教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

横綱像、津波にも「残った」=「踏み出す勇気もらった」―宮城

2011年04月18日 11時48分18秒 | スポーツ
 『陸中海岸国立公園南端の景勝地、岩井崎(宮城県気仙沼市)にある地元出身の横綱の銅像が、東日本大震災の大津波にのまれながらも、流されずに残っている。近くの避難所で生活する佐藤満夫さん(52)は「前に一歩踏み出す勇気を与えられた」と話している。 この銅像は、江戸時代に身長164センチと小兵ながら6回の優勝を飾った第9代横綱秀ノ山雷五郎。津波の影響で岩井崎を囲む松林は傾き、周辺の民宿や建物は軒並み破壊されるなど大きな被害を受けた。今も近くの海水浴場は、がれきが積み上がったままだ。 像の周りの地面はえぐられ、台座の一部も欠けていが、海に向かって右手を差し出す横綱の姿は以前と変わらない。 同市観光課の担当者は「郷土の誇りである横綱を建てた当時の人たちの思いが残った。津波には負けないぞという心意気が伝わってくる」と語った。』時事通信 4月18日(月)5時49分配信
東日本大震災の大津波に第9代横綱秀ノ山雷五郎さんは勝ち越し、見事勝ち残りました。江戸時代に身長164センチと小兵ながら6回の優勝を飾ったのは土俵際の強さと思います。東北出身の力士の粘り強さです。 初代若乃花幹士さんも土俵際で負けそうでも負けず勝ちました。同じ東北地方の青森県弘前市青女子(あおなご)出身です。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれていました。戦後最軽量横綱でした。東北人の厳しい自然環境の冬を乗り越えて生きて来た事から生まれた気質と忍耐力を第9代横綱秀ノ山雷五郎の銅像が身を持って、横綱として宮城県気仙沼市皆さんに教えてくれたのではないでしょうか。
東北各地の被災者の皆さんと復興と『日本の国技の相撲』の大入り満員の復活を心から願っています。
下記 に秀ノ山雷五郎さんの銅像と来歴を御紹介致します。
秀ノ山雷五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
気仙沼市、岩井崎にある秀ノ山雷五郎の銅像

秀ノ山 雷五郎(ひでのやま らいごろう、1808年文化5年) - 1862年6月16日文久2年5月19日))は、陸奥国本吉郡(現在の宮城県気仙沼市)出身で秀の山部屋所属、松江藩(後に盛岡藩)お抱えの江戸時代に活躍した元大相撲力士、第9代横綱。本名は、橋本辰五郎(はしもと たつごろう)、旧姓は菊田。

来歴

(163.6cm)という歴代横綱の中では一番低い身長。体重は四十二(161.5kg)。小柄であったため入門当時は雑用ばかりやらされ稽古もつけてもらえなかったが、この逆境が猛烈な闘志を生んだ。北山辰五郎の四股名前相撲から取り、雲州藩のお抱えとなり天津風雲右衛門と改名。八代横綱不知火諾右エ門と同時入幕。盛岡南部候の抱えに転じて立神と改め天保12年閏正月大関昇進を飾る。1度関脇に下がって岩見潟丈右衛門と改名。天保15年10月再び大関となって3日目の土俵から秀ノ山を襲名した。弘化4年9月(弘化2年11月とも)、39歳(38歳とも)で横綱推挙。入門から横綱昇進まで19年かかった。優勝相当成績6回。幕内通算27場所112勝21敗33分2預96休、勝率.842。その姿は多くの浮世絵に残されている。肥満体で前や横に脆い弱点を猛稽古で補った。四股名のまま年寄となり、12代横綱陣幕久五郎ら多数の力士を育て権勢を揮ったがその余り自分の弟子を優遇するようになったため他の力士たちの不興を買い、「嘉永の紛擾」と呼ばれる相撲史初のストライキを引き起こしてしまった。

享年56。墓は東京都江東区の普門院と岩手県一関市願成寺にある。

関連項目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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若乃花幹士 (初代)
Wakanohana monogatari dohyou no oni poster.jpg
映画『若ノ花物語・土俵の鬼』(1956年)に出演した若乃花(上)
基礎情報
四股名若乃花幹士
本名花田 勝治
生年月日1928年3月16日
没年月日2010年9月1日(満82歳没)
出身青森県弘前市青女子
身長179cm
体重107kg
所属部屋二所ノ関部屋芝田山部屋花籠部屋
得意技左四つ、上手投げ、呼び戻し
成績
現在の番付引退
最高位第45代横綱
生涯戦歴593勝253敗70休4分
幕内戦歴546勝235敗4分55休
優勝10回(全勝1回)
殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回
データ
初土俵1946年11月場所
入幕1950年1月場所
引退1962年5月場所
引退後二子山部屋師匠
日本相撲協会第6代理事長
備考
2009年12月27日現在

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、大相撲力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋1953年花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。[1](歴代史上最軽量は栃木山の103㎏)

引退後二子山部屋を創設し、弟である大関初代貴ノ花、横綱・2代若乃花(現:間垣)、横綱・隆の里(現:鳴戸)、大関・若嶋津(現:松ヶ根)を育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。

第65代横綱・貴乃花、第66代横綱・3代若乃花は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門したが、幕下止まりで1997年に廃業している。

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