壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

がましき

2011年08月16日 00時01分23秒 | Weblog
        花火見えて湊がましき家百戸     蕪 村

 「がましき」は、実質はそうでないものが、一見そうであるかのように見えることをいう。
 たとえば同じく蕪村の句の、
        虫売のかごとがましき朝寝かな        
 も、虫売の朝寝しているのが、毎晩遅くまで商売するのでやりきれないと、不平のあまりであるかのように見える、という意味である。
        朝露や村千軒の市の音     蕪 村
 の句があるのに比べれば、「家百戸」がいかにも貧素なであることが明らかである。それなのに、一つの町としてのまとまった行事を思わす花火が、その空へ頻発することによって、「」も「湊(みなと)」であるかのような景観を呈したのである。
 海上から、島、または岬近いを遠望した場合であろう。すぐれた場面をとらえていながら、説明に傾き、リズムの美が伴わなかったうらみがある。

 季語は「花火」で秋。

    「海岸に臨んで小さながある。ほんの百戸にも足らない貧しさだなと
     思いながら眺めていると、そこから打ち上げられるのであろう、花火が
     しきりにその真上の空で、華やかに開く。こうなると、このも、次第
     にひとかどの船着場じみた感を帯びてきはじめる」


      これ以上もう読めぬ本 終戦日     季 己

盂蘭盆

2011年08月15日 00時14分36秒 | Weblog
        御仏はさびしき盆とおぼすらん     一 茶

 ――盂蘭盆は、梵語ウラムバナ(逆さ吊りの苦しみの意)とも、また、イランの語系で、霊魂の意のウルバンとする説もある。
 盂蘭盆経の目連説話によると、目連尊者が、悪道に堕ちている母の苦しみを救うため、釈尊の指導によって、衆僧を集めて供養したのが起こりであるという。
 中国にならって、日本でも宮中で古くから法要が行なわれ、民間にも年中行事として定着した。
 「なき魂の来ます日」として、かずかずの行事があり、句にもされてきた。
 仏事という特異なフィルターを透かしてみる一連の行事の、人くささ・人なつかしさが俳句にぴったり合っている。
 ながく陰暦七月十五日・満月の頃であったが、今では太陽暦の八月十五日を中心として行なうことが多い。都会では、太陽暦の七月十五日に行なうようである。
 我が家は浄土真宗なので、わたし自身は盂蘭盆といっても何もしない。浄土真宗には「霊魂」という考えはなく、墓地も「霊園」ではなく、「浄園」などと称している。
 真宗では、亡くなった人は老若男女、貧富の差もなく、誰でも阿弥陀さまのもとへ成仏できる。したがって、現世の人間は故人を供養する必要もなく、また供養できるほど人間は偉くない。「おかげさま」の感謝の心で日々を切に生きよ、というのだ。
 ただ、これらはわたしの勝手な解釈で、お寺さんの実情は知らない。


      耳とほき母あはあはと盂蘭盆会     季 己

 

かはほり

2011年08月14日 00時19分22秒 | Weblog
        かはほりやむかひの女房こちを見る     蕪 村

 ある偶然の機会に、意識せずしてひらめく色気ともいえない色気、恋情ともいえない恋情である。夏の黄昏時(たそがれどき)、独得の一種妖しい物悲しさと、物恋しさの気分が一句をこめている。

 人妻から感得された魅力を主題としたものには、
        酒を煮る家の女房ちよとほれた     蕪 村
 がある。これは、
    「酒造業者の家で、腐敗を防ぐために新酒に火を通している最中で、
     主人から雇い人の末に至るまでが勢い立っている。平生は奥深く
     住んでいる女房までがちらちらと人前へ姿を見せる。その活気の
     ある内儀ぶりが、なかなか凛としたなかに色気があって、よそ目
     にも忘れがたいものがあった」
 という意味である。煮酒の行事の中のこととて、「ちよとほれた」もそれにふさわしく、気軽に興じているような調子である。
 それに対して、この「かはほり」の句の方は、もっとしみじみとはしているが、同じく「こちを見る」という俗語の活用によって、執拗さを巧みに逃れている。
 この二句を関連させて考えれば、この「かはほり」の句の女房も、やはり町女房と解せられる。蕪村は太祇などと同様に、人事を好んで材料とし、この二句のように、人妻の魅力さえ感興の対象にしている。しかし、決して太祇のように作品の上に人肌の香を残すようなことはしていない。
 この句も、「女房」という語を、他の適当な語に置き換えれば、このままで、少年詩の夏の黄昏の感傷に通じる。

 季語は「かはほり」で夏。「かはほり(蝙蝠)」は、コウモリの古い語形。

    「町には黄昏の闇が下りてしまったが、家々はまだ全部に灯が入っては
     いない。蝙蝠が時々空から舞い下りて、軒下に閃いては消えてゆく。
     それに誘われてふと目をやると、むかいの家の薄闇の中に、その家の
     女房がたまたま立っていて、これもふとこちらへ振り向いた気配であ
     った。ほのかに白く顔の輪郭だけが浮かび出ていて、何か一抹の艶や
     かな気分が胸中をかすめて過ぎるような思いがした」


      片蔭の羅漢三人酒酌んで     季 己

露ながら

2011年08月13日 00時08分06秒 | Weblog
          秋夜閑窓のもとに指を屈して、世になき友を算ふ
        とうろうを三たびかゝげぬ露ながら     蕪 村  

 平坦に叙していながら、次第に友に先立たれてゆく中年以後の年齢の人の哀情がにじみ出ている。
 「露ながら」は、燈籠が夜気に潤う(高燈籠であれば、杉丸太の先端に吊るのでなおさらである)のを表すと同時に、主人公の哀傷の気持そのものを具象化した言葉なのである。そのことをはっきりとさせておかないと、〈以前ある友の盆に用いて露に濡れていたんだ燈籠が保存してあったのを今また用いる〉などという解釈が生じたりする。

 「三たび」は厳密な数字ではない。「はや幾たびか」の気持を印象強く言ったものである。
 「と」と「う」の音を重ねて静かに詠い出して、「みた」「かゝぬ」「つゆなら」と、濁音を重ねて詠い終えた表現は、この句の内容にふさわしい。

 季語は「とうろう」で秋。「とうろう」は、盂蘭盆に掲げる切子燈籠のこと。

    「今年もある友の新盆(あらぼん)なので、その魂を迎え慰めるために
     燈籠を軒に掲げ吊った。夜が更けるとともに、それは灯ったままで露
     けくなってくるが、追憶は尽きない。この友に限ったことではない、
     考えてみれば、こうして亡き友のために燈籠を掲げることも、はや幾
     たびになるだろうか」


      爽やかに友さくさくと墨をする     季 己

夕涼み

2011年08月12日 00時07分54秒 | Weblog
          四条河原涼み        
        川風や薄柿着たる夕涼み     芭 蕉

 京の四条河原の夕涼みを詠じたもの。
 『泊船集』などには、次の前書がある。
          四条の川原涼みとて、夕月夜(ゆうづくよ)のころより
         有明過ぐる比(ころ)まで、川中に床を並べて、夜すがら
         酒飲み物食ひ遊ぶ。女は帯の結び目いかめしく、男は
         羽織長う着なして、法師・老人ともに交り、桶屋・鍛冶屋
         の弟子子(でしご)まで、暇(いとま)得顔に歌ひののしる。
         さすがに都のけしきなるべし。
 句の成立事情から考えて、この前書は、やや後の執筆であろう。

 『三冊子』に、「すずみのいひやう少し心得て仕たり」というのは、「薄柿着たる」という感じが、夕涼みの感じにぴったりしているところをさすのであろう。ただし、薄柿を着ているのが、多くの人々か、芭蕉もしくは芭蕉たちかで解釈に差が出てくる。

 「薄柿」は薄柿色の意。帷子(かたびら)などの染色で、淡い渋色。

 季語は「夕涼み」で夏。夏の情を薄柿でよくとらえている。「四条河原涼み」は、陰暦六月七日から十八日の間行なわれた。

    「名にし負うこの四条河原の夕涼みは、貴賤・僧俗・老若男女が集まって、
     まことに賑わしく華やかである。なかでも都にふさわしく、薄柿色の帷子
     を品よく着こなしているのは、見た目にまことに涼しく、その桟敷(さじ
     き)には川風が、格別涼しく吹きとおるように眺めやられることだ」


      夕涼み一葉かたる留学生     季 己


 ――また大失敗。昨年九月に書いたものを、今日また書いてしまったのだ。生来怠け者のため、一切記録をとっていないのだ。そう「記録」より「記憶」などとうそぶいて。
 ところが、その「記憶」が年々怪しくなってきた。覚えることは直ぐ覚えられるのだが、思い出す力が非常に弱くなってきている。
 今日も書き終えてから読み直しているうちに、以前書いたことがあるのでは、という気がしてきた。そこで、昨年八月と九月を全部チェックしたら、九月に書いてあったという次第。この他にダブって書いたと思われるものが、四つ五つ見つかったが、こちらはそのままでお許し願いたい。
 ダブりに気を遣うことは、精神的に非常にしんどく、チェックする時間も馬鹿にならない。
 ということで、今後はダブりを気にせず、気楽に書いていくつもりである。ダブりがあったら、ボケが進んでいるな、と思ってお許し願いたい。感謝!

刺(とげ)と針(はり)

2011年08月11日 00時08分25秒 | Weblog
        白露や茨の刺にひとつづつ     蕪 村

 蕪村の作品中、何の先入観なしに直接、自然の気息に触れて、物心一如とでもいうべき境地を具現しているものとしては、
        蚊の声す忍冬の花の散るたびに
 が頂点を示していると思う。(拙ブログ 2011.7.30 参照)
 しかし、ほかにもなお、自然の生き生きとした、または繊細な美しさをほとんど客観的に作為なしにとらえ得た句が四句ある。掲句はその中の一つである。
 もっとも、この句は、ある本には中七が「茨のはりに」となっている。茨の刺を針のごとく鋭いと説明しているのであって、これでは白露のやさしさとの対照を強化しようとする企図があらわとなり、かえって全体の真実味が希薄となってくる。

 季語は「露」で秋。露の澄み輝いているのを白露という。

    「茨に近づいてみると、すべての刺の先に、露が一つずつ宿っている。
     澄みきった露の玉は、鋭い刺の姿をまどかに己のうちに含み、刺の
     方は穏やかにじっと露の玉を支えている」


      ひたき来て夕日しばらく藪を透く     季 己

実ばえ

2011年08月10日 00時02分27秒 | Weblog
          神 前
        この松の実ばえせし代や神の秋     芭 蕉

 鹿島神宮の神前の、極めて厳粛な感じを、はるかなる時間をさかのぼる思いの中で、つかみ取ろうとした句である。貞享四年(1687)、「鹿島紀行」での作。

 「実ばえせし代」は、実生えしたばかりの時代ということで、遠い神代の意でいったもの。また、「実生(ば)え」は、「実生(みしょう)」のことで、種から芽を出して生長すること、またそうした植物をいう。
 「神の秋」とは、厳かな神前の秋の様子をいったもの。

 季語は「神の秋」で秋。ただし、当時は、季語は「秋」で雑の部に分類している。芭蕉自身は、「神の秋」でひとまとまりの季語として用いたのではなかろうか。

    「鹿島神宮の神前にぬかずくと、うっそうたる松の大樹がそびえて、
     静寂尊厳、極まりない秋の感じだ。この松が実生えしたばかりの、
     はるかに遠い神代のころが、この秋気の中におのずと感じられる」


      秋風やペンもてば気の新たなり     季 己

芙蓉

2011年08月09日 00時00分13秒 | Weblog
        枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな     芭 蕉

 この句、芭蕉が描いた芙蓉に、芭蕉自身が画賛を入れたものらしい。
 画賛であるから、描かれている芙蓉に動きを加えた発想である。遊女の画賛という所伝もあるが、それでは思わせぶりな句になってしまう。

 季語は「芙蓉」で秋。「芙蓉」は「木芙蓉」で、葉に短い毛が密生し、茎は一~二メートルくらいの落葉灌木。秋に入ると紅、淡紅、白などの美しい花をつける。朝咲いて夕方はしぼむ。画賛としては、画中の芙蓉にそれまでの体験を呼びさまして加えた生かし方である。

    「芙蓉は下の方から咲きはじめて、しだいに高いところに及ぶ。
     朝咲いて、夕方しぼむので、日ごとに変わった感じがする。
     その枝ぶりも、日に日に変化するようで、実におもしろい」


      日の渡るところ風あり白芙蓉     季 己

今朝の秋

2011年08月08日 00時03分43秒 | Weblog
        硝子の魚おどろきぬ今朝の秋     蕪 村

 「硝子の魚」は、「びいどろのうお」と読む。
 「おどろきぬ」でおわかりのように、古歌の、
        秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
          風の音にぞ おどろかれぬる
 を踏んでいる。
 「今朝の秋」は、立秋の朝をいう。「立秋」は、おおむね八月八日。七日に当たる年もある。――暑極まって涼気きざす――という時候なので、気温はまだ絶頂にある。しかし、身のほとりにはすでに「秋立つ」を感じさせるものが、ひたひたと寄せて来ているのである。

 「おどろきぬ」は、古歌からの思いつきに相違ないが、内容まで「風におどろく」などと、狭く限定してかかる必要はない。天象・気候の微妙な変化を意識した実感を、「硝子の魚」を借りて、誇張しつつ具体化したのである。この具体化がポイント。

 季語は「今朝の秋」で秋。

    「立秋の朝、暦の上だけでなく、さすがに大気までどこか涼しい感じが
     するようである。魚を飼ってきた硝子の器も、その中の水の色も、急
     に冴えわたってきて、魚だけがいささか勝手が違ったのに、大きな目
     をして驚いているように見える」


      榛の木にみどり落ちつき秋立ちぬ     季 己

夜のはじめ

2011年08月07日 00時04分05秒 | Weblog
        七夕や秋を定むる夜のはじめ     芭 蕉

 『赤冊子草稿』によると、野童亭での吟となっている。そうだとすれば、この家にあって、七夕の夜の気分を、十分に味わい得た、という挨拶がこめられていることになる。
 この句は、七夕についての古来の情趣から一歩出て、七夕の季節の感じに直接ふみこんでゆき、昼はまだ残暑がきびしいが、夜に入ると一段とはっきり定まってくる秋意を、確かに把握した発想である。
 芭蕉は、「はじめの夜」「夜のはじめ」の二案について迷っていた。『三冊子』によれば、
        「折々吟じ調べて、数日の後に」「究(きわま)り侍る」
 ということであった。この態度は、物の微に穿(うが)ち入る芭蕉らしさを見てとるべき好資料だと思う。

 「秋を定むる」は、本格的な秋の気分を、はっきり感じさせるの意。

 季語は「七夕」で秋。「七夕」というものの季節感をよく見定めている。

    「七夕の夜は、天の川も一段と冴えて、秋になったことをはっきりと
     感じさせるその第一夜である」


      夜の秋の数珠お不動へ戻しけり     季 己 

『去来抄』1 続・蓬莱に

2011年08月06日 00時00分37秒 | Weblog
 ――「都からの便りとも、故郷からの便りともなっておらず、伊勢からの便りとありますのは、元日に蓬莱を飾るという風習が今ふうでなく、いかにも古式にのっとったものなので、そぞろ遠い神代の昔を思い出され、古代の神が鎮まります伊勢からの初便りを、早く聞きたいものだと、旅心が早くも心を動かし始めた気持ちを詠まれたものと拝察いたします」
と、申し上げ、追伸として
 「元日の床の間の古式ゆかしい蓬萊飾に向かって、静かに坐していると、そぞろ神代の昔、神々しい伊勢神宮の元朝のさまが思いやられて、伊勢からの淑気に満ちた、旅への誘いの初便りが早く聞きたくなって、そわそわしてくる」
という句意かと存じます、と書き添えた。

 間をおかずして、嵯峨野・落柿舎(らくししゃ)の去来のもとへ、師から返事が来た。
 「でかしたぞ去来。あなたの理解するとおりです。わたしが見込んだ甲斐がありました。あなたの上達ぶりには、たいへん驚きました。
 ここで一つ、あなたに教えておきたいことがあります。
 今日、この元日にあたり、伊勢の神々しい神域のさまを想い出し、一方では、眼前の蓬萊飾にある柑子から、慈鎮和尚の
        このごろは 伊勢に知る人 おとづれて
          便りうれしき 花柑子かな                 

を思い起こし、その歌の“便り”をふまえ、さらに歳旦ゆえ、“初”の一字を加えて詠んでみたのが、この句なのです。まあ、正直に言えば、この“初”のところが、いささか得意なのですが。
 いずれにしても、伊勢への旅に心を動かされる、わたしの思いの表れである、というところまで踏み込んで理解してくれたのは、あなただけです。よくぞ解ってくれました。非常にうれしく思います。
 この句のように、古歌などをとる場合は、古歌そのままではなく、一ひねりして、別の趣の世界を作りあげることが大切です。ここのところを、よくよく理解してください。ご健吟を祈ります」

 うれしかった。と同時に、去来は恥じた。
 慈鎮和尚の「このごろは」の歌は、当時よく知られていた。もちろん、去来も知っていた。知ってはいたけれど、気づかなかったのだ。
 「このごろは伊勢に知る人おとづれて 便りうれしき花柑子かな」から、「伊勢便り」を導き、歳旦ゆえ、歌にはない「初」の字を冠して、「伊勢の初便り」とし、その「初便り」によって、清浄で神々しい伊勢神宮の元日のさまを知りたいという、歳旦の気持を表したことを知らされたのだ。
 自分の気づかなかったことを教えられ、去来はいっそう深い理解に達した。

 “蓬莱”という眼前の具体的対象と、遠く離れた伊勢神宮の神域の心象とを取り合わせた、着想の妙。
 また“元日に”といわずに、“蓬莱に”と、具体的なものに己の実感を語らせたところが、この句の生命であることも、去来は覚った。
 やさしい柔らかな光が、去来をつつんだ。


      花ござの母九十の深ねむり     季 己

 

『去来抄』1 蓬莱に

2011年08月05日 00時00分10秒 | Weblog
        蓬莱に聞かばや伊勢の初便り     芭 蕉


 ――すべては、靜けさにもどることだ。深い淵のように。
 去来はそう思い、心を空(うつ)ろにした。
 見えなかったものが見えてきた。
 元禄七年(1694)、師の芭蕉が亡くなる八ヶ月ほど前の、春のことである。

 この年、芭蕉は、歳旦吟として、
        蓬莱に聞かばや伊勢の初便り
と詠んだ。
 この句を含め『歳旦帳』として、出版するつもりであった。
 ところが、弟子たちをはじめ、世間の評判が今ひとつなのだ。
 芭蕉は、「あの去来ならわかるであろう」と思い、早速、書状をしたためた。京都・嵯峨野の去来のもとへ。
 「わたしの歳旦吟については、さまざまな批評があります。あなたはどのように解釈しますか。ぜひ、あなたの意見が聞きたいものです」と。

 深川芭蕉庵の、師からの手紙に、去来はしばらく考えた。
 「なぜ、故郷ではなく伊勢なのだろう。わからない」
 蓬莱と伊勢との関係がわからないので、意味がはっきりしないのである。
 さらに、“蓬莱に”が、「蓬莱に向かって」なのか、「蓬莱の飾られたところで」なのか、それとも「蓬莱に触発されて」の意なのか、迷っているのだ。
 “に”は、かなり微妙な味わいを含んでいることは、わかっていた。

 去来は、心を静めて、坐した。――すべては、静けさにもどることだ……
 そうして、「蓬莱」からくる連想をたどっていった。

 「蓬莱」とは、三方にウラジロ・昆布などを敷き、その上に、米・柑子・伊勢海老・数の子・ごまめ・のしアワビ・勝栗・野老(ところ)・串柿などを積み重ねて、蓬莱山をかたどった縁起物のことである。
 むかし新年に、床の間に飾る風習があった。家族で食べる真似をし、年賀の客にもすすめ、客もまた食べる仕種をする。豊作や長寿を祈願したものであろう。

 「蓬莱に聞かばや…、ほうらいに…」とつぶやきながら、去来は、
 古式ゆかしい蓬萊飾 → 神代の神々しさ → 伊勢神宮の清浄な神域 → 待たれる伊勢からの初便り
と、連想を広げていった。
 「芭蕉先生が、このまえ伊勢に行かれたのは、
        蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ
と詠まれたときだから、元禄二年。足かけ六年になるのか。
 そうか、先生はまた“そぞろ神”に憑(つ)かれて、旅に出たくなったのだ。“聞かばや”の“ばや”は、先生の気負いこんだ、一途な願望の表れに違いない」
 そう確信した去来は、すぐさま返事を書いた。深川芭蕉庵の師のもとへ。 (つづく)


      夕立の棒に堪へたる雀かな     季 己

アヽ楽や

2011年08月04日 00時37分37秒 | Weblog
        蚊屋の内にほたる放してアヽ楽や     蕪 村

 蕪村には、貧しい暮らしにありながら、画俳両道に悠々と遊ぶ、自足の気持を述べたと推測される句がかなりある。
        水の粉のきのふにつきぬ草の庵
 もその一例である。水の粉(小麦を軽く煎って引いて粉としたもの。砂糖を加え水に溶いて飲む)さえ、もう昨日で全部尽きてしまったことを述べながら、全体の気分はいかにも明朗である。

 口語を使ったものは、芭蕉の作品にも相当数あるが、この句ほどに露骨な日常語を進んで採り入れたものはない。
 「アヽ楽や」は、軽妙さと共に、市井生活の気分を出すのに成功している。
 蕪村は、「俗語を用いて俗に堕ちないことが俳諧の要訣だ」と弟子の召波に説いている。掲句などその精神の端的な現れである。
 初案では下五が「アラ楽や」であったのを、より自然な「アヽ楽や」に直している。
 この句には、蕪村の興味本位の俳画に見受ける線条と同一の線条が躍動している。

 季語は「蚊屋(蚊帳)」で夏。

    「灯りもつけられない我が家であるが、折から手に入れた何匹かの螢を
     思いつきで蚊帳の中へ放した。螢はもとより古蚊帳さえも青々と照ら
     されて美しい。貧しい生活ながら心にかかる苦労はない。敷いてある
     蒲団の上へ、そのまま転がって手足を思う存分に伸ばして、思わず口
     をついて出たのが、〈アヽ楽や〉」


      蟻地獄ふみつけ癌のはなしかな     季 己



 ――現在、抗癌剤治療を中断している。また中断と同時に、Mクリニック銀座院長のM先生と、K大学校のS先生のご指導の下、代替療法を実践している。今日でちょうど2週間になるが、恐いくらいに日々、体調が元気な頃に戻ってゆくような気がする。風前の灯火のロウソクの、最後の一輝きではないかと、逆に心配になるほど。
 S先生は、「私の言うとおりにFを三ヶ月飲めば、あなたは必ず元気になる」とおっしゃってくれたが、2週間でこの快調さ、三ヶ月後が楽しみである。
 ということで、近々、『去来抄』を書き始めるつもりで、今また読み直して、頭の整理をしている。たくさんの方々の応援のお陰で体調も回復し、少しはましなものが書けるような気がする。
 ありがとうございます。感謝申し上げます!
 

お夏清十郎

2011年08月03日 00時08分06秒 | Weblog
        絵団扇のそれも清十郎にお夏かな     蕪 村

 「お夏清十郎」――姫路のはたごや、但馬屋の手代 清十郎が、主家の娘お夏と通じ、しめしあわせて大阪に奔(はし)ったが、途中で追っ手に捕らえられ、清十郎は、主人の娘かどわかしの罪で、斬首に処せられた。当時、世間で評判になった恋愛事件で、西鶴は「好色五人女」、近松は「五十年忌歌念仏」中に脚色し、清十郎の死後、お夏は狂乱の姿になることになっている。それらの小説や芝居、または「向こう通るは清十郎じゃないか、笠がよう似た菅笠が」の俗謡で、一般に広く知れ渡っていた。なお、清十郎は「せじゅうろう」と詰めて読む。

 この句の場合、「清十郎」はさらに詰めて「せじゅろ」と読みたいが、いかがなものか。
 「絵団扇の」は、「絵が描いてある団扇で」、「それも」は、「ことに、しかも」、清十郎にお夏かな」は、「清十郎にお夏の絵が描いてある」ということである。解説すれば、各部分はそれぞれ以上のような意味を表しているのである。
 「ただでさえ艶麗な絵団扇であるが、この一本は、特にこういう題材を選んであるので、なおさらのこと艶麗である」という意味で、一句全体としてはしつこくなく、一本の絵団扇に対する感興をさらりと述べただけのものである。

 掲句、従来の解釈はさまざまある。表現の名手蕪村の作品は、その音韻の伝えるところに忠実に素直に従ってゆけば、決してわれわれを意味の上でのはなはだしい混乱、曖昧に陥れることはないと考えてよい。

 季語は「団扇」で夏。

    「ただでさえ美しい絵団扇。ことにこの一本は、よく見ればあの
     《清十郎殺さばお夏も殺せ》と唄われたその二人の、寄りつ寄
     られつの艶な姿が描いてあって、いかにも派手な絵団扇である」


      凌霄花たとへば癌の病ひかな     季 己

二人して

2011年08月02日 00時05分06秒 | Weblog
        二人してむすべば濁る清水哉     蕪 村

 この句は、のどが渇ききった二人を同時に満足させるほどには、水の量が十分ではなかった、ことを示している。
 しかし、そうかといって、「一人が飲むだけの分量は十分にあり、さてその後で、次の一人が飲もうとすると、底につかえて濁る」と解する説には従えない。そこまで詮索(せんさく)しては理屈になるからだ。
 それに、「むすべば」は「むすんだところが」の意であって、「むすんだとしたならば」の意ではない。ちなみに、「むすぶ」は、水を手に掬(すく)って飲むことである。
 また、「二人して」の語も、ふつう二人の者が同時に一つの事にかかわる共同動作を表す。
 言うまでもなく、掲句の裏に処世訓が含まれているとする説など、この句ともともと何の関係もないものである。

 季語は「清水」で夏。「清水」は、自然に湧く澄明な水。たたえているもの、流れているもの両方をいう。

    「底が浅く、ほんのわずか、たたえられている清水である。遠路、暑い中を
     たどってきてやっとこれを見つけた二人。前後の見境もなく、二人同時に
     そろって手に掬って飲んだ。一、二杯飲んでから気がつくと、もう底から
     濁りが立って、これ以上飲めないようになっている」


      土用丑 代替治療効いてきて     季 己