「いじめる子は悪くない。いじめられる方が悪い。その常識に苦しめられた」
これは、「変光星」を花風社で出したときに私が考えた帯のコピーです。
著者の森口奈緒美さんにも一発で気に入っていただけました。
私が学校という場所、教師という人種に基本的に信用を置いていない理由が、ここに凝縮されています。
つまりね
「正義」より「身内のノリ」を重んじて
そこに沿った振舞いを「よし」とする場ですよね、学校。
そしてその倫理観を社会性と称して子どもたちに教える場。
だからこそ、いじめられる方にも問題があるのだとか真顔で言う。
森口さんの場合だと、性格変えろとか言われたらしい。
でもね、たとえきもくてもとろくても、いじめることは絶対に悪ですよ。
この絶対に正義とか悪とかを、学校は教えない。
周りの顔色伺って行動することが社会性だと思っている。
そこで行われるSSTっていうのは私も何度か立ち会ったことありますが
これが社会だと思ってしまったら、人にへりくだることばかり覚えて
かえって世の中が怖くなったり、自分にこれほどのガマンを強いる社会を恨むようになったりするのでは? と思った。
実はね、私は数日引きこもろうと思っていました。
いや、家事はしますよ(笑)。ていうか仕事もしてるけど、ブログ的に。
取り掛かってることがあるから。
でも昨日画伯ブログでこの話題が取り上げられたのをみて
そろそろ書くときかな、と思ったんです。
画伯は刑事事件化を勧めているし
私も基本的にはそれに賛成。学校にはもっと司法と資本の論理が入ってほしいと思いますね。
でも落合弁護士のブログには
この事件を立件することの難しさも書かれていて、なるほどなあと思いました。
刑事事件化するっていうことはどういうことかというと
身内のノリに、メタな裁きを持ち込むっていうことでしょ。
これを日ごろから倫理的に行わない。
それがいじめの温床だと私は思っています。
でもね
ギョーカイがそれを責められるかなあ?
「自分たちの」都合が悪いから自閉症者の犯罪を報道するなとか
「自分たちが」世間からうるさく言われるから自閉症の研究途上をマスメディアで取り上げるなとか
四歳女児に大の大人が股間を触らせようと、成人の障害者が子どもを放り投げて内臓破裂に至らせようと
障害者だから法的措置を採るな、報道するな、偏見につながる、という一般人の知る権利を無視した主張を真顔でする人々が
大津の事件の加害者をしたり顔で非難できるもんでしょうかね?
八歳の子が本を書き、心ない人に傷ついたとき
「本を書いた以上は当たり前」「周囲が言って聞かせるべき」と真顔で語り
司法の介入を不当だと集団で騒いだ人たちが
大津の事件に関しては、完全に被害者に肩入れできるんですかね?
ていうか「性格変えろ」って私もさんざん言われたような気がするな~。
変わんないって、性格は。
ただ社会的に使える方向に磨くだけ。
ケンカ上等な性格なら、それを社会正義実現のほうに使いましょ。
私だから神田橋先生の発達障害の本を出せたんでしょうよ。
性格変えろって言われてびびるような人なら、怖くて出せなかったよん。
そうしたら引きこもり→就労への豪華オプションライフを歩み始めた方からの
こういううれしい話も聞けなかったでしょうよ。
自分たちの都合では身内のノリを社会正義に優先させている人が、この問題をしたり顔で語るのは片腹痛いですわ。
そういえば札幌行ったとき、栗林先生とお酒を飲んで
栗林先生のいじめ対策を聞きました。
特別支援教育において死んだふりしない人はね
いじめにも死んだふりしませんわ。
こういう教師が増えれば、私も教師を見直すよ。
逆にどっちも死んだふりの人は死んだふりなんだろうな。
私はね、守るべきものを持たない都会人なので
今後も利権を考えて投票行動に出ることはしません。
よく、自閉症の人の生涯を消化試合みたいに見なす福祉関係者のことを
「食い扶持を失いたくないんだ」と評する人がいますが
私はそれが信じられないんですよ。その小ささがね。
その人が今目の前にある問題を真摯に解決していく態度を身につけている限り
それは一生の財産となり
たとえ障害者がこの世に一人もいなくなっても、次の役目が用意されていますよ。
そういうもんです。
私は私の作った本を読んで、苦しむ自閉っ子が一人もいなくなっても構わない。
そのときには、きっとまた別の課題が出てくるでしょうから
それに一生懸命取り組んでいるうちに、時期がきてお迎えが来るでしょう。
私は死んだふり祭りに行って、はっきりとわかりました。
なぜギョーカイは、真顔でこういう声明を出すか。
死んだふりは死んでも治りません。
崩していける人がいるとするなら、ローカルギョーカイでしょう。
今度の全国大会だって、ローカルな人が金太郎飴化を避けたのだし。
だから長沼先生をゲストに呼ぶことになったのだろうし。
ただ長沼先生の発表に対して飛んだ卑屈頭質問と、それを幼稚園児のようにあやすギョーカイメジャーを見て
ああ、だめだなあと思ったけど。
卑屈頭もスペクトラムです。
そしてもっとも卑屈度が高い人が傷つかないように、ギョーカイは事を進めるし
それは社会正義と両立しない。
だけじゃないです。
もっとも卑屈度が高い人に合わせることによって
同じ障害児の保護者・支援者も
大事な情報から遠ざけられています。
それがわかった。
そのこと今、自閉っ子通信に書こうと思っています。
とりあえず構想は練った。
あとは一気に書くと思います。
自閉っ子通信は、一般に流通するものではないから
かなり思い切ったこと書くと思います。
日曜日、名古屋に行くまでに書き上げるつもりです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
これは、「変光星」を花風社で出したときに私が考えた帯のコピーです。
著者の森口奈緒美さんにも一発で気に入っていただけました。
私が学校という場所、教師という人種に基本的に信用を置いていない理由が、ここに凝縮されています。
つまりね
「正義」より「身内のノリ」を重んじて
そこに沿った振舞いを「よし」とする場ですよね、学校。
そしてその倫理観を社会性と称して子どもたちに教える場。
だからこそ、いじめられる方にも問題があるのだとか真顔で言う。
森口さんの場合だと、性格変えろとか言われたらしい。
でもね、たとえきもくてもとろくても、いじめることは絶対に悪ですよ。
この絶対に正義とか悪とかを、学校は教えない。
周りの顔色伺って行動することが社会性だと思っている。
そこで行われるSSTっていうのは私も何度か立ち会ったことありますが
これが社会だと思ってしまったら、人にへりくだることばかり覚えて
かえって世の中が怖くなったり、自分にこれほどのガマンを強いる社会を恨むようになったりするのでは? と思った。
実はね、私は数日引きこもろうと思っていました。
いや、家事はしますよ(笑)。ていうか仕事もしてるけど、ブログ的に。
取り掛かってることがあるから。
でも昨日画伯ブログでこの話題が取り上げられたのをみて
そろそろ書くときかな、と思ったんです。
画伯は刑事事件化を勧めているし
私も基本的にはそれに賛成。学校にはもっと司法と資本の論理が入ってほしいと思いますね。
でも落合弁護士のブログには
この事件を立件することの難しさも書かれていて、なるほどなあと思いました。
刑事事件化するっていうことはどういうことかというと
身内のノリに、メタな裁きを持ち込むっていうことでしょ。
これを日ごろから倫理的に行わない。
それがいじめの温床だと私は思っています。
でもね
ギョーカイがそれを責められるかなあ?
「自分たちの」都合が悪いから自閉症者の犯罪を報道するなとか
「自分たちが」世間からうるさく言われるから自閉症の研究途上をマスメディアで取り上げるなとか
四歳女児に大の大人が股間を触らせようと、成人の障害者が子どもを放り投げて内臓破裂に至らせようと
障害者だから法的措置を採るな、報道するな、偏見につながる、という一般人の知る権利を無視した主張を真顔でする人々が
大津の事件の加害者をしたり顔で非難できるもんでしょうかね?
八歳の子が本を書き、心ない人に傷ついたとき
「本を書いた以上は当たり前」「周囲が言って聞かせるべき」と真顔で語り
司法の介入を不当だと集団で騒いだ人たちが
大津の事件に関しては、完全に被害者に肩入れできるんですかね?
ていうか「性格変えろ」って私もさんざん言われたような気がするな~。
変わんないって、性格は。
ただ社会的に使える方向に磨くだけ。
ケンカ上等な性格なら、それを社会正義実現のほうに使いましょ。
私だから神田橋先生の発達障害の本を出せたんでしょうよ。
性格変えろって言われてびびるような人なら、怖くて出せなかったよん。
そうしたら引きこもり→就労への豪華オプションライフを歩み始めた方からの
こういううれしい話も聞けなかったでしょうよ。
自分たちの都合では身内のノリを社会正義に優先させている人が、この問題をしたり顔で語るのは片腹痛いですわ。
そういえば札幌行ったとき、栗林先生とお酒を飲んで
栗林先生のいじめ対策を聞きました。
特別支援教育において死んだふりしない人はね
いじめにも死んだふりしませんわ。
こういう教師が増えれば、私も教師を見直すよ。
逆にどっちも死んだふりの人は死んだふりなんだろうな。
私はね、守るべきものを持たない都会人なので
今後も利権を考えて投票行動に出ることはしません。
よく、自閉症の人の生涯を消化試合みたいに見なす福祉関係者のことを
「食い扶持を失いたくないんだ」と評する人がいますが
私はそれが信じられないんですよ。その小ささがね。
その人が今目の前にある問題を真摯に解決していく態度を身につけている限り
それは一生の財産となり
たとえ障害者がこの世に一人もいなくなっても、次の役目が用意されていますよ。
そういうもんです。
私は私の作った本を読んで、苦しむ自閉っ子が一人もいなくなっても構わない。
そのときには、きっとまた別の課題が出てくるでしょうから
それに一生懸命取り組んでいるうちに、時期がきてお迎えが来るでしょう。
私は死んだふり祭りに行って、はっきりとわかりました。
なぜギョーカイは、真顔でこういう声明を出すか。
死んだふりは死んでも治りません。
崩していける人がいるとするなら、ローカルギョーカイでしょう。
今度の全国大会だって、ローカルな人が金太郎飴化を避けたのだし。
だから長沼先生をゲストに呼ぶことになったのだろうし。
ただ長沼先生の発表に対して飛んだ卑屈頭質問と、それを幼稚園児のようにあやすギョーカイメジャーを見て
ああ、だめだなあと思ったけど。
卑屈頭もスペクトラムです。
そしてもっとも卑屈度が高い人が傷つかないように、ギョーカイは事を進めるし
それは社会正義と両立しない。
だけじゃないです。
もっとも卑屈度が高い人に合わせることによって
同じ障害児の保護者・支援者も
大事な情報から遠ざけられています。
それがわかった。
そのこと今、自閉っ子通信に書こうと思っています。
とりあえず構想は練った。
あとは一気に書くと思います。
自閉っ子通信は、一般に流通するものではないから
かなり思い切ったこと書くと思います。
日曜日、名古屋に行くまでに書き上げるつもりです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆