治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
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私の中の日馬富士問題【暴論・力作・長文】

2017-11-21 10:47:06 | 日記
相撲ファンの中には観戦そのものを休場する方もいるようですが、角界を揺るがせている日馬富士問題。稀勢関がようやく休場しましたので、私も初めて口を開く気になりました。


あ、稀勢関に関しては、これまでも苦しみながら見守ってきましたので横綱になってもなお私たちをはらはらさせる資質を存分に開花しているなあ、という感想。大関になるまでも苦しくて大関になったらラクだと思っていたら今度は成績安定抜群なのになかなか綱取りできなくて横綱になったら安泰だと思ったら初めての大怪我。でも考えてみたら、大関時代にこの大怪我していたらとっくに平幕に落ちていたのですから、強運だということさえできます。どこかで開き直るしかないと思うのですが、来年もまた私たちをはらはらさせてくださるようお待ちしております。まる。

さて、日馬富士問題です。
私は皆さんご存知のとおり相撲ファンであると同時に版元で、そして犯罪被害者で、そして自分の事件の担当刑事だった人と一緒に本を作っているタイミングで日馬富士事件は起きました。

9月の講演に来てくださった方はおわかりでしょう。警察がどういうときに動くか。動かなければいけないか。そしてこのケースは完全にアウトです。日馬富士関のやったことははっきりと警察沙汰です。実際に被害届は受理され、そして鳥取県警の捜査員が国技館で任意の取り調べをしました。

今は国技館本場所中ではないから神は降りていないのかもしれませんが、国技館は聖地。そこで取り調べなんてすごく私はいやでした。万が一そこで逮捕なんてことになったら聖地がけがされて大変。と思っていましたが八時間の取り調べのあと日馬富士関は警察の車ではなく自分の車で出てきました。それをNHKが中継したことで「ワイドショーかよ」というツッコミもありましたが、私は「日馬富士が自分の車で出てきた」「国技館で逮捕が起きなかった」とほっとした者であります。

貴乃花親方が協会に相談せず被害届を出したことを協会内外で問題になっているようですが、これが私が生涯かけて戦ってきた「大義より身内の論理を重んじて恥じない地方公務員メンタリティ」です。学校で習うソーシャルスキルもこれだから私は「教師は人の道を説くな」と言っている。でもその洗脳に染まった人は多いから、「協会のメンツより日本国の刑法を順守する方が大事」というしごくまっとうな考え方に違和感をもつのでしょう。でも私はこの点断固、貴乃花親方を支持する者であります。

エビデンスガーの人にはバカにされていますが(そしてこっちもバカにしているのですが)私は生理的感覚をかなりあてにする者であります。なぜなら、生理的感覚で判断するとだいたい道を誤らないからです。そして生理的な感覚を言ってしまうと、伊勢ケ濱親方より貴乃花親方の方が「まだ」信用できます。それと、日馬富士の張り手は土俵の上でも大嫌いでした。正当な戦い方だし、小柄な横綱だとは言え、あの張り手は獣的で嫌いでした。だからそれが酒席で、しかも道具を伴って行われたらしいとなると、これは心情的にもアウトです。

まあ心情は棚に上げておきましょう。

私は今回の本を作っていて、「日本の国がなぜ近代警察を急いで作ったか」を知りました。それは、外患を防ぐためだったそうです。

維新後の日本は、清国同様列強に切り刻まれるリスクがありました。そんなとき法律がなく、その施行があいまいで、私の刑が横行するような状況では列国につけこまれます。生麦事件は実際、薩英戦争のトリガーを引きました。これは大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が切り捨てたわけですが、それが野蛮だとみなされたわけです。いや、野蛮だと「因縁をつけられて」イギリスに戦争を吹っ掛けられたとも言えます。つまり、「人の命を奪うにはデュープロセスが必要」という大原則を無視して「私の刑」を行う分子が国内にいると、外国からリベンジの名のもとに戦を吹っ掛けられるかもしれないわけです。まだまだ体力のない明治初期の日本は、この事態をどうしても避けたくて福沢諭吉その他をヨーロッパに送り視察して近代警察を作りあげたわけです。「取り締まり」という訳語は福沢訳だそうです。

そうやってできた近代警察の父、川路大警視という方は(全部榎本さんの受け売りをもとに私が本で得た知識です)「警察は薬餌」と言ったそうです。つまり、軍がいくら対外的に武器を持っていても、国の中に病があれば倒されてしまう。警察は国の中の病を治す役目をもって任じていたというのです。

そして今回の本を作りながらわかったのですが、警察がその活動で何を保障しているかというと、人々の自由な活動を保障しているのです。
なぜ自由な活動を保障しているかというと、人々の自由な活動こそが社会に潤いをもたらすものだからです。
警察は違法を取り締まるから、皆さんは自由な活動をして社会を潤してください、ということです。

私は出版活動をしていました。自由な合法的な活動をしていた。
それを非合法だと誹謗中傷する人がいた。
「自分の好みに合った世界」と「よい世界」を混同した人が、「自分にとって気にくわない活動をしているには非合法に違いない」と思い込み、その思い込みを公然にした。そして名誉毀損で有罪になりました。
そして私はまた、自由な活動ができます。そこには「自分は被害にあった。でもギョーカイは死んだふりだった」という経験値が積み重なり、「治そう」路線が生まれました。そして今私は自由に「治そう」路線を展開しています。
それが非合法だと思う人がいるならば、きちんとデュープロセスをとればいいのです。私はとったのですから。
その前に「自分は『自分好みの世の中』と『良い世の中』を混同していないかどうか」たしかめることをおすすめしますけど。

私のやり方はある人たちにとっては不快かもしれません。
乱暴で愚直かもしれません。
実は一途に「治るといいな」と思っているだけ。それをわかってくれる人もわかってくれない人もいます。
わかってくれない人がいる現状を見て、もっとお利巧なやり方ができる、とアドバイスしてくれる人もいます。
でもそのアドバイスをする人たちの誰一人として、私のようにがむしゃらに改革する気のある人はいません。みんなテレビで将棋盤を眺めながら「自分ならもう少しうまくやる」と指一本動かさずうそぶいている将棋愛好家みたい。評論家根性。いくじなしで薄汚い。そういう人の言葉が、愚直で一途な人に届くわけがありません。
そういう意味でも私は、貴乃花親方バッシングに違和感を感じるものであります。貴乃花親方のすべてを肯定しませんが、もしお相撲を愛してやまない親方の真意が「協会の都合より日本国のなかで合法的な活動を力士もすべきである。それこそが相撲を守る」という点にあったとしたら、賛同します。

それに対し元朝青龍のドルジ氏が「モンゴル人の間で話し合えばすむこと」的な発言をしていましたが、おそらくモンゴル人にはモンゴル人しかわからない仁義があって、その点で貴ノ岩関が何か先輩の神経を逆なでするような言動があったのかもしれません。私は、稀勢の里が横綱に昇進した貢献者の一人が貴ノ岩関であることを思い出しました。初優勝したあの場所の十四日目、白鵬を押し出す貴ノ岩を思わず溜席で立ちあがりそうになるのをこらえながら正座で応援していたのですから。貴ノ岩が白鵬を押し出した瞬間ーーつまり、稀勢の里の優勝が決まった瞬間ーーはついに膝で立ちました。そしてそこに座布団がたくさん飛んできました。痛かった。でもうれしい痛みでした。
今回は白鵬が貴ノ岩をお説教していたのが引き金だったようですが、あれが「逆なで」だった? まさかね。

ガチンコ力士貴乃花親方の弟子である貴ノ岩は、モンゴル力士の集まりとはふだん一線を置いているようです。稀勢の里の師匠である故・鳴戸親方(横綱隆の里)も、他の部屋の力士との交流を制限していたようです。すごくわかります。私も金輪際ギョーカイ人と仲良く酒なんかのみたくないし(議論はウエルカム)、およそ主義主張の合わないはずのギョーカイ人たちが仲良く写真を撮ってSNSにのっけているのをみると「さみしがりやさんなんだな」と思いますもん。まあこれも、「大義より身内の論理」を同時に学校で刷り込まれる「友だち原理主義」の賜物かもしれませんが。

まあその友だち原理主義はモンゴル人の強いお相撲さんたちの間にもあって、何か貴ノ岩関が先輩たちの神経を逆なでして、そして日馬富士関が「私の刑」を行い、それをドルジ氏が援護射撃しているのだと思いますが。

日本では「個人が個人を罰することはできない」のです。
デュープロセスが必要なのです。
それは島国である日本が、列強から身を守るために明治維新後築き上げた法体系なのです。
警察は薬餌。
ここも「治す」です。


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