続・蛙独言

ひとりごと

「同盟」は変われるか 3

2010-04-11 19:18:12 | 日記
吾等の運動はの時代から基本的には「同情融和」を排しながら「差別には徹底抗戦していく」ということが運動の基底に置かれてきたのであり、そのことに拠って「大衆」と他の「被差別民衆」を鼓舞し続けてきたというところにその眼目があったのだと蛙は考える。
その闘いは、とりわけ「その時代」を考えるならば、どんなに高く評価してもし過ぎるということはないだろう。
木村京太郎の「運動の思い出」という本は優れて感動的な記録であると思う。
ただ、米田富さんも言っていたように記憶するが「差別事件がおこったら皆、頭にきて、ワーッと集まってくるんやが、日常的な結集があったかというとそうでもなかったんやなぁ」ということになる。
「高松結婚差別反対闘争」などはの運動の中では、その「ひろがり」や「粘り強さ」という点で「特別」なものだったと蛙は思う。
の闘いを引き継いだ解放同盟にあっても「差別反対」という一点で組織は動いてきた。
金静美の同盟に対する全般的な批判が的を得ていると思うのは、同盟が「差別反対」というただその一点でしか発想できないという限界があるからだ。
この度の「高校無償化からの朝高除外」など、一応「抗議」の姿勢を明らかにしてはいるが、掲げている旗が「全人類解放」であってみれば、もっと厳しい「戦術」を取ってよかったはずだと蛙は思う。例えば全国全支部の統一した抗議行動を指示するといったような…
で、その「支部」であるが、「提言」でも指摘されているように、その「自由度」は「組織外部」からはとても理解ができるようなものではないのだ。
同盟は「」に組織された「支部」を基本単位として、「府県連」「中央本部」という形になっている。
「中央」は全体的な運動の方向を指し示し「府県連」はその地域の実情を考慮しながら「支部」の共同行動を組織して闘っていくという具合になってはいるが、実際「支部」が「どう動くか」はその「支部任せ」、「同盟」に著しい「損害」を与えるような行動を取らない限りは「指導が入る」ということはない。
今回の「同盟規約改正」の狙いは、もっと日常的に「支部活動」の指導に中央が責任を果たしていかなければならないということなのだろうと思われる。
「不祥事」が起こってからでは遅すぎる、そのようなことが起こらないようにするにはどうすればよいか、そんな風に考えているようだ。

蛙は「それはちと違うだろう」と考えている。