花火見えて湊がましき家百戸 蕪 村
「がましき」は、実質はそうでないものが、一見そうであるかのように見えることをいう。
たとえば同じく蕪村の句の、
虫売のかごとがましき朝寝かな
も、虫売の朝寝しているのが、毎晩遅くまで商売するのでやりきれないと、不平のあまりであるかのように見える、という意味である。
朝露や村千軒の市の音 蕪 村
の句があるのに比べれば、「家百戸」がいかにも貧素なであることが明らかである。それなのに、一つの町としてのまとまった行事を思わす花火が、その空へ頻発することによって、「」も「湊(みなと)」であるかのような景観を呈したのである。
海上から、島、または岬近いを遠望した場合であろう。すぐれた場面をとらえていながら、説明に傾き、リズムの美が伴わなかったうらみがある。
季語は「花火」で秋。
「海岸に臨んで小さながある。ほんの百戸にも足らない貧しさだなと
思いながら眺めていると、そこから打ち上げられるのであろう、花火が
しきりにその真上の空で、華やかに開く。こうなると、このも、次第
にひとかどの船着場じみた感を帯びてきはじめる」
これ以上もう読めぬ本 終戦日 季 己
「がましき」は、実質はそうでないものが、一見そうであるかのように見えることをいう。
たとえば同じく蕪村の句の、
虫売のかごとがましき朝寝かな
も、虫売の朝寝しているのが、毎晩遅くまで商売するのでやりきれないと、不平のあまりであるかのように見える、という意味である。
朝露や村千軒の市の音 蕪 村
の句があるのに比べれば、「家百戸」がいかにも貧素なであることが明らかである。それなのに、一つの町としてのまとまった行事を思わす花火が、その空へ頻発することによって、「」も「湊(みなと)」であるかのような景観を呈したのである。
海上から、島、または岬近いを遠望した場合であろう。すぐれた場面をとらえていながら、説明に傾き、リズムの美が伴わなかったうらみがある。
季語は「花火」で秋。
「海岸に臨んで小さながある。ほんの百戸にも足らない貧しさだなと
思いながら眺めていると、そこから打ち上げられるのであろう、花火が
しきりにその真上の空で、華やかに開く。こうなると、このも、次第
にひとかどの船着場じみた感を帯びてきはじめる」
これ以上もう読めぬ本 終戦日 季 己