Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

地震予知はできない。

2005-02-25 | Japan
2005.02.25
最近、東京都心を直下型大地震が襲ったら、というニュースがメディアを騒がせる機会が多くなったような気がする。大衆誌の部数稼ぎの記事ということではなく、ちゃんと信頼できる調査研究機関が行った調査に基づいて報道が行われている場合が多い。いよいよ近づいているのだろうか。

僕の実家は、静岡である。東海地震が予想されていて、地震対策では日本国内で最も進んだ取り組みが行われていると言われている地域である。その静岡で、行政や消防が住民達に公言して憚らないのが、「(地震)予知はできない!」ということだ。話を聞いていると、これには二つの意味があるようで、1つは科学的に完璧な予知はできない、ということ。これはまあそうだろう。

しかし、もう一つの含意は不気味なリアリティを放つ。それは、仮に専門家達の間でかなりの高い確度で地震の発生が予測されたとする。だけど、そのことを行政はあからさまに発表しない(できない)というものだ。なぜなら、パニックやエクソダスが起きて経済活動や交通網が麻痺してしまうからだ。そのことによる経済的損害のほうが、地震による実質的被害よりもはるかに怖いということだそうである。こういう場合、行政はやんわりと解像度を下げて予知を公表するやり方をとるそうである。こういうことを消防の人たちが住民に言うんだからすごい話である。

Flash Flood

2005-02-24 | Japan
2005.02.24.Thu
*タム地域環境研究所の石井さん、林君と見沼田圃プロジェクトの打合せ。
*打合せ終了後、造園学会に論文を提出。雨に降られる。

*行き帰りの電車で、吉川勝秀『人・川・大地と環境 自然共生型流域圏・都市に向けて』技報堂出版,2004 を読みふける。面白い本ではないが勉強にはなる。基礎知識として。

メモ:欧米とアジア・モンスーン地域における治水に対する考え方の違いとその背景
・欧米では基本的に治水の問題は洪水の危険がある場所に進出した個人の問題であり、国や連邦の管理下にはない(ただし、国土を堤防で守っているオランダや伝統的に州の管理下にあるドイツの一部地域を除く)。舟運を除く川の管理は(地方)自治体が行い、国によっては民有河川も珍しくない(イギリスなど)。国による直轄管理、国が治水についての全面的な責任を負う日本とは考え方が根本的に異なる。

・アメリカのミシシッピ川では、氾濫原での開発は他に代替案がない場合以外は避けること。開発が行われる場合は、雨水を自然又は人工の貯水池で貯留しポテンシャル・ダメージを減少させること。次に氾濫原での建築物・施設を耐水化すること。堤防や洪水壁はそれらの対策の後にはじめて建設すること、という土地利用の原則がある。その主体は基礎自治体、州政府である。やはり連邦政府が大きく関わらない点は欧州と同様であり、日本の治水に対する考え方とは異なる。

・以上の違いの背景として、アジア・モンスーン地域の大都市は大河川の氾濫原に立地する(洪水の被害多し)ケースがほとんどなのに対して、欧米の大都市は氾濫原に立地するケースは希である(河川は掘り込みで都市は河岸の高台に立地)。すなわち欧米の都市はアジア・モンスーン地域の都市と比較して洪水の被害が少ない。ちなみに、日本人口の50%、資産の75%が氾濫原に立地している。このため、氾濫原の洪水による社会・経済的損害は欧米とは比較にならない程大きい。

・では、何故にアジア・モンスーン地域の大都市は氾濫原に立地するケースが多いのか。1つには水系を基盤とする稲作農耕社会を起源としていること。それから、日本の場合には可住地が国土面積の20%に満たないこと等が挙げられる。

出典:吉川勝秀『人・川・大地と環境 自然共生型流域圏・都市に向けて』技報堂出版,2004

セクハラ講習会

2005-02-23 | Japan
2005.02.23.Wed
*教授会の前にセクハラ講習会。ファカルティ・ディベロップメントの一環だ。僕の理解したところのセクハラのユニークな点は、セクハラした側(あるいはしたとされる側)が故意であろうがなかろうが、実際に下心があろうがなかろうが、そんなことは一切関係なくて、セクハラされた側がどう感じたかだけでセクハラか否かが決まってしまうということだ。被疑者の動機の有無が一切問われることなく、被害者の受け取り方次第でコトが決まってしまうのだから、これはコワイ。だけどまあ他人の気持ちが分からない鈍感なヤツはダメということである。それからもう一点。セクハラした側とされた側の間には、一定の上下関係(権力関係)が存在するということ。これもセクハラの大きな特徴だ。例えば、上司と部下、教員と学生等々。要するに権力というのは使い方を誤るとおかしなことになるという普遍的な問題なわけである。以上から、自己本位の権力者はダメということになる。いっぱいいるぞ。

聴くのも辛い

2005-02-22 | Japan
2005.02.22.Tue
*卒論発表会。うちの大学では卒業論文と卒業制作どちらをやってもよいことになっている(ただし、修士課程は論文だけ)。卒業制作は卒論派と比べると圧倒的に少数で、もっと増えて欲しいと常々思っているのであるが、そうなることを望んでいない教員が多いのは悲しいことである。僕の考えでは、論文も制作も両方やるべきだと思う。というか、それがグローバルスタンダードだ。ともあれ、卒論・修論発表会というのは1年のうちで、話す-聴くの関係が逆転する数少ない機会である。そういう機会に臨んで改めて実感することは、「聴くのも辛い」ということ。反省することしきりである。

それでも、

2005-02-21 | Japan
2005.02.21.Mon.
*それでも俺はNHKを支持する。ほとんどの民放の番組は見る気にならん。

*それでも俺はホリエモンを支持する。株式のことはよくわからないけれど、少なくとも道徳論持ち出して解決できるような話じゃないだろ。というか、道徳論じゃ解決できないなんてことはもはや「前提」だと思うけど。

*一日中、自宅で仕事をし、妻と一緒に息子を保育園に迎えに行き、夕食を済ませてから大学へ。用件は母校100周年記念事業の企画会議に出席するため。卒業生から募金をいただいて何か事業をやろうというわけだが、投資対象として何を優先するのがよりベターなのか、先行きが不透明であと1年位しないと決定不能である。それでもいまから事業内容をある程度決めて募金をはじめとする諸活動をスタートさせなければならない。卑近な例だが、こういう場合の計画に求められる条件というのは、将来の事態の変化に柔軟に対処可能なことである。このような計画というのは、事業の具体的メニューとその進め方を明示したいわゆる計画とは異なり、「計画の計画」というか、ちょっと大げさな言い方をさせてもらえば、「メタ計画」とでも呼ぶべき性格のものである。こういう「計画」を考えるのは結構楽しいことである。

Interview

2005-02-19 | Japan
2005.02.19
・今日も渋谷。造園学会の某委員会で理事のT先生ともめる(まあ、むこうは蚊に刺されたとも思ってないだろうけど)。もめた原因の50%は僕(が幹事を務める学術委員会)にあると認める。だけど、残りの50%はどう冷静に見積もっても我々の非ではないし、T先生の言ってることは納得できない。いいけど。

・学会で宮城先生(奈良女子大)から、安東孝一『インタビュー』青幻社、2005を頂く。この本は、安東孝一というアートプロデューサーが18人のアーティスト達にインタビューした結果をまとめたもの。宮城さんは、ランドスケープデザイナーとして、インタビューを受けたアーティストの1人である。その他に、青木淳氏や隈研吾さん、妹島和代さん、坂茂さん、岡崎乾二郎さん、といったビッグネームが並ぶ。その中で宮城さんが、自分を含めて、誰かが、ある景観や環境の状態や状況を感じとること、それ自体もランドスケープデザインである、と言っている。だから、「自分が直接に手を下さなくてもデザインできる部分がかなりある」という。これは、例えばランドスケープのデザインが、なにか空間を物理的に操作するだけでなく、それをある風景として切り取るその切り取り方(風景観やまなざし)を提案することもデザインの範疇に含まれるというようなことか。それから、自分が仕事を始めた80年代後半を回顧して、「当時は全般に視覚的に訴える部分が非常に強くて、つくるものが視覚的に消費されていると感じていました。ビジュアルを追求するだけでデザインが成立しているみたいでした」と人ごとのように言ってるのはちょっと笑える。で、やっぱり造園とランドスケープは違うって、あいかわらず強調してる。「もちろん、造園というものをもっと広げて捉えた方がいいのかもしれない。でも広がった部分を造園とは言いにくいから、ランドスケープデザインと呼んでいるだけのことかもしれませんけど」と但し書つきで。

・学会の帰り道、大盛堂で吉川勝秀『人・川・大地と環境』技報堂を購入。官僚出身で、状況と課題をいま最もわかりやすく伝えられる希有な方の著書。

Water Care

2005-02-19 | Japan
2005.02.18.Fri
・修士論文の発表会。全員パワーポイントを駆使して軽やかにプレゼン。僕が学生の頃の発表会と比べると隔世の感がある。都市空間を有効に活用するソフトとしてのストリートパフォーマンスとそれが発生する場の空間言語化をねらった調査研究があった。僕はストリートパフォーマンスというのは大嫌いである。パフォーマー諸氏には申しわけないが、それでなくてもしまりのない街並みがよけい汚らしくみえてしまうし、日本の狭い路上や駅前でやられるとはっきり言ってじゃまである。東京都は「ヘブンアーティスト制度」と称して、ストリートパフォーマー達にライセンスを与え、場所を限定して(ほとんどが公園などの公有地)ストリートパフォーマンスを認めているらしいが、制度の運用実態はあまりよくないという。ストリートパフォーマンスの本質的な部分ってのは、制度化されたり、決められた場所でやるということではないはずだから、うまくいかないにきまってる。公園での大道芸を僕はストリートパフォーマンスとは呼べないと思う。

・論文発表会終了後、自宅に戻り夕食を済ませてから、平成17年度日本造園学会全国大会で発表予定の投稿論文の最終稿を渋谷の学会事務局まで届ける(今日が提出締切)。行き帰りの電車で、保屋野初子『川とヨーロッパ』築地書館、を読む。その中で紹介されていた、オーストリア政府の“Water Care”というコンセプトは注目してよい。Water Careという概念は、いわゆる「治水目的」と生態学的な機能を保護活性化する「水保全目的」とを統合的に考えるものだが、その中の4つの原理の1つにこうある。「・・・洪水が溢れる土地にはいかなる建物も建造物も許されない。「1990年改正水利権法」制定後につくられた宅地や産業地に対する治水事業は連邦水力学財源からの財政支援を受けられない」とある。要するに、洪水の危険のあるところにそれを承知で住んでるヤツを政府は税金使って助けてやらない、という考え方である。こういうのいいな。いま、ヨーロッパでは基本的にはこんな考え方で、堤防ぶっ壊して沿川の農地を氾濫原に戻している(河川再自然化)。ここではもはや洪水は「災害」ではなく、生態学的に有益な「攪乱」ととらえられていて、その自然のダイナミズムを景観としていかにみせるかが河川環境整備の主たる関心事ということになる。

計画の無責任

2005-02-17 | Japan
2005.02.16
僕を含めて4名の教員が担当する環境デザイン実習5の合同講評会が開催された。住宅庭園の保全(三谷先生担当)から大学キャンパスの再生(古谷先生)、旧街道筋の街並み誘導(木下勇先生担当)、市街化調整区域内農業地帯の保全活用計画(僕担当)、中国の遺跡公園の整備計画(章先生)と、空間スケールも内容も様々だ。共通しているのはいずれも実際のプロジェクト(公共・民間)とかかわっていること。4年間最後の実習ということでより実践的な内容になっているわけだ。それと、全体的にプランニングレベルの提案がここ数年増えている。

これについて三谷さんから、実際にそこでどんな空間体験ができるかというところ(計画からデザイン)までちゃんと提案すべきだ、という指摘があった。もっともだ。僕の言葉で言うなら、具体的なイメージを伴わない「計画」は無責任/無意味である。けれども、世に、機能と構造の提案をもってよしとする「計画」のなんと多いことか(特に行政のマスタープラン系)。同じ機能と構造をもつ形態はそれこそ無限に存在する(機能と構造によって形態は定まらない)。形態はデザイナーの仕事と考えるようなプランナー、言い換えるなら、形態に関心がないプランナーというのを僕は信用しない。無責任である。

管理者と呼ばれる人々

2005-02-15 | Japan
2005.02.15.Tue
・某市某委員の委嘱式を一身上の都合により欠席。委嘱式というのはわざわざ市長さんがご登場して委員の委嘱状を手渡すという格式ばった儀式。はっきり言ってこういうのは苦手である。というか○△の無駄である。

・午後は大学本部に赴き、学内ネットワークに接続する新しい某設計情報システムの導入にあたり、誰が将来の管理責任を負うか、いわば「事前責任逃れ」の会議に出席。それにしても、管理者というのは強気である。俺が管理してやってるんだ、管理ってすっごくたいへんなんだぞ、という意識がみえみえ。でもさ、それがあなた方の仕事でしょ。いばるなよ。

2005.02.14.Mon
・お世話をしている1年生の環境デザイン実習(M&Nの大橋さんご担当)の発表会。前半をご担当された高崎さん(高崎設計室代表)、前任の加藤さん(ヘッズ東京代表)も列席してクリティック。課題は大学キャンパスの広場の改修案。学生を含む全員で投票を行い、上位10名に発表してもらった。なかなかの力作揃いであった。終了後、学生を交えて懇親会。加藤さんを中心にゲイ談義に花が咲く。育児相談(進学における東京感覚)は学生がついてこれず場のテンションを一気に下げる。

2005.02.13.Sun
・息子と借りたビデオを返しにいき、返したついでにまた新しいビデオ(ウルトラマンダイナ)を借りてしまった。図書館に借りた本も返しにいく。息子の要求で、図書館で紙芝居をやらされるはめに。。。

樹林化する河川敷

2005-02-13 | Japan
2005.02.12
多摩川リバーミュージアムの研修会に参加。昨年より大学院の授業の一環にさせていただいている。今日のプログラムの目玉は、府中市郷土の森博物館地先の多摩川河川敷でGPSを使用した植生調査。エリアを決めて、貴重種のカワラサイコや外来種のウィーピングラブグラスを株単位でGPSを用いて測位するのだが、ミソはそれを市民参加でやる点。目に見える急激な環境変化は内容も理由もわかりやすい。しかし、知らぬ間にカワラノギクが激減していたとか、ケンタッキーグラスやハリエンジュが自生していたなどという河川環境の変化は、いつ頃どのようにして起きたのかを、事後に把握するのは極めて困難である。例えば、環境省が実施している「水辺の国勢調査」による植生図(縮尺1/50,000)等ではこのような変化を把捉することはほとんど不可能である。そこで、日常的に河川に接している地元住民や活動団体の出番というわけである。

市民にGPSを貸し出し、個体を発見ししだいその場でGPSで測位。同じことを半年後、1年後にまたやると、植生の変化を正確に把握できる。河川敷のように洪水(攪乱)が頻発する環境下で1年前と同じ場所や個体を同定するのは至難の業であるが、GPSで測位しておけば問題はない。個体レベルの確認以外にも、例えば、オギやツルヨシの群落の際に沿ってGPSで測位しながら歩くと、GPSの描く軌跡によって極めて小さな群落の分布状態を地形図や空中写真上に落とすことも可能である。この調査方法によると、いかに植生図(環境省)がいい加減であり、また河川敷の環境変動が激しいかが手にとるようにわかってしまう。それよりなにより、市民参加によって人海戦術的に広範囲をしかも定期的に調査でき、行政では難しい長期間の環境モニタリングが可能となる。現時点での課題は、機器類の操作(例えばGPSからPCへのデータ転送や処理)を簡略化し、誰もが簡単に調査が行えるようにすることである。

30年ぶりの交通博物館

2005-02-11 | Japan
2005.02.11
・息子(3歳)と二人で万世橋の交通博物館に行く。小学生の時以来である。昨夏、ロンドンの交通博物館をはじめて訪れ(やはり息子も一緒だった)、その目で見ると東京の交通博物館はやはりかなりの影響を受けていると言わざるをえない。違うのは、東京には電車の運転シュミレーターが設置されていることか(むろん30年前にはなかった)。長蛇の列の順番待ちをし、やっと息子と二人で電車でゴー! 嬉しかったのは、おみやげコーナーの数ある鉄道車両のスケールモデルの中から蒸気機関車(D-51)を息子が選んだこと。「他にも新幹線とかカッコイイのがたくさんあるじゃないか」と問いただしたら、「これ(デゴイチ)がイイ」と息子。いいぞ。それでいい。

追記:特別展「東京のターミナル形成史」(2/8~5/29)はなかなか見応えがあった。

いいけど

2005-02-11 | Great Britain
2005.02.11
ついにやっちゃった。。。
チャールズ英皇太子再婚へ 愛人カミラさんと(河北新報社)

チャールズとカミラのツーショットにあきたらず、ダイアナとカミラのツーショットまでそろえたBBC(笑)。こういうのってすごくイギリスらしいよね。
In pictures: Charles and Camilla(BBC)

Q&Aもあるぞ。しょっぱなから「二人には結婚歴があるか?」という質問は笑えるじゃないか。それから「カミラはクイーンとは呼ばれるか?」とか。呼びたくないんだろうな、きっと。

ところで、BBC News UK版、England版、Wales版ではロイヤルウェディングの記事が掲載されているが、BBC Scotland、BBC Northern Irelandでは全く報道されていないところもこれまたUKのお国柄というほかない。

計画のミッション

2005-02-10 | Japan
2005.02.10
・N市公園緑地課の方がみえ、「緑の基本計画」の策定委員会の座長をおおせつかる。N市とは企画課関連のプロジェクトを通じてすでに交流がある。しかし、そのプロジェクトに対して僕は当初から納得できないものを感じていた。ところが、今日、公園緑地課の方々にお会いして、彼らも当該プロジェクトに対して僕と同様の感想をお持ちだということを知った。であれば、某プロジェクトの考え方に対しては、「緑の基本計画」としてはっきりとしたスタンスを示しておく必要があるだろう。首都圏に残された極めて貴重なジャパニーズ・パストラルをまもるために。

公園スクワッター

2005-02-09 | Japan
2005.02.08
高祖岩三郎「群集身体に花を咲かせよ!」現代思想、2005.vol.33-2、連載“ニューヨーク列伝”第三回、p.18-37 を読み始める。かなり面白そうな気配。著者は、スマトラ沖大地震を引き合いに出しながら、今後、「東南アジアや南アジアの多くの地域に、巨大な難民収容所が造られ、それが恒常化(半都市化)すると同時に、多くの都市は、ホームレス人口の洪水に直面することになるだろう。そしてそれが引き金となって、いわゆる「スクワッティング問題」が、改めて誰も否定出来ないような普遍的な意義を以って、世界中で浮上するのではないか。」と予測する。

続いて、西海岸出身のスクワット活動家アンダース・コールを引用して、「もし生命が正当化されるなら、スクワティングも正当化されるべきである。「私的所有」が人々から「基本的必需性」を奪いとる世界に於いて、避難所(shelter)や食料が欠如した人々は、その必需性を守ることによって、生き延びる権利を持っている。それが結果的に必需物質を盗むことを意味しても、である。十八世紀の哲学者ウイリアム・オギルビーによると、自然法によって、社会は(人間を含む)いかなる動物からもその避難場所権(the right to shelter)を奪うことは出来ない。」

こんなに明快にスクワティングを肯定してみせた言説というのははじめてだ。さらに、「「大地」とその暴力的収奪としての「領土」、そしてその私的所有化=商品化としての「不動産」、そしてそのような富の(超)多元的蓄積としての「都市空間」ーこの線のさらなる展開としての「棲むことをめぐる闘い」」等々、刺激的なフレーズが続く。そもそも、ヨーロッパ移民によるアメリカ大陸の領土化自体が、「まさに「スクワッター」が合法化され、家屋所有者となっていく過程と相同型であり」、だから、「スクワティングとは、アメリカの形成をその起源から反復し続ける行為」なのである。いいぞ。

おそらく、日本の都市でスクワティングが許容されるとしたら、今のところ公園をおいて他にないであろうと思う。それはまた、公園の公園性=ヴォイド(void)性ゆえの出来事であり、したがって公園が最も公園らしく機能している瞬間(とき)なのだ。公園がこのようなダイナミズムを失ってしまったら、いったい何が公園に残るというのだろうか。緑か? 生き物か? そんなんじゃない。。。ところで、公園スクワティングはホームレスだけに許された特権ではない。れっきとした合法的ユーザも本当はいつでもスクワティング可能なのだ。コミュニティによるスクワティングは、公園を生きた空間にする早道であると思う。ただし、そのときそこが「公園」と呼ばれるかどうかは保障の限りではない。