ミシェル・フーコーについては「入門書」程度の知識しか無いのだけれど、「監獄の誕生」という著作があって、「この著作ではイギリスの思想家ジェレミー・ベンサムのパノプティコンという監獄の構想が紹介されている。この建築物は円形になっており、中心部に監視塔が配置され、そこを中心に円状に独房が配置されているが、監獄に対して光が入るために囚人からは監視員が見えない一方で監視員は囚人を観察できる仕組みになっている。このような構造物において監視員は囚人に対して一方的な権力作用を効率的に働きかけることが可能である。囚人は常に監視されていることを強く意識することで規律化され、従順な身体を形成していくのである。」(wiki記事引用)
現代哲学では「身体」について大きな力点がおかれているように思う。
蛙はこの話で、「パノプティコン」の思想構造に強い印象を持ったのだけれど、それは「看守は見えないが『常に見られている』という意識」によって「囚人」の「身体が形成される」という「くだり」で、「被差別」の場合も「差別者」の具体的な姿が見えなくとも、「被差別」という「意識」が強く「民」の「身体」を拘束的に構成していくという風に考えたからだ。
蛙がずっと主張してきた「―民とは『他称語』に過ぎない」という話の「言い換え」でもある。
世に「とは何か。民とは誰か。」などという設問がなされ、明解な解答が見出されてはいないと思われるが、蛙は「そのように問うこと自体が間違っている」と考えている。
成程、その「起源」を問えば、封建制の身分制につながるところはあるのだが、それは一旦「明治」時期に解体をされ「再構成」がなされたのだ。
神戸の場合、ウチのムラだと「明治」初年では20戸程度だったし、長田の「被差別地域」でも50戸程度だった。
この「国」の人口は当時3000万くらいだったろうから現在「4倍」くらいになっているわけで、ウチのムラが100戸とか200戸、長田の「地区」で500戸くらいというなら「無い話」ではなかろうが、事実はウチで1500戸、長田で3000戸という数字になっているのだから、これはもう「封建制身分」とは縁も所縁も無い「資本主義の発展と人口の都市集中」という話なのだ。
学者の中には「どうしても血筋にこだわりたい」馬鹿がいるらしく、この人口増加が「中国・四国地方の被差別民の流入」という「ひと言」で片づける者もいないわけではない。それならば「中国・四国」辺りでの「被差別民」の顕著な減少が観測されていなければなるまいが、そのような実証的な作業はなされず、「言明」されるばかりなのだ。
どこかで読んだ話だが、京都のある「」の場合、100%、「地区構成員」が入れ替わってしまっているということもあるようだ。
かくのごとく、「とは何か。民とは誰か。」を「それ自身」社会の総体から単独に切り離して「問う」ことには何の意味も無い。
「差別されて然るべき内在的根拠は無い」ということだ。
それは「差別者」の側から「そのようなもの」としてカテゴライズされているに過ぎない。
「解放運動」は、愚かにもそのような「構造」を理解しない「多くの差別者」が現実に存在をしているのであるから、その「構造」を解体することを目標に置き、「被差別」の側を支え、勇気づけ、「差別」に抗する力強い「身体」を鍛え抜く、そのようなものとしてあるべきだと蛙は考えているのだ。
現代哲学では「身体」について大きな力点がおかれているように思う。
蛙はこの話で、「パノプティコン」の思想構造に強い印象を持ったのだけれど、それは「看守は見えないが『常に見られている』という意識」によって「囚人」の「身体が形成される」という「くだり」で、「被差別」の場合も「差別者」の具体的な姿が見えなくとも、「被差別」という「意識」が強く「民」の「身体」を拘束的に構成していくという風に考えたからだ。
蛙がずっと主張してきた「―民とは『他称語』に過ぎない」という話の「言い換え」でもある。
世に「とは何か。民とは誰か。」などという設問がなされ、明解な解答が見出されてはいないと思われるが、蛙は「そのように問うこと自体が間違っている」と考えている。
成程、その「起源」を問えば、封建制の身分制につながるところはあるのだが、それは一旦「明治」時期に解体をされ「再構成」がなされたのだ。
神戸の場合、ウチのムラだと「明治」初年では20戸程度だったし、長田の「被差別地域」でも50戸程度だった。
この「国」の人口は当時3000万くらいだったろうから現在「4倍」くらいになっているわけで、ウチのムラが100戸とか200戸、長田の「地区」で500戸くらいというなら「無い話」ではなかろうが、事実はウチで1500戸、長田で3000戸という数字になっているのだから、これはもう「封建制身分」とは縁も所縁も無い「資本主義の発展と人口の都市集中」という話なのだ。
学者の中には「どうしても血筋にこだわりたい」馬鹿がいるらしく、この人口増加が「中国・四国地方の被差別民の流入」という「ひと言」で片づける者もいないわけではない。それならば「中国・四国」辺りでの「被差別民」の顕著な減少が観測されていなければなるまいが、そのような実証的な作業はなされず、「言明」されるばかりなのだ。
どこかで読んだ話だが、京都のある「」の場合、100%、「地区構成員」が入れ替わってしまっているということもあるようだ。
かくのごとく、「とは何か。民とは誰か。」を「それ自身」社会の総体から単独に切り離して「問う」ことには何の意味も無い。
「差別されて然るべき内在的根拠は無い」ということだ。
それは「差別者」の側から「そのようなもの」としてカテゴライズされているに過ぎない。
「解放運動」は、愚かにもそのような「構造」を理解しない「多くの差別者」が現実に存在をしているのであるから、その「構造」を解体することを目標に置き、「被差別」の側を支え、勇気づけ、「差別」に抗する力強い「身体」を鍛え抜く、そのようなものとしてあるべきだと蛙は考えているのだ。