老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(1)

2009-09-12 13:47:00 | インポート

シュトルムの名作『みずうみ』の冒頭近くに、年老いたラインハルトが夕方の散歩から帰ってきて、玄関のわきの部屋の覗き窓から顔をのぞかせた家政婦に、
「明かりはまだいい」
と言うところがある。
手元にある新潮文庫の高橋義孝訳『みずうみ』(昭和28年8月31日発行、昭和42年5月30日26刷改版、昭和46年10月20日33刷)から引いてみる。

 ある晩秋の午後、身なりのきちんとした老人が一人、ゆっくりと道を下って行った。散歩を終えて帰るところらしい。昔はやった止め金つきの靴が埃(ほこり)をかぶっている。金の握りのついた長い籐(とう)のステッキをかかえている。(中略)老人はやがて破風(はふ)作りの高い家の前に立ち止まり、もう一度街の方を見やってから玄関に入って行った。玄関の鐘が鳴ると、わきの部屋の、玄関に向った覗き窓の緑のカーテンが掲げられ、年寄った家政婦の顔がさしのぞいた。老人は籐のステッキをあげて合図した。「あかりはまだいい」言葉には多少南の訛(なまり)がある。家政婦はカーテンを元に戻した。老人は広い玄関を通って、(中略)二階のドアを開き、ほどよい大きさの一室に入った。(中略)──老人は、帽子とステッキとを部屋の片隅に置いて、肱掛椅子に腰を下ろした。両手を組んで、散歩の疲れを癒(いや)そうとする風である。──その間、あたりの夕闇は色を濃くして行った。ついに月かげが窓ガラス越しに壁の絵の上に落ちた。明るい少しずつゆっくりと動いて行く月光を、老人はわれ知らず追っていた。と、飾りけのない黒い額縁に入った小さな肖像画が照らしだされた。「エリーザベト」と、老人が低く呟(つぶや)く。この呟きとともに時代が一転する。老人はいながらに幼い日々へとたち帰って行く。

この部分が、手元の岩波文庫の関泰祐訳『改訳 みずうみ 他4篇』(昭和28年2月25日第1刷発行、昭和34年1月10日第11刷発行)では、次のようになっている。

 晩秋のある午後のこと、みなりの立派なひとりの老人が、ゆっくり往来を下りていった。散歩のかえりと見えて、流行おくれの締め金つきの靴は埃にまみれており、金の握りのついた長い籐のステッキを小脇にかかえている。(中略)ついに彼は、とある高い破風造りの家のまえに立ちどまって、もう一度町をながめ、それから玄関へ入っていった。戸口のベルを鳴らすと、内側の部屋の、玄関に面した覗き窓の緑色のカーテンをわきへ押しのけて、そのうしろから婆やが顔をのぞかせた。男は籐のステッキをあげて彼女に合図をした。そして、
 「燈火(あかり)はまだかね!」
とやや南方的なアクセントで言った。家政婦はカーテンをもとのように下ろした。
 老人はやがて広い玄関を通り、(中略)二階のとあるドアをあけ、小ぢんまりとした一室に入った。(中略)老人は帽子とステッキを部屋の隅におくと、その肱掛椅子に腰をおろして、両手を組合せ、散歩のつかれを休めるように見えた。──こうして彼が腰かけているうちに、あたりは次第に暗くなって、ついに月光が窓ガラス越しに壁の画の上におちた。そしてその明るい一条の光がゆっくり動いてゆくにつれて、老人の眼は覚えずそのあとを追ったが、いまやそれが、黒い地味な額縁にはまった小さな肖像画を照らしたとき、
  「エリーザベト!」
と低くささやいた。彼がこの言葉を口にすると、たちまち時代は一転して──彼は少年の日の昔にかえった。


「あかりはまだいい」のところが、 「燈火(あかり)はまだかね!」となっている。つまり、前者は明かりを断っているのに対して、後者は明かりを催促しているようになっている。

ドイツ語ではどうなっているかをネットで調べてみると、“Immensee”の原文では、ここが、
  “Noch kein Licht ! ”
となっているようだ。ドイツ語をやったことのない私にはこれを見てもさっぱり分からないが、以前に見た英訳本には、
  “No light yet ! ”
となっていたように思う。この英訳は、「明かりはまだいい!」と言っているとみて訳しているのだろう。

ラインハルトが回想に耽っている間にも、家政婦は明かりを持って来ていないところから考えると、ここは「明かりはまだいい!」と取るのが適切なのではないかと思うが、どうだろうか。回想が終わって再び現実に戻る小説の末尾を、関泰祐氏の訳で掲げてみる。

 月光はもはや窓ガラスの中に差しこまず、部屋は暗くなっていた。しかし、老人は相変らず掌(て)を組合せたまま肱掛椅子に腰かけて、ぼんやり部屋のなかを見つめていた。すると、彼をつつんでいる薄闇が次第に眼のまえから消えて、暗い広々とした湖に変った。やがて黒い湖が、一つは一つよりいよいよ深く、いよいよ遠く、次から次へと現われた。そして老人の眼もとどかぬほど遥かな最後の湖上に、広葉につつまれて一つさびしく白い睡蓮が浮んでいた。
 部屋のドアがあいて、あかりが部屋の中にさしこんだ。
 「よい時に来てくれた、ブリギッテ」と、老人は言った。「燈火(あかり)は机の上においておくれ」
 それから、彼はまた椅子を机のところに引きよせて、開かれていた書物の一冊をとりあげ、曾て青春の力をそれにそそいだ研究にふけった。


岩波文庫の編集部で、ここを「燈火(あかり)はまだかね!」として出し続けているところを見ると、こういう訳も可能であるのかとも思う。あるいは、この訳の方が正しいのであろうか。
ここを、別の訳者がどう訳しているかを、そのうち調べてみたいと思っている。

──こんなことを考えたことがある。
外国のある作品、例えばこのシュトルムの『みずうみ』でも、ジイドの『狭き門』でも、テニソンの『イノック・アーデン』でも、サン・テグジュペリの『星の王子様』でも何でもいいが、誰かが、「あの本を翻訳で読みたいが、誰の訳がいいだろう」と言ったときに、誰もが、
 「あの本なら、そりゃあ何といっても○○の訳だよ」
と言って名前をあげる訳を、1冊だけでもいいから訳したいものだ、ということである。

もちろん、自分にはそんな実力はまるでないのだから、これは全くの空想でしかないのだが、もしどこかの国の言葉をマスターしてそういうことができたら、どんなにかいいだろう、と考えたのであった。
翻訳についての私の思いである。


  → 翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2)