続・蛙独言

ひとりごと

「同盟」は変われるか 5

2010-04-18 18:23:20 | 日記
「同盟は大衆団体である」と言われる。
原則、それは正しいだろうが、蛙はちっとも納得がいかない。
同盟の最盛期、およそ30万を組織していたのではないだろうかと思われるが、全く「バブル」だったという外ない。
出発時点ではわずか一握りの人々の「家庭をも顧みず」「どぶ板を踏んで」する犠牲的な「苦闘」から始まったのだと蛙は理解している。
「狭山」でも、その初期は、自分たちで作ったパンフを売りカンパを募って「中央動員」を果たしてきたりしたのだし、「自身のこと」として「身銭切っての闘い」だったはずだ。

「特措法」を勝ち取り「同対事業」が展開される中で、運動の内実に確かにあった「犠牲的精神」など、また、培われてきたはずの「自力自闘」の作風などは「どこにいった」というのだろうか。
治一郎さんも「このままでは運動が腐ってしまわないか」と心配されていたらしい。
全日自労からたたき上げの高知の森田益子さんなどは「一切の補助金・助成金を排して『仕事を取ってくる』といった作戦で」同盟の運動をリードされてきたという風に聞いている。
60年ばかり前の「被差別の現実」を知っている蛙などの世代では「同対事業」の必要性は当然のことだったように思われるのだが、一握りの悪行を為した連中のお陰で、その「成果」も全否定されかねない状況が生まれているのが残念だ。

例えば「最後のセイフティーネット」と言われる「生活保護」制度も僅かな「不正受給者」のお陰で全体が胡乱な眼で見られる構造によく似ているだろう。総務省統計では「生活保護水準以下」の所帯の3割あまりが「申請」していない現実がこの「国」の人々の心の「冷たさ」をよく示しているように蛙には思われる。
圧倒的多数の人々は確かに「まじめに努力しておられる」には違いないのだろうが「努力をしようにもその条件さえ整っていな人々」に対するこのような「冷たさ」はどう言えばよいのだろうか。

「同盟は大衆団体である」というが、参加の基準をずっと厳しいものにすべきだと蛙は考える。
「同対法」以降、蛙は考えたこともなかったが「うまく立ち回れば〈金儲け〉に利用することができる」状況になったというのは事実なのだろう。
それまではムラの「自民党」に与するような連中や公明党なども「解放同盟はアカやッ!」などとゆうて攻撃してきた歴史があるではないか。

ウチの支部のように「相談事業は誰に対しても開かれているが、同盟参加は誠実な人に限る」というような基準が是非、設けられるべきだろうと蛙は思う。
以前にも言ったが「ヤクザ屋さんと金融屋さん、お断り」というのは支部再建の折に決めたことで、彼らにしても「解放同盟」の「看板」は利用価値があるのだろう、何件も「お断り」をしてきている。
「同盟さんは差別反対ゆうてるのにワシラを差別しはるんですかッ!」
そんな風に言われてきたりしている。