壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』1 続・蓬莱に

2011年08月06日 00時00分37秒 | Weblog
 ――「都からの便りとも、故郷からの便りともなっておらず、伊勢からの便りとありますのは、元日に蓬莱を飾るという風習が今ふうでなく、いかにも古式にのっとったものなので、そぞろ遠い神代の昔を思い出され、古代の神が鎮まります伊勢からの初便りを、早く聞きたいものだと、旅心が早くも心を動かし始めた気持ちを詠まれたものと拝察いたします」
と、申し上げ、追伸として
 「元日の床の間の古式ゆかしい蓬萊飾に向かって、静かに坐していると、そぞろ神代の昔、神々しい伊勢神宮の元朝のさまが思いやられて、伊勢からの淑気に満ちた、旅への誘いの初便りが早く聞きたくなって、そわそわしてくる」
という句意かと存じます、と書き添えた。

 間をおかずして、嵯峨野・落柿舎(らくししゃ)の去来のもとへ、師から返事が来た。
 「でかしたぞ去来。あなたの理解するとおりです。わたしが見込んだ甲斐がありました。あなたの上達ぶりには、たいへん驚きました。
 ここで一つ、あなたに教えておきたいことがあります。
 今日、この元日にあたり、伊勢の神々しい神域のさまを想い出し、一方では、眼前の蓬萊飾にある柑子から、慈鎮和尚の
        このごろは 伊勢に知る人 おとづれて
          便りうれしき 花柑子かな                 

を思い起こし、その歌の“便り”をふまえ、さらに歳旦ゆえ、“初”の一字を加えて詠んでみたのが、この句なのです。まあ、正直に言えば、この“初”のところが、いささか得意なのですが。
 いずれにしても、伊勢への旅に心を動かされる、わたしの思いの表れである、というところまで踏み込んで理解してくれたのは、あなただけです。よくぞ解ってくれました。非常にうれしく思います。
 この句のように、古歌などをとる場合は、古歌そのままではなく、一ひねりして、別の趣の世界を作りあげることが大切です。ここのところを、よくよく理解してください。ご健吟を祈ります」

 うれしかった。と同時に、去来は恥じた。
 慈鎮和尚の「このごろは」の歌は、当時よく知られていた。もちろん、去来も知っていた。知ってはいたけれど、気づかなかったのだ。
 「このごろは伊勢に知る人おとづれて 便りうれしき花柑子かな」から、「伊勢便り」を導き、歳旦ゆえ、歌にはない「初」の字を冠して、「伊勢の初便り」とし、その「初便り」によって、清浄で神々しい伊勢神宮の元日のさまを知りたいという、歳旦の気持を表したことを知らされたのだ。
 自分の気づかなかったことを教えられ、去来はいっそう深い理解に達した。

 “蓬莱”という眼前の具体的対象と、遠く離れた伊勢神宮の神域の心象とを取り合わせた、着想の妙。
 また“元日に”といわずに、“蓬莱に”と、具体的なものに己の実感を語らせたところが、この句の生命であることも、去来は覚った。
 やさしい柔らかな光が、去来をつつんだ。


      花ござの母九十の深ねむり     季 己