治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

ギョーカイの大いなる誤学習 続き

2015-11-10 10:12:33 | 日記
さて、昨日の記事に狸穴猫さんがとても興味深いコメントをくださいましたよ。

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「廊下を走らない」のご家庭バージョンでありがちなのが「散らかさないの!」「片付けなさい」だと思う。

散らかすってのは部屋の配置をキープすることに命かけちゃうタイプはあまりやらないけど、注意がそれやすいタイプは確実にやる。

配置にこだわる子でも自分のテリトリー以外は全くできなくなるとかいう現象もある。

そして「散らかさないの」とか「片付けなさい」ってのは何をどうしたらいいのか示してないのでさっぱりわからない。

小さいうちはできるだけ「定位置に戻す」「ゴミは捨てる」って習慣付けからはじめ、多少屁理屈こねるようになったら「次の作業がしやすいこと」「出し入れに困らないこと」「他人の手間を無用に増やさないこと」という目標地点を示しながら具体的な手立てを教えていくしかない。

ほかの事でも

目標・目的が何なのか
具体的な手立てにはどういうものがあるのか?

このあたりがわからないまま叱られ続けりゃ脳みその健康にいいわけはない。

「わかる」をほっといて「叱る」だけをやめたら学習機会を失うだけなんだよね。

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この最後の一文

「わかる」をほっといて「叱る」だけをやめたら学習機会を失うだけなんだよね。

が今、ギョーカイの影響下にある特別支援教育の現場で起きていることですね。

そういえばニキさんの話には続きがあって

「廊下は走らない」と言われても、それがただちに「廊下は歩きましょう」につながらない想像力のバグがあってしかも言葉その他の表現手段を持たない知的障害の伴う人だとやはりパニック方面に行くでしょうね、とのこと。

だって「走らない」と指示されただけで、正しい行動が「でんぐり返し」なのか「うさぎとび」なのか教えてもらえないわけだから。

そしたらそのパニック見てギョーカイは
「ほら、否定的なこと言うと傷つく」と誤解して言いふらしているのね。

その結果、学習機会を失っているのね。お子達が。

そして支援級が荒れていくのね。

そして社会から見るとこういう風に映る浮世離れした世界ができあがる。




早期療育とかがなかったころは、かえって「なんとなく育って変人として世の中に居場所が見つけられた」のはだからじゃないかしら。

そして厭世的なギョーカイ人のつぶやき。
やだやだ。



この人、いつも「多様性が許されていない」という思想をお持ちのようなんだけど、私にはそこからもう信じられない。
フィリピンに羽の生えた豚描きに行ってお金もらう人もいる世の中で、何言ってるんだろうっていう感じですね。

FBに貼ったらあきれた人が多数。その中で「誰かと思ったら院生のとき著書買わされた先生だ」とかいう人もいて、そうかそうやって厭世的な世界観が広がっていくんだなと思いました。

この「ギョーカイ人の持つ特有の厭世的な世界観」から「社会は怖いところ」という結論が導き出され、そこで「治すとは定型にすること」だから「治すなんて差別」が出てくるこれまたでっかい誤学習が出てくることを私は指摘し続けているわけで


縁があって花風社の本を読むに至った人たちには

一般社会はギョーカイが言うほど怖いところじゃないって知ってもらいたいのよね。