さて、新大関の誕生にふさわしく(?)
昨日はこのブログにも新しいお客様が来て下さいました。
その前にいただいていたメールでも
できるだけ多くの人に「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」を読んでもらって、支援級に学ぶことの意味を考えてもらいたい、という学校の先生からのご意見がありました。
本当にその通りだと思うのです。
特別支援教育が始まる前、私たち一般人は
「ああ、こうやって特性の強い子にも特別な支援が与えられ、結果として社会の中で生きていける子に育てるのが目的なのだろう」と思っていました。
ところが現実はそうでは必ずしもそうではありませんでした。
手のかかる子の「隔離」だったり、デイケアの代わりだったり。
昨日コメントくださった方のように保護者の受容がままならなくても仕方がない面がありました。
学校が消化試合のような未来しか想定せず、希望のある未来につながる教育をしないのなら
親として、なかなか送り込む気になれなくて当たり前ではないでしょうか。
私は大地君の本(修行系)や
神田橋先生・長沼先生・岩永先生の本(治療系)を出版することによって
発達障害の人にのびしろがあることを示していこうとやってきました。
その間に皆さんもご存知のように、批判もされました。
出している本に関しても、私自身に関しても、インチキも言いふらされました。裁判沙汰になるほどに。
大地君一家も同様です。そのことは、大地君自身の言葉で本の中にも書いてありますね。
どういう未来を想定するかには、脳内物質も大きく関係しています。
悲観的な未来を描くのが好きな脳内物質の持ち主にとって、私たちのやっていることは面白くないらしい。
先にさんざん攻撃をしかけておいて、いざこちらから反撃されると被害者意識に陥る
ベム(本名宮本晋・千葉県浦安市在住・会社員)みたいな保護者もいます。
この男が私の取引先に出した妨害メールは、警察の手にも渡っています。
この男はそれを知り、自分で警察に電話をかけて、つまらない言い訳をしたそうです。
この人は長年のうつ病だそうです。
脳内物質的に、明るい未来が描けないのかもしれません。
だとしても絶望を他人に押し売りすることは、正しくありません。
私はどんな療育方法でも、ぴんと来たら勉強してみることは、絶対に無駄ではないと思います。
全面的に役に立たなくても、どんな療育方法からも学ぶことはあるし。
それでも他人が勉強することすら必死に妨害しようとする保護者
自分と同じような絶望を押し売りする保護者もいます。
そのことを皆さんにはよく知っておいてほしい。
昨日も、神田橋先生の本がきっかけで救われた、というメールをいただきました。
本当にこの本を出してもらってよかった、と。
けれども神田橋先生の本を読みもせず
「トンデモ」と決め付けて、それを基盤にいまだに花風社の方針を非難し続ける人もいます。
持っているエネルギー量が少ないのか、怠慢なのか
こういう人たちは自分の目で確かめることすらしません。
どういう人を信用するか
それは皆さんが、ご自分で決めることです。
さて、支援級の話に戻りましょう。
多くの方が
支援級はもっと社会に出ることを見据えて教育をする場になってほしいと望んでいると思います。
けれどもその前に
同じように障害児の保護者をやっていても、自分が絶望し
だからこそ他人に絶望を押し売りする保護者の存在に気をつけなくてはいけません。
学校に要求をするのは当然の権利ですが、その前に
絶望押し売り保護者には気をつけてください。
支援級は落ちこぼれクラスではありません。
本来支援級というのは、普通級でできないことお勉強をする場です。
だから(一部の地域では実現しているように)支援級から進学という道は開かれているべきですし
出入り自由であるべきです。
つまり、ある程度問題がなくなったら
普通級に戻る道も開かれているべきです。
大地君の教育がうまくいっているようなのは
おそらく早めに支援級に移ったことも関係していると思います。
そしてそこでの修行の目的を、最初からきちんと教えていることが大きかったと思います。
多くの人が無理に普通級を選び
そこでうまくいかず、はじきだされ感を持って支援級に移ります。
支援級で学ぶことに
最初から劣等感を抱きます。
これは避けなければなりません。
そしてそのために必要なのは、社会に出るという目的意識がぶれないこと。
それに沿った方針を学校も家庭も取ることです。
支援は一生必要でしょう。
でもそれは、私たちも同じです。
必要な支援が、福祉や教育の範疇でなくてもいい。
ちょっと凸凹のある変わった人として、時には助けられ、時には能力を発揮しながら
社会の中で生きていければいいのです。
そのために普通級でも支援級でも
ニュートラルに選ぶことができるといいですね。
制度的にも。保護者の受容の面でも。
私が修行系や治療系の本を出してきたことを
政治的に正しくないという意見を持つ人もいます。
それは、現状の否定だと。
これほどばからしい考え方はありません。
人間というのは、たえまなく変わっていくことで生存している存在なのだから。
「身体も心もまだ未熟」だという稀勢の里の「今の姿」を
だからこそ私たち贔屓筋は高く評価するのです。
新しいお客様が来てくださっているようなので、ここ二、三年の論争を簡単に振り返ってみました。
どういう情報を選ぶのか。
ご自分の頭で考えて、決断してください。
昨日はこのブログにも新しいお客様が来て下さいました。
その前にいただいていたメールでも
できるだけ多くの人に「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」を読んでもらって、支援級に学ぶことの意味を考えてもらいたい、という学校の先生からのご意見がありました。
本当にその通りだと思うのです。
特別支援教育が始まる前、私たち一般人は
「ああ、こうやって特性の強い子にも特別な支援が与えられ、結果として社会の中で生きていける子に育てるのが目的なのだろう」と思っていました。
ところが現実はそうでは必ずしもそうではありませんでした。
手のかかる子の「隔離」だったり、デイケアの代わりだったり。
昨日コメントくださった方のように保護者の受容がままならなくても仕方がない面がありました。
学校が消化試合のような未来しか想定せず、希望のある未来につながる教育をしないのなら
親として、なかなか送り込む気になれなくて当たり前ではないでしょうか。
私は大地君の本(修行系)や
神田橋先生・長沼先生・岩永先生の本(治療系)を出版することによって
発達障害の人にのびしろがあることを示していこうとやってきました。
その間に皆さんもご存知のように、批判もされました。
出している本に関しても、私自身に関しても、インチキも言いふらされました。裁判沙汰になるほどに。
大地君一家も同様です。そのことは、大地君自身の言葉で本の中にも書いてありますね。
どういう未来を想定するかには、脳内物質も大きく関係しています。
悲観的な未来を描くのが好きな脳内物質の持ち主にとって、私たちのやっていることは面白くないらしい。
先にさんざん攻撃をしかけておいて、いざこちらから反撃されると被害者意識に陥る
ベム(本名宮本晋・千葉県浦安市在住・会社員)みたいな保護者もいます。
この男が私の取引先に出した妨害メールは、警察の手にも渡っています。
この男はそれを知り、自分で警察に電話をかけて、つまらない言い訳をしたそうです。
この人は長年のうつ病だそうです。
脳内物質的に、明るい未来が描けないのかもしれません。
だとしても絶望を他人に押し売りすることは、正しくありません。
私はどんな療育方法でも、ぴんと来たら勉強してみることは、絶対に無駄ではないと思います。
全面的に役に立たなくても、どんな療育方法からも学ぶことはあるし。
それでも他人が勉強することすら必死に妨害しようとする保護者
自分と同じような絶望を押し売りする保護者もいます。
そのことを皆さんにはよく知っておいてほしい。
昨日も、神田橋先生の本がきっかけで救われた、というメールをいただきました。
本当にこの本を出してもらってよかった、と。
けれども神田橋先生の本を読みもせず
「トンデモ」と決め付けて、それを基盤にいまだに花風社の方針を非難し続ける人もいます。
持っているエネルギー量が少ないのか、怠慢なのか
こういう人たちは自分の目で確かめることすらしません。
どういう人を信用するか
それは皆さんが、ご自分で決めることです。
さて、支援級の話に戻りましょう。
多くの方が
支援級はもっと社会に出ることを見据えて教育をする場になってほしいと望んでいると思います。
けれどもその前に
同じように障害児の保護者をやっていても、自分が絶望し
だからこそ他人に絶望を押し売りする保護者の存在に気をつけなくてはいけません。
学校に要求をするのは当然の権利ですが、その前に
絶望押し売り保護者には気をつけてください。
支援級は落ちこぼれクラスではありません。
本来支援級というのは、普通級でできないことお勉強をする場です。
だから(一部の地域では実現しているように)支援級から進学という道は開かれているべきですし
出入り自由であるべきです。
つまり、ある程度問題がなくなったら
普通級に戻る道も開かれているべきです。
大地君の教育がうまくいっているようなのは
おそらく早めに支援級に移ったことも関係していると思います。
そしてそこでの修行の目的を、最初からきちんと教えていることが大きかったと思います。
多くの人が無理に普通級を選び
そこでうまくいかず、はじきだされ感を持って支援級に移ります。
支援級で学ぶことに
最初から劣等感を抱きます。
これは避けなければなりません。
そしてそのために必要なのは、社会に出るという目的意識がぶれないこと。
それに沿った方針を学校も家庭も取ることです。
支援は一生必要でしょう。
でもそれは、私たちも同じです。
必要な支援が、福祉や教育の範疇でなくてもいい。
ちょっと凸凹のある変わった人として、時には助けられ、時には能力を発揮しながら
社会の中で生きていければいいのです。
そのために普通級でも支援級でも
ニュートラルに選ぶことができるといいですね。
制度的にも。保護者の受容の面でも。
私が修行系や治療系の本を出してきたことを
政治的に正しくないという意見を持つ人もいます。
それは、現状の否定だと。
これほどばからしい考え方はありません。
人間というのは、たえまなく変わっていくことで生存している存在なのだから。
「身体も心もまだ未熟」だという稀勢の里の「今の姿」を
だからこそ私たち贔屓筋は高く評価するのです。
新しいお客様が来てくださっているようなので、ここ二、三年の論争を簡単に振り返ってみました。
どういう情報を選ぶのか。
ご自分の頭で考えて、決断してください。