
昨日、読者の方からある意味似たようなメールが二本来ました。
両方とも愛着の問題を背負い、それを自覚されている方だと思います。
そして両方とも、別に私のことが嫌いではないと思います。むしろある方面では慕ってくださっているかもしれない。
そしてそれでありながら自分が失礼なメールを送っていることに自覚的であるという意味では自己認知ができている方たちです。たぶん私のことが「理解できないけど、嫌いじゃない」んだと思います。
二本のメールが同日に来たことで、一つの視点を得ました。
さもしい生き方をしたくない、とうっすら思っている人はいます。
でも周囲に、さもしさを追求した方があたかもトクなような言動を吹き込まれます。
そしてそのうちのおひとりが
=====
さもしいことはしない、ということを守り抜くことができる人が世の中にいるなんて 私は思いもしませんでした。浅見さんがさもしいことはしないと決めているからしないのだと知ってすごく失礼なことをしてしまったなと思いました。不愉快な思いをさせていましたらすみませんでした。でもその揺るがない姿勢が希望をうむのだなあとも思いました。
=====
と書いているのを見て、20代の頃を思い出しました。
世の中には自分が怖がりだから、その怖がりを相対化せず全員が怖がりだと思い込んで、どっちかというとさもしい生き方の方が得だ、と信じてそれを年下の人に説く人がいます。とくに女性のコミュニティの中では、これが多いんじゃないかな。
私も20代の頃、さんざんこれをやられました。おそらく私が女子トーク嫌いになったのはあのときの体験が大きいと思います。なんというか、自分の小さな器を押し付けるおばさん(といっても今の私よりは年下ですが)が多かったのです。
私はそのさもしさを強制する人たちを観察した結果「この人たちは別に得していない」という結論に至りました。だからその人たちの言うことはきっぱり拒絶してきました。
50代になった今、それは大正解だったと思います。
損をする、と言われる生き方を貫いてきたからこそ、得をしたと思っています。
でもハイパーりちぎな人がさもしい人に取り囲まれていると、いつしかさもしく生きなければ損をするようなそういう誤学習をするのでしょうね。
それは間違いですから。
私は「どうして世の中には好きなものを好きと、嫌いなものを嫌いと言えない人が多いのだろう」と思ってきました。
それもどうやら愛着の問題と関係あるらしい。
別に誰もが私のようにきっぱりしなくてもいいと思いますが
自分の好き嫌いに忠実になったら、精神的には余裕ができますね。
私は「さもしさ」をキーワードに今まで出会ってきた凸凹さんたちの顔を思い浮かべてみました。
そして、さもしく生きなければ幸せだろうなあ、屈託なく生きられたら資質が生きるだろうなあ、というたくさんの顔が思い浮かびました。
子どもたちだけではありません。
ニキさんも、ちゅん平も、南雲さんもさもしくない人でした。
こよりさんももちろん。
こよりさんは先日、ご結婚30周年を迎えられたそうです。
この人でよかった、これからも仲良く暮らしたい、とおっしゃっていました。
それでも介護や旦那様の失業を経験したこよりさんに「なぜ離婚しないの?」という失礼なことを言う人もいるそうです。
これがさもしい人がさもしくない人にする無礼な言動の典型です。
さもしさを拒絶することは、損につながりません。
それを凸凹の人たちの周囲は、覚えておいてほしいと思います。
彼らにさもしさは似合わないから。
両方とも愛着の問題を背負い、それを自覚されている方だと思います。
そして両方とも、別に私のことが嫌いではないと思います。むしろある方面では慕ってくださっているかもしれない。
そしてそれでありながら自分が失礼なメールを送っていることに自覚的であるという意味では自己認知ができている方たちです。たぶん私のことが「理解できないけど、嫌いじゃない」んだと思います。
二本のメールが同日に来たことで、一つの視点を得ました。
さもしい生き方をしたくない、とうっすら思っている人はいます。
でも周囲に、さもしさを追求した方があたかもトクなような言動を吹き込まれます。
そしてそのうちのおひとりが
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さもしいことはしない、ということを守り抜くことができる人が世の中にいるなんて 私は思いもしませんでした。浅見さんがさもしいことはしないと決めているからしないのだと知ってすごく失礼なことをしてしまったなと思いました。不愉快な思いをさせていましたらすみませんでした。でもその揺るがない姿勢が希望をうむのだなあとも思いました。
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と書いているのを見て、20代の頃を思い出しました。
世の中には自分が怖がりだから、その怖がりを相対化せず全員が怖がりだと思い込んで、どっちかというとさもしい生き方の方が得だ、と信じてそれを年下の人に説く人がいます。とくに女性のコミュニティの中では、これが多いんじゃないかな。
私も20代の頃、さんざんこれをやられました。おそらく私が女子トーク嫌いになったのはあのときの体験が大きいと思います。なんというか、自分の小さな器を押し付けるおばさん(といっても今の私よりは年下ですが)が多かったのです。
私はそのさもしさを強制する人たちを観察した結果「この人たちは別に得していない」という結論に至りました。だからその人たちの言うことはきっぱり拒絶してきました。
50代になった今、それは大正解だったと思います。
損をする、と言われる生き方を貫いてきたからこそ、得をしたと思っています。
でもハイパーりちぎな人がさもしい人に取り囲まれていると、いつしかさもしく生きなければ損をするようなそういう誤学習をするのでしょうね。
それは間違いですから。
私は「どうして世の中には好きなものを好きと、嫌いなものを嫌いと言えない人が多いのだろう」と思ってきました。
それもどうやら愛着の問題と関係あるらしい。
別に誰もが私のようにきっぱりしなくてもいいと思いますが
自分の好き嫌いに忠実になったら、精神的には余裕ができますね。
私は「さもしさ」をキーワードに今まで出会ってきた凸凹さんたちの顔を思い浮かべてみました。
そして、さもしく生きなければ幸せだろうなあ、屈託なく生きられたら資質が生きるだろうなあ、というたくさんの顔が思い浮かびました。
子どもたちだけではありません。
ニキさんも、ちゅん平も、南雲さんもさもしくない人でした。
こよりさんももちろん。
こよりさんは先日、ご結婚30周年を迎えられたそうです。
この人でよかった、これからも仲良く暮らしたい、とおっしゃっていました。
それでも介護や旦那様の失業を経験したこよりさんに「なぜ離婚しないの?」という失礼なことを言う人もいるそうです。
これがさもしい人がさもしくない人にする無礼な言動の典型です。
さもしさを拒絶することは、損につながりません。
それを凸凹の人たちの周囲は、覚えておいてほしいと思います。
彼らにさもしさは似合わないから。
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お返事を強要しているわけではありませんので、コメントが反映されなければ、ふうんと思うだけです。念のため。
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ということですが、これはコメ主でも私でもない第三者のプライバシーにかかわることなので基本的に公開はしません。私は当初の条件を知っていますが、その条件下では今も資格があります。
以上です。気が済みましたか? いい加減他人の不幸ではなく自分の幸せを追求する準備を始めてくださいね。
お答えだけします。
福祉の制度が必要な人がそれを利用するのはさもしくありませんね。
でも
伸ばせば納税者になる子をありのままにして福祉の中に囲うのはさもしい。
そうやってさもしい人が増えれば必要な人にも福祉が行き届かなくなるでしょう。
身内でも身内でなくてもそれは関係ありません。