正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物交渉のその後―1

2010-09-09 | 食事教育
「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物交渉のその後―1
 「さて、話は戻るが、私たちはワシントンのアメリカ農務省の一室で、日米余剰農産物交渉のもう一人の当事者レイ・アイオアネス氏を待っていた。農務省の日本人のイソ氏がここで彼と会見する約束をとりつけてくれていたのである。
 アイオアネス氏は口笛を吹きながら部屋に入ってきた。フットボールで鍛えたという堂々たる体躯で、その目相手を威圧する鋭さを持っていた。部屋まで案内してきたドン・ルーパー課長が緊張して小さくなっている。聞くと、アイオアネス氏は数年前に退官するまで12年間も海外農務局長のポストにあり、アメリカ農務省の国際畑に君臨した大ボスであったという。日本にも10回ほど来たことがあり、グレープフルーツの対日自由化も彼がまとめたものであった。
 一瞬、気おくれがしながらも、「PL480について伺いたくて参りました」と切り出すと、「それもいいが、他にも私のやった業績がたくさんある。貿易自由化の日米交渉については聞きたくないのか」と不満げに、在任中の資料や写真をとり出した。その中に一枚の気になる写真があった。グレープフルーツの自由化が決まった時のものであろう。握手する二人の男が写っている。一人はサンキスト社の重役で、そしてもう一人は、53年の東京ラウンド交渉で名を馳せた牛場信彦元中米大使であった。

――余剰農産物交渉の模様を話していただけませんか。
「とにかく1ダース以上の国の代表がやってきたのだから、大忙しだった。東畑さんは強く印象が残っている。頑固な農本主義者という感じで、『日米双方の農業に、メリットになるようにしよう』バランス論をぶってきた。用水計画には特に固執していた。私の方としては、この円資金を使ってアメリカ農産物の市場開拓をやることに力点を置いていた。この点について東畑さんも理解と同情を示してくれ、協定の中に盛り込まれるようになった。この資金は後にオレゴンシ州の小麦生産者団体が栄養改善の運動などに使って、大変な成功を収めており、私は大いに満足したものだ」

――PL480の果たした役割をどう評価されますか。
「PL480は、単なる過去の法律ではない。1964年に、『平和のための食糧計画』と名称を変更し、いまなおアメリカの対外農業政策の重要な柱として継承されているものだ。
 この法律によって、初期の12年間に150億ドルの余剰農産物が処理された。これはその期間の全農産物輸出額の26%にも相当するものである。ドルがなくても買えるという道を切り開いたことにより、アメリカは海外の潜在需要を有効需要に転換させることに成功したのだ。しかも、その代金はアメリカの世界政策遂行に運用が出来たし、自由陣営諸国の経済強化にも役だった」

――余剰農産物の初期の受け入れ量は、日本が特に多いようですが。
「われわれは、余剰処理を各国一律に割り当てたわけではない。あの頃、日本に対してはアメリカの各省でやりたいことがたくさんあった。農務省でやりたいことはもちろん市場開拓である。そして日本側でも最大限の財政投融資の財源を要望していた。だから、日本に対しては一億ドルというずば抜けて高い額に決まったのだ。二番目はイタリア、ユーゴスラビアの6000万ドルで、その下になるとパキスタン、トルコの、3000万ドルだから、いかに日本に対して重きを置いたかが分かるだろう。
 日本は、そうしたわれわれの期待通りの成長を遂げた。PL480での買い付けはそのあと一回で卒業し、すぐさま現金買いの客に出世した。アメリカの下院が『日本の農業復興を助けてはならない』などと言ったこともあるが、それは杞憂だった。PL480の見返り資金が日本の産業開発を進め、今や世界的な工業先進国になったことは祝福すべきではないか」
 日米余剰農産物交渉は、若きアイオアネスにとって最初の檜舞台であった。その後はトントン拍子で出世し、次々と農産物貿易自由化を推進して行くことになる。一方、東畑四郎氏にとっては、この交渉が農林次官として最後の仕事になった。」


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