
さて、では「二次障害」に関してどうギョーカイは誤学習をし、それを現場に広め、その結果特別支援教育が消化試合になっているか、このへんみんなあまりわかってないみたいなんで一応くどくど説明しておきますね。
「廊下は走らない」
という注意の仕方を自閉っ子にしてはいけないと言われます。
なんででしょう。
否定語は、傷つくから。
とギョーカイは言う。だから「廊下は歩きましょう」と言いましょう、と。
ところがニキさんのような内部事情を知る者から言うと
「廊下は走らない」ではいけなくて「廊下は歩きましょう」と言ってほしいのは「否定されると傷つく」という理由ではなく、単に
「廊下は走らない」だと範囲が広すぎるんだそうです。
「廊下は走らない」と言われても、そこは想像力にバグのある自閉っ子。
「走らない」っていうことはこの廊下は通ってはいけない道なのか(でもそうなると音楽室にいけない)
とか
「走らない、っていういことは、でんぐり返しで進まなきゃいけないのか?」
とか
「もしかしてうさぎとび?」
とか
「ころころ転がる?」
とか
とにかく様々な可能性がわきすぎて、どうしていいかわからないんだそうです。
だから「廊下は走らない」より「廊下は歩きましょう」の方が自閉っ子フレンドリー。
理由は「傷つくから」じゃないんです。「範囲をはっきりしてほしい」なんです。
つまり
「否定しないで」
じゃないんです。
「きちんと教えて」
なんです。
そういう話さんざんしてるし書いてるのに
ルサンチマン系の当事者の「社会の理解ガー」にギョーカイ人がアプリオリに持ってるルサンチマンが重なって
「とにかく傷つけてはいけない」になってる。
でもこの風潮に「なんかおかしい」と感じてわが子に教えるべきことは教えている人もいる。
もう十年経ったんだから皆さんよく観察してみるといいですよ。
うちのわりと近所に(地下鉄で数駅)、全国的に有名だけど家庭内暴力一つ治せないという画期的なクリニックがありましてですね
そこでは心理士から何から厭世的な世界観を持ち、そして傷つけないように、という教育をしているらしい。そういうところが「家庭内暴力一つ治せない」という偉業を達成しているかたわら
叱るべきところはきちんと叱って育ててきたお母さんは、子どもに殴られたりしていませんよ。
そのへん、もっと皆さん観察すべきですね。
散らかすってのは部屋の配置をキープすることに命かけちゃうタイプはあまりやらないけど、注意がそれやすいタイプは確実にやる。
配置にこだわる子でも自分のテリトリー以外は全くできなくなるとかいう現象もある。
そして「散らかさないの」とか「片付けなさい」ってのは何をどうしたらいいのか示してないのでさっぱりわからない。
小さいうちはできるだけ「定位置に戻す」「ゴミは捨てる」って習慣付けからはじめ、多少屁理屈こねるようになったら「次の作業がしやすいこと」「出し入れに困らないこと」「他人の手間を無用に増やさないこと」という目標地点を示しながら具体的な手立てを教えていくしかない。
ほかの事でも
目標・目的が何なのか
具体的な手立てにはどういうものがあるのか?
このあたりがわからないまま叱られ続けりゃ脳みその健康にいいわけはない。
「わかる」をほっといて「叱る」だけをやめたら学習機会を失うだけなんだよね。