所在地 熊川宿 福井県三方上中郡若狭町熊川
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「若狭街道」は、大陸文化の玄関としての小浜から若狭町(旧上中町)の日笠を通り、
熊川を経て、滋賀県高島市朽木(旧朽木村)を越え、大原八瀬より京都への道を言います。
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若狭と近江の国境に位置する熊川宿は、江戸時代、物資の出入り統制や庶民の通行手形を
発行する番所が置かれていたといいます。
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熊川宿は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。 江戸時代初期から
中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。
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18世紀後半より大量の鯖が若狭から京へと運ばれた事から、鯖街道と呼ばれるようになった鯖街道。
この街道にある熊川宿は、天正17年(1589年)、熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、
秀吉に重用され、若狭の領主となった浅野長政により作られた宿場町です。
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現在は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、古い建物を生かした資料館や
喫茶店を散策することができます。
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「長屋道」この路地の奥に、町奉行手配下の足軽長屋があったことから この名の由来があります。
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熊川宿の歴史的景観に欠かせないのが、豊富で流れの速い水路として前川があります。
街道に沿って流れながら、中条橋のたもとで河内川に落ちます。中ノ町の前川は、河内川の水を取り入れて、
下ノ町へと流れていきます。家ごとに、「かわと」と呼ばれる水利施設が設けられています。
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この「前川」には、小さな水車が、この中に「お芋」などを入れ水の力で皮などが剥けて
綺麗に洗えます。
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北川の船運の米が、この路地を通り、蔵屋敷に至ったことに、この名の由来があります。
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「松木神社」は、若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社です。境内には昭和10年に
庄左衛門の遺徳を顕彰するために建てられた義民館があります。熊川宿の中では桜と紅葉の名所です。
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元亀元年(1570)に、織田信長は秀吉と家康をも従え、越前朝倉義景を攻めるため、
京都から熊川を通り敦賀へ向かいました。このとき徳川家康は得法寺に泊まったといわれ、
このとき境内の松に腰をかけたのが、東の隅にあった松の木でした。「家康腰かけの松」と呼ばれています。
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「熊川宿」か、古い港町小浜と琵琶湖畔の近江今津をつなぐこの地は,京と若狭・北陸の文化交流の
接点としても重要な役割を果たしてきたのでしょうね。
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次回をお楽しみに では またね
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