さて、岡山で講演が済んだあとはすぐに戻って、翌日東京で講演を行います。
たくさんの人にとってアクセスしやすい東京。そこで、「発達障害」と「愛着障害」のおさらいをします。
こちらの団体は、支援者・保護者の方たちのお勉強会だそうです。
今回は特別講演だそうです。皆さん大歓迎です。
チラシに使っていただいてあるキャッチコピーは「愛着障害は治りますか?」のものです。
=====
自分が自分であることを
祝福されなかった。
つかみどころのない不安と
いつも一緒に生きてきた。
=====
最初から原案として使われていたところを見ると、これがたぶん、主催者的にはぴんとこられたのでしょうね。
このコピー、これだけで泣いた、と言ってくださる読者も多い。
そして私にとってはこの四行を書くだけでも相当勉強しなければいけなかったのです。
長らく、私は愛着障害というものと接していながら、それをそれと認識していなかったと思います。
いや、実を言うと
愛着障害の示す状態像は、私にとっては多くの場合「フユカイ」でした。
私は発達障害の世界の端々で出会う「ありえない恐怖感」に腹を立てていました。いや、「ありえない恐怖感」だけだったら「変なの」と思いながら腹も立てなかったと思います。その「ありえない恐怖感」を持つ人々が、勝手に私の言動に恐怖を抱き、全く理解できないこっちに同じようにそれを共有しろと迫られることが多く、それが不快でした。こちらはその恐怖感を共有していいない以上、完全にいちゃもんにしか思えなかったからです。
そして愛着障害を持っている人の方は、自分の「ありえない恐怖感」が愛着形成のヌケに由来すること、それを共有しない人がいること、に気づかなかったのだと思います。
それが支援の世界と一般社会のズレであり
逆のベクトルで、私がギョーカイに適応できない原因となっていました。
愛着障害は発達障害者を取り巻く環境の中でどういう現象を取るでしょうか。
まずは「社会が理解すれば生きやすくなる」。
この集団誤学習が愛着障害の産物です。
先日栗林先生がいいこと言っていました。あまりいいこと言っているのでスクショとらせてもらいました。ここには貼りませんが自分の記録用に。こういうことをおっしゃっています。
=====
理解されれば幸せになるのなら、あまりにも簡単な話です。
(中略)
将来を明るくするには、他力本願だけでは満足できない人たちが大勢いることを、もっと切実に理解してほしい。
=====
栗林先生も基底充実の方ですから、当然これが見えるわけです。社会の理解がいくら進んでも、本人の充実がなければ幸せになるはずがない。そしてそれに気づいている当事者保護者も多いのに、相も変わらず社会の理解だけ、つまり他力だけでなんとかしようとし続け、それこそが支援だと説き続ける支援者たち。この人たちは、自分のヌケを埋めようと支援職につき、そこから修行の進まない人たちなのでしょうね。自分の修行の進まなさに、人を巻き込んでいるわけです。
でも愛着障害を抱えているのは、このギョーカイ支援者だけではありません。
保護者の中にもあります。そして親の会なんかではこの愛着障害が強化されていきます。
私がギョーカイの言動、一番初めに覚えた犯罪報道へのいちゃもん。「加害者の診断名を報道するのは偏見を広げる。差別だ!」。
一万回くらい書いたと思いますがこれが一切理解できません。加害者の診断名を報道して広がるのは偏見ではなく事実です。一般社会の知る権利を制限しようというのでしょうか? そして、同じ診断の人を同じ目で見るとしたらそっちの方がおかしいのです。でも今思うとこれは、見張り合い社会の産物だったかもしれませんね。
そして「治る人はいる。でもあまり話題にしないようにしている。人心が安定しないから」という支援者による保護者の子ども扱い。わけがわかりませんでした。でもこれも、支援者保護者双方の愛着障害の産物だと今ならわかります。人心が安定しないとはどういうことか? 「治る人がいると自分たちが努力不足だと思われる」という被害者意識。猿烏賊方面ではこれを大真面目に私にぶつけてきました。これも基底欠損がもたらした被害感です。
治そうよ、と赤心から屈託なく発言する私。それをたたく猿烏賊。そして本当は治りたい、治る方法があると知りながら私が叩かれるのは見て見ぬふりをして本だけ読む意気地なしの隠れ読者。これも愛着障害の産物です。賭けてもいいけど(賭け事はお相撲見に行けなくなるのでだめだけど)、大っぴらに私をかばう勇気があった人の方が予後がいいはず。
私から見ると「そんなもんにつきあってられるか」、という卑屈さ。それが発達障害の世界には渦巻いています。そしてそれをなぎ倒していかなくては治りません。だから私は愛着障害について勉強し、そして自分には縁遠い愛着障害について想像して先の四行をひねり出したのです。
ならば愛着障害は当事者においてはどのようなかたちをとったでしょうか?
親の悪口を言う? そんなの一形態にしかすぎません。逆に言うと親の悪口とは別のところで愛着障害は濃く見られます。
「治るなんて差別!」だという言動。
「努力しろなんて差別」というやる気のなさ。
治る人がいると「あれは偽者」と理屈をこねる往生際の悪さ。
当事者に見られる愛着障害はそんなもんです。
そしてそういう卑屈で努力せず社会的には受け入れがたい当事者に死んだふりし
「ありのままでいいんだ」
「社会が理解すればいい」としか言わない支援者の「死んだふり」。
これも自分が丸ごと受け入れてもらいたかったけど果たせなかったヌケが埋められない支援者の愛着障害がもたらすやっつけ仕事です。税金から給料もらって死んだふりするな、ってなもんです。
いや、やけに力が入る記事になってしまいましたが
まあとにかく、発達障害と愛着障害の関係について語り、治す方法が出てきたことまで言及するつもりなので、ご都合のつく方は6月18日の目黒講演に来てください、というのがお願いだったのです。
お申し込みはこちらへ。
前日の岡山では「借りてきた猫」だと思いますが(予定)、目黒では本領発揮しますよ。
3月のコンディショニング講座に参加させていただき、初めて浅見さんや栗本さんとお会いしました。
実は私は幼い頃自閉症と誤診され、親や教師や精神科医から不適切な対応をされていました。
親は心理的虐待&過干渉で毒親のため絶縁済みです。
精神科医(2名)がロクでもない医師で、親の味方をして結果的には私を苛め、自己評価をどん底まで下げていました(浅見さんのいうギョーカイとどこか似ています)。
2人目のロクでもない医師(著書多数でTV出演もした人です!)からは、昨年なんとか逃げ出しました。
私は愛着障害当事者ですし、いろいろややこしいですがなんとか治したいと思っています。
当日はよろしくお願い致します。
役に立つセミナーにするつもりです!
ところで本音を言わないのが賢いのか~。どうしてもそういう考えにはついていけませんね。本音を言わないから変わっていかないんじゃないのかな。「わが身可愛さ」で取る行動は「賢い」とは私は思いませんね。でも見張り合い社会の中ではそうなんでしょうね。だったら私なんか最高のバカですわ、ははは。