老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2)

2009-09-15 19:48:34 | 日記

 お断り:この文章(翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2))を、引用書を増やして書き改めたものが、

  シュトルム『みずうみ』の“Noch kein Licht ! ”の訳について(書き直し)

にありますので、そちらをご覧ください。(2024年10月22日)


シュトルムは最近はあまりはやらないのか、文庫本の『みずうみ』を本屋で見かけることがない。

図書館に行って、『みずうみ』の “Noch kein Licht ! ”の訳に当たってみた。すると、大雑把に言って、次の3つに分けられそうである。

1.「明かりはまだかね!」と催促するもの。
  関  泰祐 訳 (岩波文庫『改訳 みずうみ 他4編』1953年 「燈火(あかり)はまだかね!」)
  川崎芳隆 訳 (思索選書『みづうみ』思索社、1949年 「灯(ひ)はまだかね!」)※
  岡本修助 訳 (シュトルム選集『湖畔 他4篇』郁文堂書店、1947年 「まだ、明りをつけないのかね!」)
  ※ 潮文庫(1971年・昭和46年)の川崎芳隆氏の訳では、「あかりはまだいい!」という訳になっているそうです(新潟大学の三浦淳先生のご教示による)。

2、「明かりはまだいらないよ!」と断るもの。
  高橋義孝 訳 (新潮文庫『みずうみ』1953年 「あかりはまだいい」)
  小塩  節 訳 (『ドイツの文学 第12巻』三修社、1966年 「まだ明(あ)かりはいらないよ!」)
  石丸静雄 訳 (旺文社文庫『みずうみ・三色すみれ 他1編』1968年 「まだ明(あか)りはいらないよ!」)
  田中宏幸(訳) (『シュトルム文学研究 日本シュトルム協会設立10周年記念論文集』1993年 所載の「『みずうみ』を読む」という文章の中に、 「まだ明りはいらないよ」とある。)
  加藤丈雄(訳) (『シュトルム・回想と空間の詩学』2006年 の中の文章に、「ドア越しの二人の間には、明りはまだいらないという老人の一言が発せられるだけで」とある。)

3.「まだ明かりはつけないのだね!」と確認する、中間的なもの。
  植田敏郎 訳 (世界の名作文学10 『みずうみ』岩崎書店、1975年 「まだあかりはつけないのだね!」)

さて、シュトルムはどういう意味でここを書いたのであろうか。まさか、お好きなようにお取りください、というわけでもないだろうから、このうちのどれかが適切な訳なのであろう。
この老人(ラインハルト)と家政婦との親密度(普段の親しみの度合い)や、老人の帰宅したときの心持ちなどを考えて、あとはこの言葉 “Noch kein Licht ! ” をどう解釈するか、ということになるのかと思う。

シュトルムの『みずうみ』は、かつては旧制高校あたりでドイツ語の学習教材としてよく読まれた作品だと思うので、この言葉の解釈については既にけりが付いているのかも知れない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。

    *  *  *  *  *

今日、『新潟大学・三浦淳研究室』というサイトの「音楽雑記2008年(2)」の8月8日(金)のところに、次のような文があることに気がつきました。(2009年9月16日)(なお、三浦先生の新しいブログは『隗より始めよ・三浦淳のブログ』です。)

 例えば冒頭近く、老人となったラインハルトが夕刻に散歩から帰宅して、玄関を入ったところで家政婦が顔をのぞかせたとき、「灯りはまだいい!」と指示するのだが、ここが関泰祐訳だとどういうわけか「灯りはまだかね?」となっている。まるで逆の訳をつけているわけだ。(原文は“Noch kein Licht!” sagte er ……) 

やはり、三浦先生がおっしゃるように、「灯りはまだいい!」「明かりはまだいらないよ!」と訳すのが正しいようですね。
どうして長い間、適切でない訳が訂正されないで読み続けられてきたのでしょうか。不思議な気がいたします。


→ 翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(3)   

 


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