治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

「社会の理解ガー」の源泉を見た

2014-05-14 07:35:10 | 日記
業務上必要があって、障害学というか、当事者研究というか、そういう方のお話を聞きました。
そして「社会の理解ガー」の源泉を突き止めた気になったのでご報告です。
なんというか、別にこういう意見に賛同はしないんだけど
「ああこういう仕組みで社会に変われというのだな」というのがつかめた感じ。

「社会の理解ガー」の人たちは
ある意味「社会性の障害」っていうものを情緒的に、いい人っぽくとらえていると思いました。
なんというか、私が全然信じていない
「友だち100人」とか「みんな仲良く」とか、そういうのができるのが社会性があること、みたいな。
小学校で習った価値観を上手に内面化しているのは(ほめてません)むしろ「社会の理解ガー」の人たちなのかもしれません。

社会性の障害が「みんな仲良く」だから
ASDの人にセオリーオブマインドがないんじゃなく、定型発達者にセオリーオブASDマインドがないのだからおあいこじゃないかという、よく聞かれる主張。
うん。私もそれ同意します。
文化の違いだよね。だから定型発達同士でも、文化が違うとわかりにくい。
そしてASD同士でも全然わかりあえない人たちがいる。水と油みたいに。

そして、社会性の障害(たとえば「みんな仲良く」ができない)は社会がないと生じないのだから
だから社会が変わることによってこそ(社会がその人と多少のフユカイには目をつぶって仲良くすることによってこそ)
障害は解消されるのである。
障害学だか当事者研究だかしている人の主張はざっとこんな感じでした。こんな感じにとらえました。

でもね、じゃあ社会がないと社会性の障害がないのかというと
そんなことないと思うんです。

まずまったき孤独の状態。

人間が生まれてまったくの孤独で誰にも世話されなかったら数日で死にますね。
そういう意味で、まったきの孤独の状態は、まあないです。

最低でも人間が生き続けるためには二者関係が必要。
ケアテイカーが必要です。
多くの場合、新生児にとっての最初のケアテイカーは母親だし、重度の障害などがあって大人になってもケアテイカーの存在に強く依存する状態に置かれる人もいるでしょう。
つまり、広い社会に出て食い扶持を稼ぐのではなく、職業的にケアに携わる誰かのお世話になる人もいるでしょう。
(これをいけないと言っているのではないですよ)

そしてその最小限の、善意いっぱいの、その人に合わせる気いっぱいの、「ありのまま」を受け入れる気いっぱいの人たちとだけ接する人でも
やはり「社会性の障害」って呈しませんかね。
だからケアテイカーがご苦労なさるのではないのでしょうか。

そういう意味で「社会性の障害」は「社会が引き起こしている」とは私には思えないのです。
これは、「社会性の障害」の不便さを解消するために、社会は指一本動かさないでいい、という意味ではないですよ、もちろん。
私のことを見ている人ならわかるでしょうけど
私はある意味、ASDの人に対してのコミュニケーションは使い分けているでしょ。
そういう配慮はする気がありますし「こういう言い方をすると通じやすいよ」っていうのが自閉っ子シリーズになっているんじゃないですかね。
たとえば「多義的な言い方を避ける」とか「意地悪な気持ちをこめずはっきり言う」とか
そういう心がけで不便を解消できるとは思うのですよ。

「社会の理解ガー」の立場からすると「社会性の障害の解消のため本人に働きかけるのはけしからん」ということになり
たとえば話題のオキシトシンによる治療にも触れて
「オキシトシンには、たとえば投与後他民族に対して排他的になるという副作用もあるらしい。これが社会性の障害の解消と言えるのか」という疑問を呈されていましたが(この話は他でも聞いたことあります)

私は「ああ、他民族に対して排他的になるのだったら、本当にオキシトシンは社会性を生やすのかもしれないな」と思いました。だって社会性は「誰とでも仲良く」じゃないのだから。

社会性、っていう言葉自体が複雑系だしそれを単純に定義する気はないですが
私だったら「誰とでも仲良くできる能力」よりも「敵と味方を見分けられる能力」の方がぴんときます。
依存しなければいけない新生児や重度の障害を背負った方はケアテイカーとの関係構築さえうまくいかないことがありますよね。
ケアテイカーが自分を全面的に受け入れてくれる存在だと見分けがつかずに。
ちゅん平の「すべての母さんたちへ」を講演会で読むと同時多発すすり泣きが起きるのは、ちゅん平がまさに「愛されていることに気づかなかった」状態を克服したプロセスがあの一文にこめられているからではないでしょうか。
私が目指したいのは、こっちなのです。

そしてオキシトシン投与の結果、他民族に対して排他的になるような状況が出るのなら
明らかに自分と近い人とそうじゃない人の見分けがつくようになったということ。
異文化に排他的になってしまうのは社会性の負の面です。
そしてその負の面を乗り越えるのは教育でしょう。

私はわりと極端に血統主義の嫌いな人なので

甲子園で出身地の高校を応援することとか
隣県同士が競って飛行機が飛んでこない空港作りっこすることとか
三世にも四世にもなっても半島にも帰らないのに帰化しない在日の人とか

全部私にはわからない「こだわり」です。
でも世の中の多くの人はこの程度の身内びいきは自然に受け入れていると思うし
それは社会性の産物なのではないでしょうか。

自国の国歌斉唱には直立不動で歌う(君が代の場合ね)。
他国の国歌斉唱の場合にはブーイング等をしない。敬意を持って聴く。
こういう態度をとれるようにするのが教育でしょう。

まずは、誰が自分の味方か
誰が自分のことを愛しているか、見分けるのが社会性の発芽するところだと思うので
私は「社会が理解すれば、社会性の障害は解消する」とは思っていません。

そして味方を味方と見分ける力は、自閉っ子の中にも育つと思っています。
実際育っている人いっぱいいますよね。

だから「社会の理解ガー」よりも
私は機能改善に興味があります。
だから「伸ばそう! コミュニケーション力」を出したのです。
啓発でも分類でもなく、機能改善こそが花風社の目指すところなのです。

☆☆☆