壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

がましき

2011年08月16日 00時01分23秒 | Weblog
        花火見えて湊がましき家百戸     蕪 村

 「がましき」は、実質はそうでないものが、一見そうであるかのように見えることをいう。
 たとえば同じく蕪村の句の、
        虫売のかごとがましき朝寝かな        
 も、虫売の朝寝しているのが、毎晩遅くまで商売するのでやりきれないと、不平のあまりであるかのように見える、という意味である。
        朝露や村千軒の市の音     蕪 村
 の句があるのに比べれば、「家百戸」がいかにも貧素なであることが明らかである。それなのに、一つの町としてのまとまった行事を思わす花火が、その空へ頻発することによって、「」も「湊(みなと)」であるかのような景観を呈したのである。
 海上から、島、または岬近いを遠望した場合であろう。すぐれた場面をとらえていながら、説明に傾き、リズムの美が伴わなかったうらみがある。

 季語は「花火」で秋。

    「海岸に臨んで小さながある。ほんの百戸にも足らない貧しさだなと
     思いながら眺めていると、そこから打ち上げられるのであろう、花火が
     しきりにその真上の空で、華やかに開く。こうなると、このも、次第
     にひとかどの船着場じみた感を帯びてきはじめる」


      これ以上もう読めぬ本 終戦日     季 己