さて本日も通常運転のABAdisなのでABA擁護派の人は帰った帰った。
==キ===リ===ト===リ===線=====
さて、ではABAdisに耐えられる人だけ残りましたね?
じゃあ展開します。
昨日ツイッターのお友だちがスクショで有害な方の大久保さんのツイートをリツしてくれました。私は先日言ったとおりこの有害な方の大久保さんにはブロックされているのですが、スクショだから読めたというわけです。それによると大久保さん(有害)は「人間を動物扱いするのがいかがなものか」というABAへの反論に対し「なんで動物扱いしたらあかんの?」と言っているんです。そして私のお友だちはそれに怒っていたわけですね。大事な我が子を動物扱いする支援者なんて! と。当たり前の親心です。
そして私は「なぜ人間を動物扱いしてはいけないのか?」という疑問にマジレスしたいと思います。
動物、の範囲をもう少し狭めてみましょう。
犬の調教の人たちがたとえば海老に曲芸を教えられるエビデンスを出しているかどうかわかりませんが、海老や二枚貝まで動物に含めると広すぎますので、とりあえず人間と他の脊椎動物を比べてみるとします。
そうすると人間という動物の特徴としては
・二足歩行する
・言葉がある
・股関節の可動域が大きい
・首の関節の可動域も大きい
という特徴が挙げられます。もちろん他にもいっぱいあるんでしょうけど(たとえば猿と違って鼻が突き出ていますね)純粋に動物として見ても他の動物とは機能が違うわけです。
股関節が球関節だからあぐらをかけます。
首の関節の可動域が大きいから横に座っている人に話しかけられたらそっちに向いて目を見つめられます。
人間はこの身体を授かったために、他の動物とはコミュニケーションのやり方が違うのです。
イルカは巨大な脳を持ち、知能が高いそうですね。
でもイルカには私たちのような首はありません。
だから彼らは違うコミュニケーションのやり方をしていますね。
それでもABAの人たちは、水族館で輪っかをくぐり抜けて鰯をもらうイルカのように子どもを調教しようとします。
考えてみてください。
水族館のイルカは、とらわれ、閉じ込められたイルカたちです。
芸をして餌をもらうことでしか生き延びられないのです。
だから誰かを「障害があるから」という理由で閉じ込め、思うように振る舞わせたい人たちにはABAがしっくりくるのでしょう。
本当は強度行動障害を治すつもりなどなく、実のところ講習を受けたくらいで治るとも期待しておらず、ただ「これ受けとくと加算があるから」ということが目当てで出かけてくる人々が学ぶ手法としては、ぴったりかもしれませんね(褒めてません)。
私がイルカだったら、水族館なんかで一生を終えたくはありません。
毎日毎日わけのわからない輪っかをくぐりぬけて死んだ魚をもらうような生活はまっぴらです。
広い大海原を自由に動き、自分で魚を捕まえたいです。
ときには小魚しかなくて、おなかがすくかもしれません。
ときには相手が大物過ぎて、失敗するかもしれません。
それでも試行錯誤を繰り返し、首はなくても超音波かなんかで仲間と話し合い協力し合いながら広い大海原で生きていきたいです。狭い水槽で一挙手一投足(もイルカにはありませんが)を見張られるのではなく、自由に行きたいところに行きたいです。
そして子どもを社会で生きられる人にしたい、と願う人たちも私と同じ気持ちではないですか?
水槽の中で飼育員を困らせない子に育てたい人には調教がぴったりくるのかもしれません。
でもそうじゃないお母さんは「動物と同じで何があかんの?」という支援者に腹が立って当然なのです。
子どもには飼育員の指示に従えば魚がもらえるという奴隷道徳を覚えるのではなく広い大海原をときにはひとりで、ときには仲間と協力し合いながら渡っていく人生を送ってもらいたい、そう考えて日々を送っているからです。
犬もイルカもこの方法で調教できる。そういうエビデンスがある、と有害な方の大久保さん一派は強調するでしょう。
けれども調教できるのはあくまでも「飼われている」犬とイルカであり、自由を奪うかわりに餌を与えて去勢してしまう「ペット化」の原罪についてはペットを飼っている人も飼っていない人も忘れない方がよさそうです。
飼われる人生ではなく、大海原を泳ぎたいと願う時、その力はABAでは培われない。いやむしろ逆効果。
だから我が子を誰かのペットにしたいとは夢にも思っていない親御さんが、子どもを動物扱いしている支援者に腹を立てるのはまっとうなことなのです。
==キ===リ===ト===リ===線=====
さて、ではABAdisに耐えられる人だけ残りましたね?
じゃあ展開します。
昨日ツイッターのお友だちがスクショで有害な方の大久保さんのツイートをリツしてくれました。私は先日言ったとおりこの有害な方の大久保さんにはブロックされているのですが、スクショだから読めたというわけです。それによると大久保さん(有害)は「人間を動物扱いするのがいかがなものか」というABAへの反論に対し「なんで動物扱いしたらあかんの?」と言っているんです。そして私のお友だちはそれに怒っていたわけですね。大事な我が子を動物扱いする支援者なんて! と。当たり前の親心です。
そして私は「なぜ人間を動物扱いしてはいけないのか?」という疑問にマジレスしたいと思います。
動物、の範囲をもう少し狭めてみましょう。
犬の調教の人たちがたとえば海老に曲芸を教えられるエビデンスを出しているかどうかわかりませんが、海老や二枚貝まで動物に含めると広すぎますので、とりあえず人間と他の脊椎動物を比べてみるとします。
そうすると人間という動物の特徴としては
・二足歩行する
・言葉がある
・股関節の可動域が大きい
・首の関節の可動域も大きい
という特徴が挙げられます。もちろん他にもいっぱいあるんでしょうけど(たとえば猿と違って鼻が突き出ていますね)純粋に動物として見ても他の動物とは機能が違うわけです。
股関節が球関節だからあぐらをかけます。
首の関節の可動域が大きいから横に座っている人に話しかけられたらそっちに向いて目を見つめられます。
人間はこの身体を授かったために、他の動物とはコミュニケーションのやり方が違うのです。
イルカは巨大な脳を持ち、知能が高いそうですね。
でもイルカには私たちのような首はありません。
だから彼らは違うコミュニケーションのやり方をしていますね。
それでもABAの人たちは、水族館で輪っかをくぐり抜けて鰯をもらうイルカのように子どもを調教しようとします。
考えてみてください。
水族館のイルカは、とらわれ、閉じ込められたイルカたちです。
芸をして餌をもらうことでしか生き延びられないのです。
だから誰かを「障害があるから」という理由で閉じ込め、思うように振る舞わせたい人たちにはABAがしっくりくるのでしょう。
本当は強度行動障害を治すつもりなどなく、実のところ講習を受けたくらいで治るとも期待しておらず、ただ「これ受けとくと加算があるから」ということが目当てで出かけてくる人々が学ぶ手法としては、ぴったりかもしれませんね(褒めてません)。
私がイルカだったら、水族館なんかで一生を終えたくはありません。
毎日毎日わけのわからない輪っかをくぐりぬけて死んだ魚をもらうような生活はまっぴらです。
広い大海原を自由に動き、自分で魚を捕まえたいです。
ときには小魚しかなくて、おなかがすくかもしれません。
ときには相手が大物過ぎて、失敗するかもしれません。
それでも試行錯誤を繰り返し、首はなくても超音波かなんかで仲間と話し合い協力し合いながら広い大海原で生きていきたいです。狭い水槽で一挙手一投足(もイルカにはありませんが)を見張られるのではなく、自由に行きたいところに行きたいです。
そして子どもを社会で生きられる人にしたい、と願う人たちも私と同じ気持ちではないですか?
水槽の中で飼育員を困らせない子に育てたい人には調教がぴったりくるのかもしれません。
でもそうじゃないお母さんは「動物と同じで何があかんの?」という支援者に腹が立って当然なのです。
子どもには飼育員の指示に従えば魚がもらえるという奴隷道徳を覚えるのではなく広い大海原をときにはひとりで、ときには仲間と協力し合いながら渡っていく人生を送ってもらいたい、そう考えて日々を送っているからです。
犬もイルカもこの方法で調教できる。そういうエビデンスがある、と有害な方の大久保さん一派は強調するでしょう。
けれども調教できるのはあくまでも「飼われている」犬とイルカであり、自由を奪うかわりに餌を与えて去勢してしまう「ペット化」の原罪についてはペットを飼っている人も飼っていない人も忘れない方がよさそうです。
飼われる人生ではなく、大海原を泳ぎたいと願う時、その力はABAでは培われない。いやむしろ逆効果。
だから我が子を誰かのペットにしたいとは夢にも思っていない親御さんが、子どもを動物扱いしている支援者に腹を立てるのはまっとうなことなのです。
ABA的子育てみたいな本を読んで参考にした時もありましたが今は使ってないです。私はセンスなく 鈍臭いのですが、ハウツーより 子どもをよく見て、子どもとの間合い タイミング 環境を整える方が伸びるな〜と実感してます。
また、榎本さんの本と対極にあるものだな〜とも思いました。
昔、アリスミラーの本を読んだ時、子どもを調教、コントロールするやり方が詳細に書いていて衝撃的でした。いつの時代もコントロール、調教したい人っているんですね。
そんなことしたら病みますよね。
榎本さんの本繰り返し読んでますが、愛甲さんの本もまた読み返そうと思います。