hasyan の 旅の散歩道

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今に伝える若桜宿  2013.09.11

2013年09月12日 20時46分58秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   若桜宿    鳥取県八頭郡若桜町

 若桜駅の前にある「観光案内所」で資料を頂き、「蔵通り」「寺通り」へ

 広い通りから入っていくと雰囲気がちょっと変わり昔の趣が、

 通りを歩いていると、「蓮教寺」が、ここは、文明9年(1477)日蓮宗総本山久遠寺の僧「円教院日意」が、西国巡礼の途中に当地に立ち寄り、鬼ヶ城主矢部氏の帰依によって、溝見村に大伽藍を建立したのが始まりと伝えられています。かってこの寺の井戸は、名水として珍重されていました。

 側には、休憩交流処「かりや」があります。町を歩き足を休めるため立ち寄るのも良いでしょう。

 ここ「正栄寺」は、寺伝によると、開基は浄良法師と言われ、元播州佐用郡高野須城主赤松越中守正直の弟、赤松源次郎友純といい、大阪石山本願寺の顕如上人の直弟となって本願寺を守護して後、この地に来たりて赤松村千石岩下にあったと伝えられる毫照寺に移住し、真宗を広めたと言われます。慶長8年(1603)に「仏光山正栄寺」と改称しました。

 明治18年若桜宿に大火が発生し、寺を火災から守るため蔵以外を建てることを禁止されたことで蔵がまとまって建てられました。

 現在20の蔵があり、商家の土蔵・白壁・赤瓦・板張りどれも妻側通りに向けています。

 不遠山西方寺、かついは寿命院二尊寺と称していたようで、釈迦、阿弥陀の二尊を安置し、矢部山城守の祈念所となったとあります。一度は廃れたものの木下重堅の帰依により祈念所として寺領を寄進、現名称に改称したとあります。若桜鬼ヶ城の城主であった木下重堅の五輪塔についてですが、重堅は1600年関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗走に従い大阪で自刃し、遺品・遺髪がこの西方寺に届けられ葬られた旨書かれています

 寺は、隣通しがつながり、寺の本堂や庫裏も道路から16間離れたところに建てられこの通りが形成されているようです。

 ここは、若桜宿の土蔵、水路及び仮屋等古い町並みが見られます。

 ここ仮屋通りは、若桜宿の町は明治時代の大火で大半が焼失した。その後の復興建築は、家屋を道路より約3m後退させて道路沿いに小川を引き、民家と小川の間に連続する幅1.2メ-トルの庇が設けられた。小川は用水と雪流しと鯉の飼育に使われた。この小川と民家の間の庇の下の私道を仮屋(カリヤ)という。これは豪雪地帯の若桜宿独特の建造物で、昭和前期まで多く現存していたが、現在はカリヤ通りだけに見ることができる。

 仮屋通りの一画の旧家を改装して平成24年3月にオープンした、昔懐かしい「昭和おもちゃ館」です。 店先には駄菓子やおもちゃが買える売店があり、奥には有料の展示ゾーンがあります。あの日の記憶が鮮やかによみがえる昭和時代を彩ったおもちゃの数々が見学できます。売店では見かけることも少なくなった駄菓子やおもちゃを販売しており、タイムスリップした気分を味わってみてはいかがでしょう。

 少し離れたところに、「若桜橋」が、山紫水明の小都に美観を添える若桜橋は延長82m、有効幅員5.5m。昭和9年に地方では初めてのコンクリート橋として完成しました。若桜橋は、国道29号線沿いの八東川に架かる橋梁として、昭和8年10月に着工され昭和9年7月に完成しました。鉄筋コンクリートアーチ橋であり、3連の美しいヴォールトアーチを成しているのが特徴です。戦前の橋で3連規模のものは県内では例がなく、大変貴重なものです。ここを見て次のところへ
 次回をお楽しみに  では またね

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