所在地 関宿 三重県亀山市関町木崎
関西本線の関駅に降り立ちました。東海道五十三次の47番目の宿場町として栄えた。ここには江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町屋が200棟以上も現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年選定)や日本の道百選(昭和61年選定)に選定されています。ここから「東追分」に向かいます
東追分は関宿の東の入口にあたり、東海道と伊勢別 街道が分岐していました。今も残る大鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、20年に一度の神宮式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。
ここは「浅原家」です。同家は屋号を江戸屋と称し、米屋材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり、江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。商事の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられます。
街並みは「馬籠」のようににぎにぎしい土産物屋や宿が軒を並べることもなく、静かな建て住まいが並んでいます。
左側にあるのが、「百五銀行」ですが、関宿にマッチしら建物で違和感がありまっせん。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には屋敷632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
この奥には、関宿内において、唯一の「神社」の「関神社」があります。
『日本三関』の一つ。関宿は鈴鹿峠をひかえ、東西の交通の要所として伝戸時代には参勤交代やお伊勢参りの拠点だった。旧東海道は、関宿の真ん中を東西約1.8kmにわたって続いています。同宿の保存運動は、昭和59年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのがきっかけ。格子戸や白壁の民家、町家を解体復元した「まちなみ資料館」、江戸時代の商家風郵便局などこれまでに150件におよび修理、修景がなされました。旧東海道を歩いてみます。
「百六里庭」 関宿が江戸から百六里余りにあるところから名付けられました。「眺関亭」から関宿の家並みを望むことが出来ます。
関宿の高札場は中町北側にあった「御茶屋御殿」に設けられていました。御茶屋御殿は亀山藩の番所などが置かれた施設で高札場はその中央付近に設置され周囲は土塀で囲われていました。高札場では8枚の高札が掲げる事が出来、各法令や禁令、駄賃の規定などが書かれていました。現在は郵便局になっています。
ここは「松葉屋 田中家]で 松葉屋は昔火縄屋で播州林田御用火縄所という看板が残っている。関宿は火縄(火奴ともいう)が特産物で業者も数十軒あり松葉屋はその主な一軒であった。火縄は主に鉄砲に用いられたために大名の御用があり、又道中の旅人が煙草などに使うために購入するため大いに繁盛していました。
左の、町屋の2階の正面にあるのが漆喰で塗り固めた虫籠窓があり、左右には漆食彫刻の鶴亀が刻まれています。
関宿を歩いていると、所々に三重県では正月だけではなく、年間を通してしめ縄をつけている家をよく見かけます。ここの民家の玄関先には、「笑門」の「しめ縄」が飾ってありました。「笑門」というお札の意味は、「笑う門には福来たる」ということなのかな?
「西の追分」の休憩所がここらでちょっと一休みです。
中に入ると部屋が2つあり無料で使用しても良いようです。
西の追分の休憩所を左に行くと大和に向かう大和街道になる。なお、ここの掲示板には関宿を描いた広重の絵を「伊藤本陣を出立する大名行列」と解説しています。ここから折り返して、小腹もすいたので食事でも
途中の地蔵院の前に、「会津屋」というここの店を入ると多くの芸能人や有名人の色紙が張られていました。女将自らが少女のころ、祖母から教わったご飯の炊き方「山菜おこわ」は、まさに唯一、無二の味なのです。あだ討ちのヒロインとして有名な「関の小萬」の生家でもあると言われる大旅籠「会津屋」で、この歴史に刻まれた建物を、いつもお客様の笑顔で一杯にしたいと思い商いをしているのでしょうね。ここで頂いたのは「街道そば」を出汁は、関東風かな~ JR関に戻り帰路に着きました。静かな昔の雰囲気が残る関宿でした。
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