「その戦略を我々は持っていない」ことを率直に認めるところから始めなければならないと考えている。
それで「その旗」を降ろす必要はないが、蛙の考えるところ、「〈民〉一人ひとりが〈差別〉に潰されることがないように支え、主体的な力量を高めていくために」同盟の活動は集中されるべきなのだ。

中央本部の考え方では「これまで〈差別の結果〉に対して闘ってきたがこれからは〈差別の原因〉に迫る闘いにしなければならない」などとして、「差別を生みだすシステム」に向かっていくのだというようなことらしい。

何が言いたいのか、蛙には皆目分からない。

〈差別〉は現実にある。
「システムと対決」と言ってみたところで、〈それ〉が産み出されてくる〈場所〉を特定できないのなら「古い型の闘いを新しい〈ことば〉に言い換えてみた」だけのことではないだろうか。

蛙の考えは、現在のところ明確に提示できないが、「世代を越えて受け渡されていく〈ことば〉が社会的規範や〈常識〉を丸ごと抱え込んでいるのであるから、言ってみれば〈この国の文化の総体〉そのものを解体的に批判していかなければならない」というようなところに力点が置かれている。