蛙は酷く性格が悪く生まれついているのかも知れない。
どんな場面でも直ぐに「人に噛みつく癖」が強すぎるような気がする。
勉強をしなければなどと思うのはいいのだけれど、それで、大概は「本」を読んでってことになるのだけれど、書店に山積みされている本にちょっとも「いいもの」がないように思うし、読んでみたら、これまた大概、「おみゃぁ、馬ッ鹿じゃねぇかッ!」つうて怒鳴りだすんだね。
まず、「問題」を扱った本で「お薦め」ってのがない。
蛙の関心が「本質に迫り未来を解き明かす」ことにあるのであるから、「状況説明」とか「対症療法」的な「本」が気にいらないのは仕方がない。
「の現実が遍く知られていくこと」は一歩の前進ではあろうと思うから、全くの無意味とまでは言わないが。
とそれを受け継いだ解放同盟が「差別は許さないッ!」、或いは「差別の結果がもたらした悪条件を克服するぞッ!」という風に闘ってきたことは全く正しかったし、「民の団結」を何よりも大切にしながら運動を推し進めてきたことは全く当然のことであったとは思う。
けれども、も解放同盟も「完全解放」の「道筋を明らかに」してきたかといえば、そんなことは一度も無かったのであるし、重要なことは「それを認める」ことであるのだと蛙は思う。
蛙が考えているのは、「問題」を、「学者」も「運動家」も、社会関係の総体から切り離された「差別問題」として取り扱ってきた、その「姿勢」に問題があったのだということだ。
残念ながら、蛙にしても「完全解放の道筋」を明瞭に論述できるのかといえば、「今のところ」できはしない。
ゆっくり時間を取れる日がくれば、そのことに焦点を絞って、ということにしたいが、今言えることは、「問題」は北口君などがいうような「現実のシステム」の問題などではなく、社会関係の総体の中で「差別問題一般」がどのように生起し、その過程で「」がどう位置づけられるか、そういうことを明らかにする作業が大切なのだということだ。
これまで花崎さんの「差別論」を引用してきたが、方向性は、彼によって指し示されていると蛙は考える。
蛙の課題にしているところは「ソシュール言語学」の理解なのだが、ここに問題の解決の鍵があるはずだと思ったりしている。
どんな場面でも直ぐに「人に噛みつく癖」が強すぎるような気がする。
勉強をしなければなどと思うのはいいのだけれど、それで、大概は「本」を読んでってことになるのだけれど、書店に山積みされている本にちょっとも「いいもの」がないように思うし、読んでみたら、これまた大概、「おみゃぁ、馬ッ鹿じゃねぇかッ!」つうて怒鳴りだすんだね。
まず、「問題」を扱った本で「お薦め」ってのがない。
蛙の関心が「本質に迫り未来を解き明かす」ことにあるのであるから、「状況説明」とか「対症療法」的な「本」が気にいらないのは仕方がない。
「の現実が遍く知られていくこと」は一歩の前進ではあろうと思うから、全くの無意味とまでは言わないが。
とそれを受け継いだ解放同盟が「差別は許さないッ!」、或いは「差別の結果がもたらした悪条件を克服するぞッ!」という風に闘ってきたことは全く正しかったし、「民の団結」を何よりも大切にしながら運動を推し進めてきたことは全く当然のことであったとは思う。
けれども、も解放同盟も「完全解放」の「道筋を明らかに」してきたかといえば、そんなことは一度も無かったのであるし、重要なことは「それを認める」ことであるのだと蛙は思う。
蛙が考えているのは、「問題」を、「学者」も「運動家」も、社会関係の総体から切り離された「差別問題」として取り扱ってきた、その「姿勢」に問題があったのだということだ。
残念ながら、蛙にしても「完全解放の道筋」を明瞭に論述できるのかといえば、「今のところ」できはしない。
ゆっくり時間を取れる日がくれば、そのことに焦点を絞って、ということにしたいが、今言えることは、「問題」は北口君などがいうような「現実のシステム」の問題などではなく、社会関係の総体の中で「差別問題一般」がどのように生起し、その過程で「」がどう位置づけられるか、そういうことを明らかにする作業が大切なのだということだ。
これまで花崎さんの「差別論」を引用してきたが、方向性は、彼によって指し示されていると蛙は考える。
蛙の課題にしているところは「ソシュール言語学」の理解なのだが、ここに問題の解決の鍵があるはずだと思ったりしている。