「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」 霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”東畑元農林次官の述懐―2
――アメリカの各省間で、ずいぶん縄張り争いがあったようですね?
「それはすさなじいもので、我々はよく振り回されたものです。こんなことがあったですよ。交渉も終盤に入り、ほとんどまとまりかけておった矢先に、急にFOAのスタッセン長官が日本の取り分枠に割り込んで対外活動本部予算を分捕ったと言うんですな。このしらせを聞いて、私は愛知団長と『これは交渉決裂もかくごせんとならんですな』とホテルで相談したですよ。1か月もワシントンにおって、吉田首相もきとったですから、それは深刻でした。そしたら、夜の11時になって、アメリカ農務省の何とか言う幹部とラジンスキーがホテルまでやってきて、『グッド・ニュース』だと言ったんですわ。『スタッセンの話をまたひっくりかえしたから安心しろ』と言って帰ったんですよ。
このラジンスキーという男は、マッカーサーの下で日本の農地改革をやった役人だから私もよく知っていました。とにかく朗報だと言うんで、すぐ愛知さんを起こしてね。夜の12時頃だったが、『大丈夫だ。決裂せんでいい』と話したら愛知さん喜んでね。『どうしてなんだ』と聞くんですよ。何でも農務省のベンソン長官が。『このままでは、日本との交渉は成立せんかも知らん』とスタッセン側をおどしたら閣議がひっくり返ったというんですな。まあ、大変な一夜でした」
――東畑さんは日本使節団ではどんな役割と権限を持っていたのですか。
「私は農林省の次官だったが、綿花(通産省所管)、葉タバコ(大蔵省所管)、学校給食(文部省所管)のそれぞれについて各省から委任を受けていた。団長はあくまで愛知さんだが、彼にはガリオア債務とか防衛問題など懸案の交渉事も多少あったから、余剰農産物受け入れについては私がもっぱら事にあたったわけです。愛知さんとはよく相談したものだ。『国防省に円を使わせるなら、駐日本米軍の住宅建設がもってこいだ。住宅なら米軍が撤退した後も使える』と言いだしたのも愛知さんだったね。交渉の最後に字句の修正でもめた時も二人だけで残りましてね。妥結書に『見返り資金は日本の産業開発に使う』と書いて有るんだが、これじゃ私は帰れない。英語で産業と言えば農業も入るが、日本語じゃそうはいかん。『農業をを含む産業開発』にしろとねばったんですよ。向こうじゃそんな英語あるものかと首を捻ったが押し通しました。おかしな英文だが、直訳調でindustry including agriculture と修正したのを見とどけて空港に駆けつけたら、もう飛行機は離陸寸前だったのですよ」
――今振り返って、余剰農産物協定をどう評価していますか。
「交渉から帰ったときも野党議員からつるし上げにあったが、私は日本農業を圧迫したとは思っていませんね。出発の時から農林省内ででは『あれだけ農業に専念してきた人が、最後に余剰農産物を買いに行くとは何たる因果か』と心配してくれる人もありましたがね。大和田啓気さん(現農用地開発公団理事長)も「えらい運命ですな。役人は」などと言ったもんです。しかしですよ。あの資金がなけりゃ愛知用水はスタートできなかったんですよ。八郎潟開発も、もっと遅れたかもしれない。あれだけ長期低利の外資導入を農業分野でやったのは初めてだったのです。私はその都市の12月に退官したけれども、その点だけは今でも誇りに思っています」
――あの頃、大量に入った小麦が今日の日本人の米離れの一因になったとも言われますが、・・・。
「それはあの贈与小麦でパン給食を推進したわけだから、私はその意味では責任の一端はあると思いますよ。しかし、あの時は不作で、職長輸入はどっちみちしなきゃならん時代だったですよ。これは責任転嫁じゃないが、ここまで農産物輸入依存を野放しにしたのは、その後の農政の誤りだと思いますね。
東畑四郎氏は最後はきっぱりとした口調で結んだ。氏はいま、米穀卸売業界の野リーダーとして米の消費拡大を推進する立場にある。かってない巨大農業開発とされた愛知用水は、都市化の中で工業用水と化し、もう一方の八郎潟では毎年のように青刈り騒動が繰り返されている。
――アメリカの各省間で、ずいぶん縄張り争いがあったようですね?
「それはすさなじいもので、我々はよく振り回されたものです。こんなことがあったですよ。交渉も終盤に入り、ほとんどまとまりかけておった矢先に、急にFOAのスタッセン長官が日本の取り分枠に割り込んで対外活動本部予算を分捕ったと言うんですな。このしらせを聞いて、私は愛知団長と『これは交渉決裂もかくごせんとならんですな』とホテルで相談したですよ。1か月もワシントンにおって、吉田首相もきとったですから、それは深刻でした。そしたら、夜の11時になって、アメリカ農務省の何とか言う幹部とラジンスキーがホテルまでやってきて、『グッド・ニュース』だと言ったんですわ。『スタッセンの話をまたひっくりかえしたから安心しろ』と言って帰ったんですよ。
このラジンスキーという男は、マッカーサーの下で日本の農地改革をやった役人だから私もよく知っていました。とにかく朗報だと言うんで、すぐ愛知さんを起こしてね。夜の12時頃だったが、『大丈夫だ。決裂せんでいい』と話したら愛知さん喜んでね。『どうしてなんだ』と聞くんですよ。何でも農務省のベンソン長官が。『このままでは、日本との交渉は成立せんかも知らん』とスタッセン側をおどしたら閣議がひっくり返ったというんですな。まあ、大変な一夜でした」
――東畑さんは日本使節団ではどんな役割と権限を持っていたのですか。
「私は農林省の次官だったが、綿花(通産省所管)、葉タバコ(大蔵省所管)、学校給食(文部省所管)のそれぞれについて各省から委任を受けていた。団長はあくまで愛知さんだが、彼にはガリオア債務とか防衛問題など懸案の交渉事も多少あったから、余剰農産物受け入れについては私がもっぱら事にあたったわけです。愛知さんとはよく相談したものだ。『国防省に円を使わせるなら、駐日本米軍の住宅建設がもってこいだ。住宅なら米軍が撤退した後も使える』と言いだしたのも愛知さんだったね。交渉の最後に字句の修正でもめた時も二人だけで残りましてね。妥結書に『見返り資金は日本の産業開発に使う』と書いて有るんだが、これじゃ私は帰れない。英語で産業と言えば農業も入るが、日本語じゃそうはいかん。『農業をを含む産業開発』にしろとねばったんですよ。向こうじゃそんな英語あるものかと首を捻ったが押し通しました。おかしな英文だが、直訳調でindustry including agriculture と修正したのを見とどけて空港に駆けつけたら、もう飛行機は離陸寸前だったのですよ」
――今振り返って、余剰農産物協定をどう評価していますか。
「交渉から帰ったときも野党議員からつるし上げにあったが、私は日本農業を圧迫したとは思っていませんね。出発の時から農林省内ででは『あれだけ農業に専念してきた人が、最後に余剰農産物を買いに行くとは何たる因果か』と心配してくれる人もありましたがね。大和田啓気さん(現農用地開発公団理事長)も「えらい運命ですな。役人は」などと言ったもんです。しかしですよ。あの資金がなけりゃ愛知用水はスタートできなかったんですよ。八郎潟開発も、もっと遅れたかもしれない。あれだけ長期低利の外資導入を農業分野でやったのは初めてだったのです。私はその都市の12月に退官したけれども、その点だけは今でも誇りに思っています」
――あの頃、大量に入った小麦が今日の日本人の米離れの一因になったとも言われますが、・・・。
「それはあの贈与小麦でパン給食を推進したわけだから、私はその意味では責任の一端はあると思いますよ。しかし、あの時は不作で、職長輸入はどっちみちしなきゃならん時代だったですよ。これは責任転嫁じゃないが、ここまで農産物輸入依存を野放しにしたのは、その後の農政の誤りだと思いますね。
東畑四郎氏は最後はきっぱりとした口調で結んだ。氏はいま、米穀卸売業界の野リーダーとして米の消費拡大を推進する立場にある。かってない巨大農業開発とされた愛知用水は、都市化の中で工業用水と化し、もう一方の八郎潟では毎年のように青刈り騒動が繰り返されている。
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