壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』2 続・辛崎の

2011年08月19日 00時02分43秒 | Weblog
 この伏見の某有名俳人と其角の論争は、其角『雑談集』巻頭の話であるが、其角も芭蕉の真意は、よくわかっていないようである。
 この「にて」は、「ただ花より松の朧にて面白かりしのみなり」の「にて」であり、おのずから「切字」の役割を負っていると見なされる。
 つまり、「切字に用ふるときは、四十八字皆切字なり。用ひざるときは、一字も切字なし」の範疇における「切字」の「にて」ということである。

 次は、芭蕉の門人で出羽の国で染物業を営む呂丸と、去来との会話である。呂丸は『奥の細道』に出てくる図司左吉が、この人である。
 呂丸は、
 「にて留めのことは、すでに其角の『雑談集』の説明通りだと思う。ただ、この句は発句ではなく、第三の句ではないでしょうか。伏見の作者は、どうしてこれを発句と見たのだろうか」
 と、分かった風なことをいった。
 去来は、呂丸は新しい門人なので、何にも分かってはいないと思ったが、
 「これは即興感偶、つまり、その場に臨んで興を感じ、すぐさま句になったもので、発句であることは間違いありません。連句の第三は、前句に応じて考えをめぐらして作るものであります。もし、この発句が即興でなく、頭の中で考えて作ったのであるとすれば、この句の価値は、二流に成り下がるでありましょう」
 と言った。

 連句の第三は、発句・脇句を受けてこれを転ずる場である。だから、実感ではなく、頭の中で考えて作ることになる。
 つまり、第三は、脇句の世界を転じて、格調高く、伸び伸びと安らかに作るべきとされている。そういう格式を考えて作らねばならず、即興感偶というわけにはゆかない、というのである。
 その場で心に感じたことを、そのまま詠むことを即興感偶という。即興は、折にふれてものに感じたときの面白み、感偶は、正しくは偶感で、ふと起こった感想の意である。

 次の場面は、元禄七年の夏、芭蕉が去来の落柿舎に滞在中のことである。
 芭蕉は、またも去来に教え諭すように、
 「其角やお前さんの言うのは、みな理屈というものだ。わたしは、ただ、朧のために桜の花よりも松の方が、もっとぼんやりと見えたのを、おもしろいと感じて句にしたまでだ」
 と、言われた。

 ――これが、芭蕉先生の結論である。つまり、本来くっきり見えるはずの松が、淡い桜の花よりも、もっと朦朧(もうろう)としている意外性の美を発見したのだ。
 芭蕉の眼前にあるのは、自然が演出したアイロニー、すなわち意外性の美である。これが、句を成り立たせているポエジーの核心。一般の予想や常識的な見方の裏をかき、新鮮な世界を開いて見せるのがアイロニーの詩法だが、これは俳句に限らず、詩本来の手法と言ってよい。

 発句は、理屈ではない。芭蕉が、「ただ眼前なるは」と言っているように、
     眼前のものに、意外性の美を発見し、新鮮な世界を開き、
     自分の実感をよりどころにして言葉を探り、
     自分の感動のまったき表現を、
     五・七・五のリズムにのせ、
     季節を表す言葉「季語」を入れ、
     切字(きれ)が不可欠
 なものを、「発句」というのである。
 これは現在の「俳句」にも十二分に通じることである。これらのことをしっかりと腹の底におさめつつも、これらにとらわれることなく、自由な心で、楽しく句を詠めばいいのである。
 初心のうちは、知識や礼儀作法をしっかり覚えて守る。けれども、上達したなら、蓄えたものを忘れてゆくことは、もっと大切。
 理屈はどんどん忘れていって、空っぽの状態になったとき、その人は、内なる自由を獲得できる。つまり、変幻自在に独創的な句が詠めるということだ。


      日のさかり歩いて谷中根津あたり     季 己