治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

ロリコンがおぞましいのはなぜか

2016-08-06 12:48:36 | 日記
ちょっと前に「声かけ写真」みたいなのの展覧会が話題になってましたね。話題っていうか炎上。
幼女にいきなり声をかけてそれを写真に納め、そしてそれを販売とかして喜んでいた変態たちの宴。キモチワルイし人権侵害だしということになっていました。ほんとおぞましい。

こういう事態におぞましさを感じるのは、
・幼女の方には性的目覚めがまだない
・撮影している男にとっては性的欲望の対象である

という片方通行に気色悪さがあるわけです。

だったら

自分としては友情しか感じようがない異性愛者が一方的に同性愛者に「実は性愛の対象として愛している」と告白されてしまうのって相当な戸惑いがあるでしょうね。

もちろんその人の属性を世間に知らしめるかどうかは、障害特性と同じように、本人にだけ権利があります。
だから私は本の中で、お子さんの写真一切使わない。もりしーさんの本を作るときなんて、お子さんの写真使えたらラクだった。でもその子が障害者スポーツのデイケアに通っていたことを将来カミングアウトしたいかどうかの決定権は本人にある。だから支援者の方には撮影ご協力いただいたけど子どもは全部イラストにしました。

だからさ、一方で「権利擁護ガー」とやっている人たちが自分は実名名乗りながらバンバン子どもの障害について語るのは変だなと思うし(子どもの許可取ってるのかよっていう話)
「障害を治そう」と提唱している私のことを差別者と呼んでき○がいじみた大騒ぎしながら自分の息子が人前で性器出したと面白おかしく記事にするベムなんて「保護者は何を言っても許される」という特権意識の塊だと思うよ。

それと同じように
「君がみんなの障害を引き受けてくれてるんだね」とかワケのわからんことを言って健常児だったら親父を殴りそうな記事を書いている記者さんも変だなと思うわけです。本当に差別をしたくないのなら、健常児だったら親を殴りそうな記事は書くなよと思う。いや、別にいいんだけどさ。その人たちが権利擁護を語るのが激しく矛盾に感じるだけ。


激しく矛盾といえば冒頭の話に戻りますが

どっかのおっさんがまだ性愛の意識のない幼女を性的対象にするのはみんな「いかん」と思うのに

異性愛者が一方的に同性愛者に愛を告白されたときのいたたまれなさ

ていうのは無視されるんでしょうかね。
異性愛者に人権なし?

この辺、発達障害の世界でもそうだけど
「理解を促す」人たちの中にも、共存を大事にしている啓発をしている人たちもいる。
社会に寄り添う方面ね。

一方で「健常者の人権を制限すること」を激しく主張する人たちもいる。

同じ風景が見られそうですね。

そしてどっちかというと、後者は破たんしているのよね。第一、保護者として啓発活動していたり権利を声高に叫んでいながら実は自分が一番子どもの人権侵害しているのはこのタイプ。一般人からその感覚を相手にされないから福祉の世界で叫ぶしかないのもこのタイプ。一向に意見が届いていないのに、身内でセミナー開いて盛り上がってなんかやっている気になるのもこのタイプ。

共存系の人はそれに比べ
意見に耳を傾けられやすいですね。
「外」と会話するからね。


誰か教えて。

ロリコンはおぞましいでしょ。

ならば同性愛者に告白されて異性愛者がいたたまれなくなることはいけないことなの?
一方的な性愛であることは同じでしょ。

アウティングはいけないにしても。

私は性的マイノリティの人に様々な権利を付与する制度の構築に反対の者ではありません。

でももし自分だったら

そっと離れると思います。
異性愛者にも自分の性愛に沿った行動を取る権利はあるからね。

だから
「離れる権利」を保障してあげることは必要なのでしょうね。
どっちのためにも。
一橋大学がそれをしくじったとしたら
「どっちにも必要がある」という視点がなかったからかもしれない。
異性愛者が同性愛者に告白されることも負担なのだと
告白されたこともまた被害体験なんだと
そういう視点がなかったからかもしれない。


最新の画像もっと見る