治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

福祉の儲け主義についての一エピソードからの大きな提案

2017-11-02 09:06:27 | 日記
さて、読者の方からご連絡があり、
福祉の儲け主義が現れたひどいエピソードだと思ったので許可をいただいて書きます。

「発達障害者は発達する」を現場が知らず
「当事者の主体性を大事にする」という大原則を現場が守らず
そしてひっそりと儲けたくてたまらない、なるべく重い障害者がほしくてたまらない福祉クラスタの卑しい根性が、一人の障害のある人の気楽な生活を奪っていこうとしているといういい例です。

その方はかつて精神症状が強く、行動障害があり、知的には境界域でした。
身体アプローチをしたり、神田橋先生のところに行ったり(ここで先生は減薬を指示し、精神症状の多くは「支援を受けることによる三次障害」と見抜かれたそうです)
その結果精神症状は消え、行動障害も消え、知的には正常域になりました。二次障害も一次障害も治ったわけです。

そしていずれは就職したい、とか、大検を取って高卒の資格を得たい、とか夢見ながら在宅生活を送っていました。支援校卒だったので、大学に行くにはまず高卒の資格を取る必要があります。
スポーツ施設を利用することもありました。
田舎のことなので民間というより県営の施設が多く、一人で行って気楽に利用していたそうです。

かつては横浜でいえばラポールのような障害者メインの施設を利用していたそうですが
そこは行動障害があるからヘルパーなしでは利用してはいけないと言われていたそうです。
でも治ったので、一般の健常者に混ざって一般の施設を利用していたわけです。それでなんの問題もなかった。
そこで障害者メインの施設もヘルパーなしで利用していいかときいたら「ダメ」という返事だったそうです。つまり、地元のギョーカイには「発達障害者は発達する」観念がなかった。精神症状が治まる観念もなかった。相変わらず「付き添いしないと他の利用者に迷惑をかける人」扱いだったのです。一般の施設はなんの問題もなく利用できていたし、それで体調も整えていたし、旅先ではどこでも付き添いなしでスポーツ施設を利用していたにもかかわらず。

地元の福祉が自分を見る目はいつまでも変わらないのだ。
それがショックで、久々のパニックを起こしてしまったそうです。
そうしたら福祉は「ほらみてごらん」とドヤ顔。
とんだマッチポンプです。
そしてこの際、と生活介護の利用をすすめてくるそうです。あまりに話が通じないから近寄らなかった相談支援に来いと命令するそうです。

「発達障害、治るが勝ち!」から引用しましょう。

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『自閉っ子、こういう風にできてます!』出版直後に話を戻そう。

 この評判となった対談本を出した私に様々な発言の場が与えられることになった。発達障害に関する啓発活動の中で、私はプレイヤーの一人となったのである。啓発の目的は、社会に、とりわけ仕事場に、発達障害の人を受け入れてもらうこと。私は精いっぱいのことをしようと思った。アインシュタインやエジソンを埋もれさせていては社会の損失である。
 ただ、(とくに私の生活圏である首都圏においては)満員電車に乗って週に五日どこかに通えることが安定した職を得る大前提になる。そして当時あまり指摘されていなかったことだが、発達障害のある人にはこれが難しい。たとえ天才的な能力がある人でも、とりあえずはどこかに雇用されることからキャリアを始めることが多いとすると、ここはクリアしておかなければせっかくの才能が埋もれる。だからまず、この人たちの身体の弱さをどうにかしよう、と訴えた。
 そして身体特性に合わせた多様な働き方を考えようとも主張した。ニキさんは二つ大学に入り、二つ中退し、その後縁あって結婚し、その間ずっと主婦をしながら職業を得たいと願い、それでも無職を長く続けてきた。季節に翻弄されすぎて、外に出られない時期などがあるのが仕事を持つことを妨げていた。
 だが、ついに在宅でできる翻訳という仕事にたどりついた。大卒が当然とされている出版界において、大学中退の人が翻訳家という仕事をするのは珍しいことだったが、そのための営業努力を自力でやってのけた人だった。そしてそれは何かの「就労支援」を受けた結果ではなく、彼女が本を読み、趣味の集まりなどを通じて世の中を観察し、自分で独自にたどりついた工夫の結果だった。
 翻訳家を含む自由業は、たしかに経済面では不安定な自由業だ。けれども、大黒柱が他にある家庭の主婦としては悪い仕事ではない。そもそも、感覚の偏りのある人にとって、在宅で仕事をすると自分の職場環境を自分で作れるのは都合がいい。通勤の苦労もない。
 私はニキさんが自力で自分の生きやすいライフスタイルにたどりついたことに敬意を抱いていたので、「在宅でできるような仕事もありではないでしょうか」などと力説したりした。それもこれも私が「発達障害の人の持つ才能を活かせる社会の実現を」という支援者たちのセールストークを真に受けていたからである。

 実に愚かであった。というか空気を読んでいなかった。悪気はひとつもなかったし、むしろ貢献したい気持ちでいっぱいだったのに。

 当時の私は知らなかった。「自立支援」とはどういうことか。私は一般人だから、自立支援と言えば文字通り自立を支援するのだと思っていた。
 支援の世界(以降、支援業界を略して「ギョーカイ」と呼ぶ)では違っていた。
「自立支援を広げる」とは「自立支援」を謳う事業体が行政を説得し、血税から事業費の名目で行政に金を自分たちに支払わせる――すなわち、売り上げを得るシステムを広げることだったのだ。

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ニキさんのように、自分で精進して勝手に営業して仕事になってしまう障害者は、ギョーカイにとっておいしくないのです。なぜなら「自立支援業者」に一円ももたらさないから。
福祉にとって「おいしい」障害者とは、「自立支援業者」を利用し、めんどりとして国費から卵を産んでくれて、しかも一生なるべく重い障害にとどまってくれる人です。

つまりこの読者の方のように、自力で「そうだ、鹿児島行こう」と思い立つことができ、もらっている年金を主体的にそちらに使い、ますます良い状態になっていき、自分でスポーツ施設を利用し、障害程度がどんどん軽くなっていき、将来に希望を持って大検に意欲を抱く、みたいな障害のある人は福祉にとって「儲からない障害者」なんですね。

そして福祉には近寄ってこないわけだけど、ようやく「社協の施設一人で利用していいでしょうか」と近寄ってきてくれたので、そこで「い~やあなたはまだおも~い障害者です」と宣告することによってメイドイン福祉のパニックを作り出し生活介護を売りつけるという阿漕なお仕事。

まさに人身売買です。
苦界に沈めて化粧料とかなんとかの名目で借金を増やして足ヌケできなくさせるような。

今後どうするかは本当にご本人が主体的に決めることだけど、いっつも権利擁護だとかなんだとかうるさい福祉がこの方に主体性を許すかどうか

遠くから見守ってます。

そして応援しています。

皆さんも応援してあげてくださいね。

私はこんな阿漕な福祉に金をつけるより、こういう意欲がある人にはたとえば大検合格の手助けをするような、そういう支援があってほしいし、そっちにお金が回ってほしい。

そうなると「発達障害、治るが勝ち!」でも提案したように、ベーシックインカムの方面の方が生きやすい人が増えるような気がしているんですよね。

この人に必要なのは生活介護ではなくお勉強を教えてくれる人。
でも福祉はそれは用意できないでしょう。
自分たちが用意できない分、当事者に希望をあきらめさせる。
そういう支援が多すぎないですかね?