老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(2)

2009-09-06 12:55:00 | インポート

問題の答えは、どうなったであろうか。おそらく、

  この行=確かなことでも確信なげに話せ。
  別の行=不遜なことばには弁護の余地がない。
  次の行=謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。


という答えになったであろうと思う。

ところで、問題はその先である。筆者フランクリンが「あまり適当でない」と思われるという並べ方で「彼」が並べた2行というのは、「この行」と「別の行」の2行であるから、その2行は、

(A) 確かなことでも確信なげに話せ。
   不遜なことばには弁護の余地がない。

だということになる。
この並べ方が「なぜあまり適当でないか」というと、「もとの二行をあげてみればわかる」と言って筆者があげたのは、次の2行である。

(B) 不遜なことばには弁護の余地がない、
   謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。

筆者フランクリンが「あまり適当でない」と思われると言う並べ方で「彼」が並べた2行(A)と、「もとの二行をあげてみればわかる」という「もとの二行」(B)とが、食い違ってしまうではないか。

一体、なにがおかしいのであろうか。

      *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

そこで、原文に当たって、この部分がどうなっているかを確認してみなければなるまい。今、“A PSU Electronic Classics Series Publication”というサイトから、“The Autobiography of Benjamin Franklin”の一節を
引用させていただく。

Pope says, judiciously:
  “Men should be taught as if you taught them not,
   And things unknown propos’d as things forgot;”
farther recommending to us
  “To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
And he might have coupled with this line that which he has coupled
with another, I think, less properly,
  “For want of modesty is want of sense.”
If you ask, Why less properly? I must repeat the lines,
  “Immodest words admit of no defense,
   For want of modesty is want of sense.”
Now, is not want of sense (where a man is so unfortunate as to want it)
some apology for his want of modesty? and would not the lines stand
more justly thus?
  “Immodest words admit but this defense,
   That want of modesty is want of sense.”
This, however, I should submit to better judgments.


問題の個所は、次の4行である。

  “To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
And he might have coupled with this line that which he has coupled
with another, I think, less properly,
   “For want of modesty is want of sense.”


この“this line” と“that” が何を指しているかが問題であるが、この部分を訳者はどうして「この行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当でないようで、むしろ次の行と並べたほうがよかったのではないかと思う」と訳したのであろうか。
ここは、「次の行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当でないようで、むしろこの行と並べたほうがよかったのではないかと思う」と訳すべきところではないか。つまり、筆者フランクリンは、

  彼(ポープ)は、
    不遜なことばには弁護の余地がない、(「別の行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」)    
  と並べているが、これはあまり適当ではないようで、むしろ、
    確かなことでも確信なげに話せ。(「この行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」) 
  と並べたほうがよかったと思う。


と言っている(書いている)のである。

私の理解では、
  “this line” =この行=“To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
         =確かなことでも確信なげに話せ。
  “that” =次の行= “For want of modesty is want of sense.”
       =謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。 

ということなのだろうと思うのである。 

そうすれば、「もとの二行」が   
    不遜なことばには弁護の余地がない、(「別の行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」)
であるから、矛盾は起こらないことになる。

念のために別の訳者による本文を見てみると、次のようになっている。
<『世界の名著 33』(中央公論社、昭和45年10月31日初版発行)所収の渡辺利雄訳「フランクリン自伝」>

 さらにまた彼は、

   自信をもっていても、外見は自信がないように話すことだ。

と勧めている。そして彼は、この一行を、

   謙遜の不足は良識の不足によるものだから。

という一行とならべて対句にすればよかったのだ。
 ところが彼は、それとは違う、そして私には適切だとは思われない一行とならべて対句にしてしまったのである。なぜ、それがあまり適切でないかと質問をする人には、もとの二行、つまり、

   不遜な言葉には弁明の余地は認められない、
   謙遜の不足は良識の不足によるものだから。 

という二行を引用するほかないだろう。(同書、89頁) 
 

つまり、この教科書が依拠した訳本が訳を誤っていたのを、教科書の編者が見落としたまま、教科書に掲載してしまったということであろう。それで、読んでも意味が通じない矛盾した文章になってしまったのである。

この教科書が依拠した訳本については、改めて触れたいと思う。


 『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(3)