Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

公園スクワッター

2005-02-09 | Japan
2005.02.08
高祖岩三郎「群集身体に花を咲かせよ!」現代思想、2005.vol.33-2、連載“ニューヨーク列伝”第三回、p.18-37 を読み始める。かなり面白そうな気配。著者は、スマトラ沖大地震を引き合いに出しながら、今後、「東南アジアや南アジアの多くの地域に、巨大な難民収容所が造られ、それが恒常化(半都市化)すると同時に、多くの都市は、ホームレス人口の洪水に直面することになるだろう。そしてそれが引き金となって、いわゆる「スクワッティング問題」が、改めて誰も否定出来ないような普遍的な意義を以って、世界中で浮上するのではないか。」と予測する。

続いて、西海岸出身のスクワット活動家アンダース・コールを引用して、「もし生命が正当化されるなら、スクワティングも正当化されるべきである。「私的所有」が人々から「基本的必需性」を奪いとる世界に於いて、避難所(shelter)や食料が欠如した人々は、その必需性を守ることによって、生き延びる権利を持っている。それが結果的に必需物質を盗むことを意味しても、である。十八世紀の哲学者ウイリアム・オギルビーによると、自然法によって、社会は(人間を含む)いかなる動物からもその避難場所権(the right to shelter)を奪うことは出来ない。」

こんなに明快にスクワティングを肯定してみせた言説というのははじめてだ。さらに、「「大地」とその暴力的収奪としての「領土」、そしてその私的所有化=商品化としての「不動産」、そしてそのような富の(超)多元的蓄積としての「都市空間」ーこの線のさらなる展開としての「棲むことをめぐる闘い」」等々、刺激的なフレーズが続く。そもそも、ヨーロッパ移民によるアメリカ大陸の領土化自体が、「まさに「スクワッター」が合法化され、家屋所有者となっていく過程と相同型であり」、だから、「スクワティングとは、アメリカの形成をその起源から反復し続ける行為」なのである。いいぞ。

おそらく、日本の都市でスクワティングが許容されるとしたら、今のところ公園をおいて他にないであろうと思う。それはまた、公園の公園性=ヴォイド(void)性ゆえの出来事であり、したがって公園が最も公園らしく機能している瞬間(とき)なのだ。公園がこのようなダイナミズムを失ってしまったら、いったい何が公園に残るというのだろうか。緑か? 生き物か? そんなんじゃない。。。ところで、公園スクワティングはホームレスだけに許された特権ではない。れっきとした合法的ユーザも本当はいつでもスクワティング可能なのだ。コミュニティによるスクワティングは、公園を生きた空間にする早道であると思う。ただし、そのときそこが「公園」と呼ばれるかどうかは保障の限りではない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿