一昨年の卒業生のお母さん達が、異動した私を招待して宴席(まあ飲み会です)を設けてくださいました。
集まったのは、15名のお母さん、7人の教え子、それから私です。
卒業して、1年とちょっとしか経っていないのですが、みんな大きくなり、男子はたくましく、女子は例外なく(笑)ぽっちゃりしてきています。「部活なにしているの?」「彼氏できた?」女子のほうが積極的に男子に聞いています。どう答えていいのかもじもじしている男子に追い打ちをかけるように、「いるよねえ、きっと」「あっ、まあ・・・」「え、だれなの、名前は?」「う~ん、上の学年?それとも下?」「あっ、おんなじクラスなんだあ」「あ、その、まあ」
雰囲気が双方楽しんでいるようなので、笑いながら大人の方に移動。
一人一人のお母さんのところに行って話を伺いました。
私立は土曜日も授業を行っているようで、この日も学校帰り。「進学校」を謳っている学校だけに、「学習は公立と違ってたくさんむやっています」といったところか。私は働いている職員の休日はどうなのかが気になりましたが。
集まったうちの約半分が、1年のときに「つまずき」を経験したとのこと。
「ちょっとしたいじめに遭って、登校を渋っていた時期がありました」
「担任の先生と合わなくて・・・細かく注意されることに嫌気がさしたようで。朝、いつもお腹が痛くなってました」
「通知表で1をもらって・・・高校に行けなくなってしまうと言われショックでした」
「体育祭の練習で、何段かのピラミッドの上から転落して背中を打ちました。外傷はないのですが、まだ学校には行けない状態です。学校は<これはうちの学校の伝統で、今まで事故などありませんでした>と取り合ってくれない。つまり落ちた我が子がいけないかのような口ぶりでした。マットも敷いていない練習ですから、落ち度はあるのに・・・」
我が子の不平・不満は、最終的にお母さんが一手に引き受けているのでしょう。
話をし始めると、止まらないくらい、ずっと私に報告してくれます。
私が教師となってから思っていることなのですが、父親の存在は「我が子の教育」「夫婦間の会話」の視点で見ると、非常に小さいように思います。しかも、この構図はなかなか変化していない。
こどもたちは、これからまだまだ「社会の荒波」を受けて生きていくのでしょう。
中学校では、こどもへの評価が、通知表の合計や「○○したら◎点加点」のような「数値」に収斂されていくことで、こどもたちが萎縮し、動揺し、見切りをつけてしまうことが気がかりです。
「社会に出ればもっと厳しいのだから、このくらいの試練は、いい勉強だと思って乗り越えなければならない」
といった言葉をよく聞きます。
一面真理なのでしょうが、「社会の厳しさ」は絶対の前提ではなく、私たち大人が、一人一人の個性や培ってきた力を、きめ細かくすくい取ってあげられる世の中にしていかなければいけないのでは・・・とも思っています。
競争社会は、「できる」子にとっても、もちろん「できない」子にとっても、辛いものです。
集まったのは、15名のお母さん、7人の教え子、それから私です。
卒業して、1年とちょっとしか経っていないのですが、みんな大きくなり、男子はたくましく、女子は例外なく(笑)ぽっちゃりしてきています。「部活なにしているの?」「彼氏できた?」女子のほうが積極的に男子に聞いています。どう答えていいのかもじもじしている男子に追い打ちをかけるように、「いるよねえ、きっと」「あっ、まあ・・・」「え、だれなの、名前は?」「う~ん、上の学年?それとも下?」「あっ、おんなじクラスなんだあ」「あ、その、まあ」
雰囲気が双方楽しんでいるようなので、笑いながら大人の方に移動。
一人一人のお母さんのところに行って話を伺いました。
私立は土曜日も授業を行っているようで、この日も学校帰り。「進学校」を謳っている学校だけに、「学習は公立と違ってたくさんむやっています」といったところか。私は働いている職員の休日はどうなのかが気になりましたが。
集まったうちの約半分が、1年のときに「つまずき」を経験したとのこと。
「ちょっとしたいじめに遭って、登校を渋っていた時期がありました」
「担任の先生と合わなくて・・・細かく注意されることに嫌気がさしたようで。朝、いつもお腹が痛くなってました」
「通知表で1をもらって・・・高校に行けなくなってしまうと言われショックでした」
「体育祭の練習で、何段かのピラミッドの上から転落して背中を打ちました。外傷はないのですが、まだ学校には行けない状態です。学校は<これはうちの学校の伝統で、今まで事故などありませんでした>と取り合ってくれない。つまり落ちた我が子がいけないかのような口ぶりでした。マットも敷いていない練習ですから、落ち度はあるのに・・・」
我が子の不平・不満は、最終的にお母さんが一手に引き受けているのでしょう。
話をし始めると、止まらないくらい、ずっと私に報告してくれます。
私が教師となってから思っていることなのですが、父親の存在は「我が子の教育」「夫婦間の会話」の視点で見ると、非常に小さいように思います。しかも、この構図はなかなか変化していない。
こどもたちは、これからまだまだ「社会の荒波」を受けて生きていくのでしょう。
中学校では、こどもへの評価が、通知表の合計や「○○したら◎点加点」のような「数値」に収斂されていくことで、こどもたちが萎縮し、動揺し、見切りをつけてしまうことが気がかりです。
「社会に出ればもっと厳しいのだから、このくらいの試練は、いい勉強だと思って乗り越えなければならない」
といった言葉をよく聞きます。
一面真理なのでしょうが、「社会の厳しさ」は絶対の前提ではなく、私たち大人が、一人一人の個性や培ってきた力を、きめ細かくすくい取ってあげられる世の中にしていかなければいけないのでは・・・とも思っています。
競争社会は、「できる」子にとっても、もちろん「できない」子にとっても、辛いものです。