続・蛙独言

ひとりごと

「性格」悪いからね。

2010-02-21 20:13:33 | 日記
蛙は酷く性格が悪く生まれついているのかも知れない。
どんな場面でも直ぐに「人に噛みつく癖」が強すぎるような気がする。
勉強をしなければなどと思うのはいいのだけれど、それで、大概は「本」を読んでってことになるのだけれど、書店に山積みされている本にちょっとも「いいもの」がないように思うし、読んでみたら、これまた大概、「おみゃぁ、馬ッ鹿じゃねぇかッ!」つうて怒鳴りだすんだね。
まず、「問題」を扱った本で「お薦め」ってのがない。
蛙の関心が「本質に迫り未来を解き明かす」ことにあるのであるから、「状況説明」とか「対症療法」的な「本」が気にいらないのは仕方がない。
「の現実が遍く知られていくこと」は一歩の前進ではあろうと思うから、全くの無意味とまでは言わないが。

とそれを受け継いだ解放同盟が「差別は許さないッ!」、或いは「差別の結果がもたらした悪条件を克服するぞッ!」という風に闘ってきたことは全く正しかったし、「民の団結」を何よりも大切にしながら運動を推し進めてきたことは全く当然のことであったとは思う。
けれども、も解放同盟も「完全解放」の「道筋を明らかに」してきたかといえば、そんなことは一度も無かったのであるし、重要なことは「それを認める」ことであるのだと蛙は思う。
蛙が考えているのは、「問題」を、「学者」も「運動家」も、社会関係の総体から切り離された「差別問題」として取り扱ってきた、その「姿勢」に問題があったのだということだ。
残念ながら、蛙にしても「完全解放の道筋」を明瞭に論述できるのかといえば、「今のところ」できはしない。
ゆっくり時間を取れる日がくれば、そのことに焦点を絞って、ということにしたいが、今言えることは、「問題」は北口君などがいうような「現実のシステム」の問題などではなく、社会関係の総体の中で「差別問題一般」がどのように生起し、その過程で「」がどう位置づけられるか、そういうことを明らかにする作業が大切なのだということだ。
これまで花崎さんの「差別論」を引用してきたが、方向性は、彼によって指し示されていると蛙は考える。
蛙の課題にしているところは「ソシュール言語学」の理解なのだが、ここに問題の解決の鍵があるはずだと思ったりしている。

「経済」

2010-02-19 21:49:56 | 日記
蛙は経済学者でもなければ専門的な経済アナリストでもないから細かなことは分からないけれど、「時代を読む」ということで言えば「世界」とこの「国」の「経済動向」はやっぱり注目はしていかなければならないと思う。
ビジネスの世界で仕事をしている人はそれだから「日経」を読んでいるようだ。
この「新聞」の購読は蛙の守備範囲を超えているような気がしてそこまで手を出してはいないけれど。
ただ、この間のアメリカ発の「経済危機」も「最悪の状況」からは脱して「膠着」というところまで来たようだ。
蛙の旧ブログでは「資本主義とは、好不況の波を繰り返すことによって存立をしているものであり、それが資本主義の『本質』でもあり『発展』でもあるということであり、それは、『富』の再集中と『貧困』の拡大として結果する外ないものである」ということを何度も言ってきた。今回の「危機」は「恐慌」とまでは言えないということも含めて。

現況をどう考えたらいいのだろうか。
学者やアナリストたちの意見も様々なようだが、蛙の考えはこれまた「誰とも違っている」ように思う。
「経済」を考えるに注目をされるのはGDPということになるだろうが、最々近の指標では、中国とアジアへの輸出の回復基調、エコカー減税・エコポイント等の効果などの「個人消費」の伸長で一定の改善は見られるが、商品生産の「本体」たる企業の「設備投資」などでは今一つ、といった評価のようだ。
この評価もどうかと思う。
蛙に言わせれば、現況、「設備投資」は「過剰」だったのであるからこの不況を招いた筈で、それは適正な規模に再設計がされなければならないと思う。現に「石油精製部門」などでの生産調整が図られているようだ。

問題は実はそこにはないのではなかろうか。
GDPに占める「個人消費」の割合は6割を越えているのだから、「鳩山政権」が「コンクリートから人へ」というスローガンをあげたことに「倫理的」な価値を見ようとする向きもあるが、それはかいかぶりに過ぎるというもので、「いかに個人消費の伸びを導くか」ということがテーマだったのに過ぎないと思う。
ポピュリスト小泉と竹中平蔵の「新自由主義」戦略攻撃が何をもたらしたかといえば、圧倒的な一方への富の集中と「年収200万以下」の「労働者群」の信じられないほどの増大、それに加えて過大な「セーフティネットから落ちこぼれる人々」であったのだから、ここはひとつ「資本主義万々歳ッ!」の歓声が「あちら側」に溢れかえっているということを忘れてはならないと言っておかなければなるまい。

翻って考えても見よう。
この「国」のGDPは1955年比で、現在は、100倍、1970年比でも名目で10倍、実質でも5倍になっているのだから、「順調に発展してきている」筈なのだ。
この「国」は途方もない「金満国」になったのだ。
にも拘らず、人々の情感のところでは、とてもそのような実感には程遠い。
それは何故か。
どんな馬鹿な人間にでも分かる筈だろう。
「富の配分の不公平性」の一語に尽きる。
これが「資本主義の本質」なのだ。

これらのことは「資本の側」に与する学者、アナリスト、政治家、マスコミ関係者等々によって「注意深く」隠蔽されているのだ。

オリンピックは嫌い

2010-02-16 18:37:55 | 日記
蛙は自身が運動能力に縁が無いということもあって、「なんとかワールドカップ」とか「オリンピック」とかが大嫌いなんだ。
で、それらが実際のところ最近とみに「政治的利用」てなことになってきているようで、胸糞悪い気分だね。
勿論、プレイヤーの「最高を極めたい」という「意気」や「努力」には敬意を払うけれど、それって凄く個人的なことだと思うし、「やりたい人」が頑張り、「見たい人」が応援すればいいだけのことじゃないかと思う。
今は「バンクーバー五輪」で新聞もテレビも一色。
政治も経済も「大事な話」があるだろうに、そんなものは後景に押しやられてしまっている。
いつも見てるページ、北川君のだけど
http://blog.livedoor.jp/tsokta/
民主党・小沢幹事長問題での彼の主張も面白いと思うので、コピペして読んでみてね。
それと、同じく毎日チェックしてる「ストーンリバー」さんのページ
http://burakusabe.exblog.jp/
だけど、やっぱり小沢問題にも触れているし、映画「INVICTUS」の紹介記事も面白いので、これも読んでおいてください。

蛙の考えるところ、今回の「政権交代」は、早い話「自民党がぶっ壊れた」、この流れでは「もう持たない」ということの結果だけだったんだね。
民衆の側でも我慢の限界は超えていたし、「支配の側」でも「別な選択肢はあるのではないか」って試行錯誤の選択だったろう。
民主党に「この国が進むべきグランドデザイン」は描けてなどいなかった。ただ、「権力掌握」の千載一遇のチャンスだったわけだ。
鳩山君も菅君も岡田ちゃんも前原も小沢も、それぞれ「向いてる方向」なんてばらばらで、こういうのを「同床異夢」って話の典型なんだね。
蛙はよく「支配の側」なんていうけど、これは具体的な「人格」ということではなく、それこそ、蛙を含めて、全ての人が「この『日本国』の秩序通りに生きていること」で形成される「世界」のことであり、その中でも思惑を以って状況に「操作的」に関わることができる「勢力」によって左右されながら、それも一枚岩的なものではないところの「抽象的な存在」のことだ。

今は、支配の側にとっても民衆にとっても「混沌の時代」というところだろう。
若い時に読んだ、レーニンの「なにをなすべきか」なんて本、今ほど「読まれるべきときは無い」ような気がするけど。
内容は古すぎて、現在の読者の理解は得られないかも知れないが、論理として、或いは「組織論」として、必要なことが書いてあったと思うのだけど。

(暫定)「神戸の事情」 9

2010-02-15 09:14:16 | 日記
「金の切れ目は縁の切れ目」っていうでしょ。
どんな活動でも「情熱」だけで「銭」が続かなければ長くはもたない。
市民運動なんかでも「活動資金」をどうやって集めるか、皆、頭を悩ませるところだからね。
解放同盟の場合、神戸以外では、直接「行政」からの「補助金」が出ていたり、各種行事に対して「実費補助」があったり、「行政機関」に「担当」の「嘱託職員」を置いていたり、「事務所」が提供され「委託費」名目で活動費が出ていたり、したのだと思う。
神戸市行政も勿論そのような「出費」はしていたのだけれど、神戸の同盟が後発だったからということもあって、大方が「同促」と「全解連」に「占有」されてたりしたんだ。
蛙が一番口惜しかったのは、職業安定所に「担当」ということで「嘱託・職業指導員」みたぁな名目で配置されてたのが「全解連」のメンバーだったことだ。
これが「給与泥棒」のようなもので、皆目、仕事をしない。
こっちは「荒れてるこどもらを何とか仕事につけていく」作業に関わって苦労していたから、はらわたが煮えくりかえる想いだった。
ま、なにせ、「神戸の仲間は運動は身銭切ってやるものと考えていた」などと「えぇカッコ」を書いたけど、実は「そうせざるを得なかった」というだけのことかも知れないね。
いづれにしろ、それらのことは皆、「過去の話」になってしまった。
行政の「同和問題」の取り組みの逆流の中で、それぞれのところで苦しい状況があるようだが、神戸の場合、もともとの状況がそうだったから、仲間は落ち着いたものだ。

他府県連の同盟の仲良しなんかと話していて、理解してもらえないのは「神戸の同盟の組織率の低さ」だ。ウチでも同盟員として組織されてるのは全所帯の5%くらいだし、長田や垂水でも10%くらいではなかろうか。
その上、28地区ある「地区」の内、支部が組織されているのは僅かに8地区に過ぎない。
けれども、神戸市の「同和行政」の方向性を規定してきたのは、「神戸市連協」だったということは間違いのない事実だ。
よそでは、例えば30乃至40代の同盟員の場合、既に「ある」支部活動に参加するという形だったろう。
「解放子ども会」や「解放文化祭」などの取り組みの中で成長してきたのだろう。
神戸の場合、全く「何もない」ところで、「解放の目的意識」だけで持ち堪えてきたのだし、それは当分の間、変わることはないように思われる。
それでも、神戸の仲間には「自分たちが闘ってきた歴史に対する誇り」と「必ず前進していけるのだという自負」はあるのだね。

まだ、言い足りないことや「書くべきことがら」はあるのだけれど、このシリーズは一旦の終了にしたいと思う。
改めて、ちょっと先になるだろうけれど、(暫定)でない「われらの闘いの記録」が書けるようにしたい。

(暫定)「神戸の事情」 8

2010-02-14 06:49:33 | 日記
「人間として」という点ではそれなりな努力はしていたと思うが神戸の仲間とは切れてしまっていたのだから、「充電期間」なんてゆうて自分を誤魔化していたりするけれど、「そっちの方には足向けて寝られないなぁ」というところだね。
仲間は「神戸市職員」が中心だった。
それで「信用組合」から20人ほどで百万づつ借金をして「自前の事務所」を作っている。
2階建てで、30人はちょっと苦しいかも知れないが「立派な」会議室だってある。
今でも「同盟・神戸市連協」事務所として機能している。
この時期、大抵、よその同盟は隣保館とか「公的な施設内」に支部事務所などを置いていたと思う。
「同和問題の解決は行政責任」というのが「それ」を支えた理屈だから「間違っている」とまでは言えないが、行政の「同和問題」の取り組みが逆流し始めた今日、あちこちで「追い立て」を喰らったりしていることを思えば、全く正しい選択だっただろう。
もともと、神戸の仲間は「運動は身銭切ってするもの」という考え方を初めからずっと持っていた。
神戸では「同促」「全解連」それに後発の「同盟・神戸市連協」の三つの流れの「せめぎあい」が暫く続くのだけれど、決定的にその「力関係」で「同盟」がリードしていくことになったのは「第一次家賃値上げ反対闘争」だった。
地区内の市営住宅は「政策家賃」ということで、この時だと、「一般市営住宅家賃」の三分の一程度だったろう。
これは少し説明がいるかも知れない。
ウチのムラでもそうだが、神戸、或いは全国的にも、地区内は「住環境」は劣悪なものだったから、一般法である「改良住宅法」に「特措法」をからめて、「三分の二国費、三分の一市費(但し『市債』を認める)」という方法で、詰まりは市に一銭の負担もなく「住宅建設」などという大きな費用のかかる事業が進められた。
これは最初「10年の時限立法」だったから、市側にもそれを受け入れる地域の役員の側でも「早くしなければ」という「焦り」があったはずだ。
「不良住宅地域」の土地を買収し、そこに「市営住宅」を建てていこうというのだから、まず最初の困難は「地権者」が買収に応じるかどうかということになる。
誰だって「自分の土地」を売るならできるだけ「高い値段」をと思うだろう。
そこにもってきて市側は、「差別の故に」、実売価格は相当低いことに目を付けて「買いたたこう」とする。
「10年」以内に決着しなければという「強迫観念」もあったから、地区役員は「地権者」の説得に大きな苦労をすることになる。
結局、「地権者」は「新たに建設される住宅への入居権」や「戸建住宅の代替地保障」等々を条件に相当低い価格での買収に応じていく。
そういう事情があったのだから、おいそれとは「家賃値上げ」に応じるわけにはいかない。
神戸市連協の仲間たちは各地区へ徹底して入り、「大衆集会」を組織し、「反対運動」を展開していく。
神戸市行政との「団交」の席上で、同盟の側は「市営住宅建設の経緯」を盾に断固反対を主張する。
この時、「全解連」は「家賃がこんなに安いから、何時まで経っても『差別』は無くならへんのや。一般住宅と同等の家賃にするべきや」などと主張して、皆から「失笑」を買い、孤立してしまう。
この時点で「同盟・神戸市連協」の大衆的な信頼は強固なものになったろう。
「安けりゃいい」という大衆の安直な「要求」にのっかってというだけの話だと思われるかも知れない。
それは、「同対事業」に協力するに「地域」の側がどれだけの犠牲を払ったか、分からないからだと思う。
また、「家賃を一般並みにすれば『差別』解消に役立つ」などという全解連の主張がどれ程馬鹿げたものであるか、よく考えてみてほしいとも思う。
取り敢えず、この「闘い」は「10年かけて一般家賃の半額程度まで引き上げること。10年後に再度協議すること。生活困窮者対策として『家賃減免制度』を設けること。『減免制度』を市の責任において徹底して宣伝すること」という約束を勝ち取って収束をする。
蛙は知らなかったが、「公営住宅家賃減免制度」はこの「闘い」を通じて、その後「全国展開」することになる。
そしてこの決着の翌年、神戸市住宅局は「減免申請」の人々で溢れかえることになる。
この「減免制度」は「地区限定」として勝ち取られたのではなく、全市の「市営住宅入居者」が対象になっていたのだから、神戸市内の市営住宅入居者への徹底宣伝を約束させたことが、多くの人々の役にたつことになったのだ。

この「闘い」に、蛙は不在だった。