述 懐
椎花の人もすさめぬにほひ哉 蕪 村
「椎の花」を持ってきたのは、明らかに芭蕉の、
先づたのむ椎の木もあり夏木立
世の人の見つけぬ花や軒の栗
を意識している。
両句の意味するものを一つにして、その上へ、自己の概念を通わし託そうとしたのであろう。
宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に起ち上がる、真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されない。この句は、「述懐」よりも「感想」に近いのではないか。
蕪村には別に、
枇杷の花鳥もすさめず日くれたり
の句があるが、枇杷の花そのものを詠ったに過ぎないこの句と、この述懐の句とは、用語も発想もリズムの密度も、全く同じであると言わざるを得ない。芭蕉の、
此道や行く人なしに秋の暮
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
の句はもちろんのこと、
能なしのねむたし我を行々子
の句が、人をうつ程度の真実さは、ほとんどここには見出され得ない。このような境地が、蕪村の境地でなかったというよりも、むしろ蕪村の偉大さは、このような境地とは本質を異にする別種の境地の芸術家であったところに存在すると言った方が早い。
「すさめぬ」は、「すさめる」(もてはやす、賞美する)の打ち消し。
季語は「椎の花」で夏。
「仮に我が身を花にたとえるなら、自分はまさに椎の花。世の人々に
賞美されるような、派手な魅力を持ち合わせていない。しかし、好
ましいにおいでなくとも、椎は椎独特のにおいを格段に強く発して
いるように、自分は天からあたえられた自分の性能を、自分なりに
発揮してゆくだけである」
入力の心そぞろに秋出水 季 己
椎花の人もすさめぬにほひ哉 蕪 村
「椎の花」を持ってきたのは、明らかに芭蕉の、
先づたのむ椎の木もあり夏木立
世の人の見つけぬ花や軒の栗
を意識している。
両句の意味するものを一つにして、その上へ、自己の概念を通わし託そうとしたのであろう。
宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に起ち上がる、真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されない。この句は、「述懐」よりも「感想」に近いのではないか。
蕪村には別に、
枇杷の花鳥もすさめず日くれたり
の句があるが、枇杷の花そのものを詠ったに過ぎないこの句と、この述懐の句とは、用語も発想もリズムの密度も、全く同じであると言わざるを得ない。芭蕉の、
此道や行く人なしに秋の暮
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
の句はもちろんのこと、
能なしのねむたし我を行々子
の句が、人をうつ程度の真実さは、ほとんどここには見出され得ない。このような境地が、蕪村の境地でなかったというよりも、むしろ蕪村の偉大さは、このような境地とは本質を異にする別種の境地の芸術家であったところに存在すると言った方が早い。
「すさめぬ」は、「すさめる」(もてはやす、賞美する)の打ち消し。
季語は「椎の花」で夏。
「仮に我が身を花にたとえるなら、自分はまさに椎の花。世の人々に
賞美されるような、派手な魅力を持ち合わせていない。しかし、好
ましいにおいでなくとも、椎は椎独特のにおいを格段に強く発して
いるように、自分は天からあたえられた自分の性能を、自分なりに
発揮してゆくだけである」
入力の心そぞろに秋出水 季 己