hasyan の 旅の散歩道

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大津皇子の墓と葛木坐二上神社  2012.05.16

2012年05月18日 08時44分31秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  奈良県葛城市加守 二上山雄岳山頂付近

 天武天皇の子で謀反の疑いをかけられ自害させられた大津皇子の墓があります。大津皇子の墓は宮内庁が管理していて、ひっそりと静まり返った雄岳山頂付近にあります。

 大津皇子は天武天皇の第3皇子で,母は天智天皇の長女の大田皇女(おおたのひめみこ)。大田皇女は持統天皇の姉にあたり、大津宮では天智天皇に愛されて育った。風格もよく,言語明朗,漢詩文を好むなど学問好きであった。成長するに従い,才能が開花していく。特に文筆に秀でたものがあったといわれ、683年2月1日,大津皇子が21歳になった時,初めて「朝政(ちょうせい:みかどのまつりごと)を聴こしめす」と日本書紀にあることから,天武天皇政権の中心的な立場で政治の指示を出す役割を持っていました。

 天武天皇の第3皇子であった大津皇子は、人物的にも優れた人物でした。しかし、天武天皇が崩御して間もなく、謀反を企てたとして処刑されてしまいます。もはや真実は不明ですが、皇位を争う形となったライバル・草壁皇子の母は鵜野讃良皇后(後の持統天皇)であり、我が子を皇位につけたいがための策略だったという説もあります。この事件の後、処刑された大津皇子は別の土地に葬られましたが、そのたたりを恐れ、二上山へと埋葬し直されたのだそうです。大津皇子が育った大津宮近く近江神宮には天智天皇が祀られています。

 少し離れたところに二上神社が、創建の年代等は不詳ですが二上山には石器の素材となる讃岐岩(サヌカイト)の層があり、古くから周辺に人が住んでいたものとみられます。文献の初出は、『日本三代実録』の貞観元年(859年)正月27日条、当社に従五位上の神階を授けるという記述であり延喜式神名帳では「大和国葛下郡 葛木二上神社二座」と記載され、大社に列しています。

 現在の社殿は、1974年(昭和49年)の二上山大火で焼失し、翌1975年に再建されたもので、ちょっと覗いてみると内部には小さな榊の御神体があります。元々は二上山の雄山と雌山にそれぞれ男神・女神が祀られていたようで、干ばつの時は、岳郷の人々によって雨乞いが行われました。

 ちょっと近寄りがたいですが、何でしょう? これは経塚かな?経塚は末法思想の流行に伴って経典を後の世に残す理由などから、書写した経典を地中に埋めたものだそうです。足を延ばして次へ
 次回をお楽しみに  では またね 

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