蛙は経済学者でもなければ専門的な経済アナリストでもないから細かなことは分からないけれど、「時代を読む」ということで言えば「世界」とこの「国」の「経済動向」はやっぱり注目はしていかなければならないと思う。
ビジネスの世界で仕事をしている人はそれだから「日経」を読んでいるようだ。
この「新聞」の購読は蛙の守備範囲を超えているような気がしてそこまで手を出してはいないけれど。
ただ、この間のアメリカ発の「経済危機」も「最悪の状況」からは脱して「膠着」というところまで来たようだ。
蛙の旧ブログでは「資本主義とは、好不況の波を繰り返すことによって存立をしているものであり、それが資本主義の『本質』でもあり『発展』でもあるということであり、それは、『富』の再集中と『貧困』の拡大として結果する外ないものである」ということを何度も言ってきた。今回の「危機」は「恐慌」とまでは言えないということも含めて。
現況をどう考えたらいいのだろうか。
学者やアナリストたちの意見も様々なようだが、蛙の考えはこれまた「誰とも違っている」ように思う。
「経済」を考えるに注目をされるのはGDPということになるだろうが、最々近の指標では、中国とアジアへの輸出の回復基調、エコカー減税・エコポイント等の効果などの「個人消費」の伸長で一定の改善は見られるが、商品生産の「本体」たる企業の「設備投資」などでは今一つ、といった評価のようだ。
この評価もどうかと思う。
蛙に言わせれば、現況、「設備投資」は「過剰」だったのであるからこの不況を招いた筈で、それは適正な規模に再設計がされなければならないと思う。現に「石油精製部門」などでの生産調整が図られているようだ。
問題は実はそこにはないのではなかろうか。
GDPに占める「個人消費」の割合は6割を越えているのだから、「鳩山政権」が「コンクリートから人へ」というスローガンをあげたことに「倫理的」な価値を見ようとする向きもあるが、それはかいかぶりに過ぎるというもので、「いかに個人消費の伸びを導くか」ということがテーマだったのに過ぎないと思う。
ポピュリスト小泉と竹中平蔵の「新自由主義」戦略攻撃が何をもたらしたかといえば、圧倒的な一方への富の集中と「年収200万以下」の「労働者群」の信じられないほどの増大、それに加えて過大な「セーフティネットから落ちこぼれる人々」であったのだから、ここはひとつ「資本主義万々歳ッ!」の歓声が「あちら側」に溢れかえっているということを忘れてはならないと言っておかなければなるまい。
翻って考えても見よう。
この「国」のGDPは1955年比で、現在は、100倍、1970年比でも名目で10倍、実質でも5倍になっているのだから、「順調に発展してきている」筈なのだ。
この「国」は途方もない「金満国」になったのだ。
にも拘らず、人々の情感のところでは、とてもそのような実感には程遠い。
それは何故か。
どんな馬鹿な人間にでも分かる筈だろう。
「富の配分の不公平性」の一語に尽きる。
これが「資本主義の本質」なのだ。
これらのことは「資本の側」に与する学者、アナリスト、政治家、マスコミ関係者等々によって「注意深く」隠蔽されているのだ。
ビジネスの世界で仕事をしている人はそれだから「日経」を読んでいるようだ。
この「新聞」の購読は蛙の守備範囲を超えているような気がしてそこまで手を出してはいないけれど。
ただ、この間のアメリカ発の「経済危機」も「最悪の状況」からは脱して「膠着」というところまで来たようだ。
蛙の旧ブログでは「資本主義とは、好不況の波を繰り返すことによって存立をしているものであり、それが資本主義の『本質』でもあり『発展』でもあるということであり、それは、『富』の再集中と『貧困』の拡大として結果する外ないものである」ということを何度も言ってきた。今回の「危機」は「恐慌」とまでは言えないということも含めて。
現況をどう考えたらいいのだろうか。
学者やアナリストたちの意見も様々なようだが、蛙の考えはこれまた「誰とも違っている」ように思う。
「経済」を考えるに注目をされるのはGDPということになるだろうが、最々近の指標では、中国とアジアへの輸出の回復基調、エコカー減税・エコポイント等の効果などの「個人消費」の伸長で一定の改善は見られるが、商品生産の「本体」たる企業の「設備投資」などでは今一つ、といった評価のようだ。
この評価もどうかと思う。
蛙に言わせれば、現況、「設備投資」は「過剰」だったのであるからこの不況を招いた筈で、それは適正な規模に再設計がされなければならないと思う。現に「石油精製部門」などでの生産調整が図られているようだ。
問題は実はそこにはないのではなかろうか。
GDPに占める「個人消費」の割合は6割を越えているのだから、「鳩山政権」が「コンクリートから人へ」というスローガンをあげたことに「倫理的」な価値を見ようとする向きもあるが、それはかいかぶりに過ぎるというもので、「いかに個人消費の伸びを導くか」ということがテーマだったのに過ぎないと思う。
ポピュリスト小泉と竹中平蔵の「新自由主義」戦略攻撃が何をもたらしたかといえば、圧倒的な一方への富の集中と「年収200万以下」の「労働者群」の信じられないほどの増大、それに加えて過大な「セーフティネットから落ちこぼれる人々」であったのだから、ここはひとつ「資本主義万々歳ッ!」の歓声が「あちら側」に溢れかえっているということを忘れてはならないと言っておかなければなるまい。
翻って考えても見よう。
この「国」のGDPは1955年比で、現在は、100倍、1970年比でも名目で10倍、実質でも5倍になっているのだから、「順調に発展してきている」筈なのだ。
この「国」は途方もない「金満国」になったのだ。
にも拘らず、人々の情感のところでは、とてもそのような実感には程遠い。
それは何故か。
どんな馬鹿な人間にでも分かる筈だろう。
「富の配分の不公平性」の一語に尽きる。
これが「資本主義の本質」なのだ。
これらのことは「資本の側」に与する学者、アナリスト、政治家、マスコミ関係者等々によって「注意深く」隠蔽されているのだ。